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本を選ぶ 2008-05-26

本を買う。本を買うことは本を選ぶ事である。図書館において本を選ぶ事を「選書」と呼ぶ。選書する時に考えなければならない事はけっこう多いが、何と言ってもその本が、それぞれの図書館の持つ役割に見合ったものかどうかが検討されなければならない。公共図書館・大学図書館・専門図書館など館種によって図書館の存在意義や理想はそれぞれあるが、いずれも普遍的なものではなく往々にして議論の対象にもなるため、全くブレない選書の基準というのは中々打ち立てられる事がない。もしそれをもって全ての図書の要不要を万人が判断できる選書基準なるものがあったとしたら、その基準は存在価値がない。馬鹿げた例えだが「本文の出だしの文字が漢字であれば購入するが、そうでなければ購入しない」という基準は全ての図書を要不要の2つに峻別できるが、全く意味がないように。

たとえば「パソコン関係の書籍は新しくないと意味がない」ということで「情報科学・コンピュータに関する資料は最新情報の収集に努める」という基準を作る。分かりやすい。でも、そうするとコンピュータの誕生やコンピュータの辿ってきた歴史を扱った本は収集対象外になるかもしれない。それでは困る。古くなって使われないのは主にマニュアル類だから「ソフトウェアのマニュアル、活用方法についての資料は最新情報のみ収集する」とする。でも、もし1977年刊のアップル社製 AppleⅡ のマニュアルを所蔵していたとしたら、これはすでに歴史的価値があるので捨てられない。このように、考えられる全ての分野に関して考えられる限りの細かい基準を作っても、およそ「実用的」にはならない。目の前の1冊を図書館の蔵書にするのかしないのかの判断は、究極的には選書担当者が今まで業務(人生?)の中で培ってきた選書眼に委ねられる。いくら法令が整備されても最終的に裁くのは裁判官しかいないように。

今年度からはじめたポピュラーセレクションなる企画のために、有名作家の往年の名著を収集する事にした。現代小説に関しては、今までICU図書館では積極的な収集対象としていなかった。卒業生の著作や寄贈された作品などの例外はあるものの、教員や学生から研究対象としての要望がない限りいわゆる「小説」を買うことはなかった。図書館が購入する小説は、研究対象として授業ほかで必要とされる作品に限られていた。しかし、研究対象になる作品・作家とそうでないものは誰が区別するのだろうか。夏目漱石は研究対象になるが村上春樹はならないとすれば、何が両者を分けているのか。明治から戦後まで続いた「純文学と大衆文学」「芸術と通俗」という区別は、今や消滅している。サブカルチャーなるものがメインストリームに取って代わった今、『竜馬がゆく』も『青春の門』も『風の歌を聴け』もない大学図書館が若者に与えたい教養とはいかなる種類のものだろうか。そんな思いから始めたこの企画を進めるにしたがって、今まで意識していなかった、本に関する課題をいくつか発見することになった。

その中でも最たるものは、本の物理的な希少価値だ。リストアップした戦後の日本の代表的作家の作品のうち、ある程度時間の評価に耐えたと思われる作品を書店に発注してみて分かった事だが、半分近くの作品は品切れか、在庫があったとしても文庫本でしか入手できない。図書館で図書を購入する場合は、ハードカバーを基本にしているので、もっと早くから小説を購入していればと忸怩たる思いを懐いた。やむなく絶版になったハードカバーを入手するため古書店を探す。Amazonや日本の古書店、スーパー源氏などのサイトで比較的安価にオンライン購入する事もできるが、送料などを加味すると最低でも500円くらいする。それではと大手古本フランチャイズ店を巡って探してみた。文芸ハードカバーはかなり安く売られている。店によって品揃えは異なるが、小平市にある某店舗などは100円均一コーナーも充実している。多くは最近の実用書、タレント本などだが、時々掘り出し物に出遭える。先日はネットで1,000円近い値段で売られているものを100円で購入した。

