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終わらない「その後」を終わらせない (2007年3月23日)

広島原爆の惨禍を描いた、こうの史代のマンガ『夕凪の街桜の国』を購入して読んだ。普段は本どころか雑誌も買わない。(図書館員がこれでいいのか、いや職場で借りれちゃうので買わずに済むからいいのだ?) 最後にマンガを買ったのはたぶん20年以上前の事。「マンガ界この10年の最大の収穫」とまで評価され、方々で上がる賞賛の声に押されるようにして購入に踏み切った由。

3本立てのストーリーは、原爆投下10年後の広島から平成の東京へと3代に亘るものだが、大河小説にも適するかと思われるドラマがわずか100ページ弱に集約されている。テレビドラマであれば物語の進行上、必要不可欠と思われるシーンが大胆にカットされているのはページの制約ではない。意図的なものだろう。60年に亘る歳月を全面的に叙述しようとはせず、3つの時代をピンポイントに設定することで、作者に代わって読者自身が物語に入り込んで時間を埋め合わせる作業に従事する。その代わり、3つの時代を繋ぐためのキーワード・ヒント・暗喩・伏線など、仕掛けがコマのあちこちに隠されている。サラッと読み飛ばしてしまえば、殆んどの人が気づかない様々なものに意味がある。この作品を取り上げたサイトではそれらを解読する事が多く行われており、そこがこの作者の面目躍如たる部分とも言える。

これら部分に意味を持たせる事で作品に「念」を込め、奥行きを与えようとするのは、マンガよりは映画に一般的に見られる作業のように私には思える。この作品も映画化が決定しているとか。しかし、映画版が同じような手法で観るものを引き込む事は難しいのではないか。マンガ(=デフォルメされた静止画+文字によるセリフ)だからこそ可能になっている「解釈の幅」を剥ぎ取ってしまう部分がありはしないか。例えば50年後に同じ場所でお茶を飲むシーンで使われる湯呑がどうやら50年前と同じ物らしいのだが、マンガではそうとは断言できない。だが、映画ではそれがハッキリと判明してしまう。押し付けがましいのだ。このマンガの持つ、飽くまで慎ましやかな美しさゆえの悲劇が伝わらないのではないかと思える。

この作品では、原爆投下直前から直後にわたるいわゆるグラウンドゼロの惨状は殆ど描かれていない。これはおそらく作者の「自分が原爆の直接の体験者でも被爆者の家族・遺族でもないという距離を保つ」という固い決意であるように私は解釈しているのだが、この手法が結果として、原爆の悲惨さを現代の我々に最も効果的に伝えることに成功させていると言っていいだろう。私自身母が広島で被爆しており、縁あって長崎にも長く住んでいた事もあって、事あるごとに写真や文章で原爆投下直後の阿鼻叫喚に触れる機会があったのだが、それでも正直言って、原爆は他人事のようにしか思えない。今『はだしのゲン』を読んでもたぶん「この人たちは可哀想だった」で済ましてしまうのではないか。現場を知らない者にどうやって悲劇を引き受けさせ、意識の変革を迫るのか。

核兵器の恐ろしさは一瞬の破壊力もさることながら「その後」にある。世代を超えて人々の平穏な暮らしを毒し、人生を狂わせる。こうの史代一世一代の名作は、終わらない「その後」の持つ意味をこれからも我々に問いかけ続ける原動力となるだろう。だが、マンガが世界共通の表現手段となりつつある現代においても、この極めて日本的な作風と手法が、国と時代を超えた普遍性を持つことは、ひょっとすると困難なのかもしれない。もしそうだとすればとても残念なことである。そうでないことを私は祈っている。

こうの史代/著 『夕凪の街桜の国』(双葉社 2004)[未所蔵]

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