地域のチェーン店を巡って集めた古書を棚に並べてみると、文庫版では得られない存在感とコレクションとしての充実感がそこに感じられる。この充実感は、まちがいなく本そのものが持つ物理的側面から発せられている。文芸書は学術書とは異なり、装丁にこだわる。本のサイズ、活字、レイアウト、使用する紙、表紙の用紙とデザイン、ジャケットの用紙とそのデザイン、帯の能書きなど、「本」は多くの出版関係者の創造力が結実したものである。演劇が脚本家や役者だけの作品ではないように、ハードカバーも作家だけのものではない。出版関係者全員の共同作業で紡ぎだす錦である。ハードカバーはそれ自身がひとつの作品だとも言えよう。我々はテキストからだけではなく、本という一つのパッケージを通じて、その時代の空気や価値観を感じ取り、またそれについて語ることができるのである。個人雑誌文庫でつとに知られる故大宅壮一氏のコレクションには、図書館選書担当者が決して掬い取ることのない一般大衆雑誌が大量に含まれている。ほとんどが読み捨てられてしまったこれらの雑誌は、いま過去を物語る貴重なコレクションとして文庫を唯一無二の存在にしている。

このようなある種コレクター的観点をもった出版物の収集と研究は、書誌学と呼ばれて立派な研究分野をなしているが、その対象は近世以前の古文書や古版本が主だ。現代文学の初版本などに興味を持つのは作家のファンか古書店くらいのものであろうか。しかし、ライトノベルやデジタル小説の台頭、元手のかからない文庫、新書の出版や素人文筆家による体験本、タレント本など売れ筋商品を多発する出版社、フランチャイズ古書店の盛況など、出版界を取り巻く環境の急速な変化によって文芸書が消費財化しつつある中で、「ちょっと前の文学本」の書誌学的価値は急速に高まりつつあるように感じるのである。たとえば、これら20年くらい前の本を開いていて気付かされるのは、多くが活版印刷(凸版印刷)であることだ。グーテンベルグ以来の鋳造活字を用いた凸版印刷は、現在オフセットを主流とする平板印刷に取って代わられている。書架に並ぶ書籍をざっと開いて見たのだが、見栄えを気にかけるであろう文学本でさえも1980年半ばから1990年にかけて、ほぼ全ての書籍が平板印刷に移行してしまった様だ。かつての活版の方が平板に比べて読みやすかったとか美しかったなどと言う人もいるが、必ずしもあたっていない。たとえば推理小説ノベルスなどは文庫本同様もとから「テキストの入れ物」だったので、活字ならではの美的要素はない。むしろ最近の平板印刷の方がフォント(字体)も進化しているし、すっきりとして読みやすい。しかしことハードカバーにおいては、金井美恵子『タマや』(1987)における信毎書籍印刷の美しい活版の仕事ぶりを目にした後、梨木香歩『西の魔女が死んだ』(1996)の、MSワードで作成した原稿をそのままコピー用紙に印刷したような、大手出版社による恥も外聞もない装丁とレイアウトを見ると、この10年の間に失われた写植文化、出版文化がどのようなものであったかを判然と知る事ができるのである。

出版してのち、年月が経てば経つほど価値の上がる本があれば下がる本もある。ポピュラーセレクションでは、すでにある程度価値の定まったもの、将来的にわたって評価されそうなものを購入している。今から数十年後に「よくぞこの本を買っておいてくれた」と評される事を秘かに期待して、選書を行いたい。学生のみなさんも単なるテキストの入れ物としてではなく、一冊一冊の本を作品として大切に扱って(ゆめゆめ紙上にコーヒーのシミなど作らぬよう)お願いしたい。

P.S. 凸版印刷がどういうものかは決してデジタル画像では分からない。書誌学においては現物だけが教師である。

『タマや』 [913.6/Ka44t] 『西の魔女が死んだ』 [913.6/N555n]

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