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『推理界』1969年8月号 2014-11-07

『推理界』1969年8月号です。版元は浪速書房といいますが、所在地は東京都千代田区。都筑道夫は、評論集『死体を無事に消すまで』(晶文社)中の同名のエッセイで、なめくじ長屋シリーズの「天狗起し」創作プロセスを公開しています。推理小説マニアの従弟が謎の部分を出題したのは2月の末だったが、3月末になっても妙案は浮かばない。4月の〆切りが近づくとまた頭をかかえた、がダメ。5月の〆切りが近づき、なにもひらめかないで困っているところへ知人が訪ねてきて、話をしているうちに、「できた!」。苦労したようです。
この知人は、同シリーズ連載誌『推理界』の元編集長、荒木清三だったと、光文社文庫版『からくり砂絵』の解説 東都生難物檀那(あずまつこぱずらあのおやだま)には書いてあります。「天狗起し」はこの1969年8月号に発表されました。

そこに同時掲載されているのが、平井呈一の「真夜中の檻」です。1960年作品の再録ですが、目次の扱いは都筑より大きく、「人の魂を圧するような暗い自然。北国の一村にしんと建つ不気味な〈おしやか屋敷〉。――おしやかとは「刑(おさか)」のなまったものであろうか。都会から来た青年を迎えた豊艶な色白の若い未亡人は、古風なぼんぼりに灯をつけて、寝室まで案内した……。恐怖小説の神髄を描いた二七〇枚の長編」と紹介されている。

解説を書いているのは紀田順一郎で、のち2000年に創元推理文庫版『真夜中の檻』が出たときにも解説を担当しました。序文は荒俣宏です。実はこのふたり、平井の弟子筋にあたる。
文庫版『真夜中の檻』巻末の東雅夫「Lonely Waters――平井呈一とその時代」によれば、紀田は昭和38年秋に、同人誌の顧問を依頼しに平井の自宅を訪れている。翌年、『ホラー The Horror』創刊。購読会員欄に、当時高校生だった荒俣の名前があるが、彼は、すでに中学生の時に、平井に弟子入り志願の手紙を書いていた。荒俣編著の『大都会隠居術』(光文社)は、「…実をいえば編者は永井荷風の"孫弟子"なのである。なぜに孫弟子を自称するかについては、本文を読んでもらうことにする…」として、紀田の『日記の虚実』(080.1/Sh/Ki12n)から「略して記さず――荷風『断腸亭日乘』」を長く引用しています。

それによると、平井は、『墨東綺譚』(b/913.6//N14b/1991)について書評を送ったのが縁で、永井荷風の知遇を得るようになります。荷風の短篇集『雪解』(b/913.6/N14y)のあとがきを書く、為永春水『春色梅ごよみ』の現代語訳を荷風名義で代筆する、ハーンの『怪談』の訳文に荷風の朱筆を依頼するなど、ひとかたならぬ交流だったようです。

岩波文庫版『怪談』(b/934/H511kwJ)の解説を、平井はこうこう締めくくっている。
「最後に、拙譯は永井荷風先生に請うて、その朱正を仰いだものである。先生は佛譯本と對校せられて、一々斧正の労をとつて下された。茲に記して永く御好意を銘記する次第である」

紀田順一郎は『永井荷風 その反抗と復讐』(913.6/N14Yk)に、「人づきあいの極度に悪い荷風が、平井にだけは一日おきぐらいに顔を合わせたり、わざわざ電話まで入れているという事実について、改めて考えなければなるまい。女性を除いて荷風の経験した最も濃密な人間関係であり、この意味からも平井程一は荷風日記中、もっとも重要な人物の一人ということができよう」と記しています。(注:程一は平井の本名)

同書の冒頭には、昭和12年から17年までの、二人の月ごとの交流頻度を示す棒グラフと、交流手段(荷風宅訪問、自宅外会見など6種)のパーセンテージを示した円グラフが、巻末には、11ページに及ぶ、日付・分類(会見、書簡、電話など)・目的/話題・同席者・会食先・備考、および岩波版全集参照巻ページを詳細に記録した「『断腸亭日乘』記載平井呈一関係データベース」が付されている。

別ちがたく思われた二人の交流は、しかし、平井が荷風名義の原稿や色紙などの偽作を売ったことが端緒となり、金銭問題も絡んで、
「夜平井程一氏来訪。(中略)實に嫌惡すべき人物なり。(中略)平井との交友もまづ今日が最後なるべし。余一昨年頃までは文學上の後事を委詫(ママ)することもできる人の如くに思ひ大に信用せしが全く誤なりき」
という仕儀に立ち至ります。(『荷風全集』第23巻(913.6/Ka14/v.23)所収の昭和16年12月20日付「断腸亭日記」)

さらに、白井なる人物の私生活を暴いたモデル小説『来訪者』(b/913.6/N14f)で筆誅を被るにおよんで、平井は立場を失う。1970年に筑摩書房から出た中野好夫編『明治文學全集48 小泉八雲集』(918.6/Me25/v.48)は、解題の末尾に、「本集のテキストに関しては、研究篇に収録した二篇を含めて恒文社版『全譯小泉八雲作品集』(全十二巻・平井呈一譯 昭三九・六~昭四二・四)を使用した。校訂に関しては、原本において、明らかに誤りと思われる部分については正し、本集収録にあたって若干手入れをした部分もある」(平井呈一記)と記してあり、あまつさえ、平井は小稿「八雲雑考」を寄せ、解題・年譜・参考文献のすべてを担当していますが、僅かに解題の序文(2段組み1ページ)を書いただけの中野が編者となっています。

紀田も荒俣も、永井荷風との一件について、平井から詳しいことは訊けずじまいだったのだが、やはり弟子筋に当たる由良君美が、東雅夫編『幻想文学講義 「幻想文学」インタビュー集成』(904/H55g)収録の「回想の平井呈一」(初出は『幻想文学』第4号)で触れているので、長いが引用する。

「…、怒られるかなと思ったんだけど、一度訊いたことがありますよ。「『来訪者』という作品はかなり本当ですか」って訊いたら怒らないでね。「本当といえば本当だし、嘘だといえば嘘だね」「虚々実々ってことですか」「そりゃそうさ」なんて言っていろいろ話してくれて。本当は荷風の代筆をしていたらしいね。荷風があんまり忙しいんで、「今こういうの書いてる、筋はこうこう、登場人物はこうこう、今はこういうとこまで書けてるから、次のところはこうなるように書きたいと思っているので、そういうふうに書いてくれ」、そうすると平井さんが荷風そっくりの字でね、荷風のスタイルでもって書くわけです。それに荷風がちょっと手を入れて渡すということをやっていた。そうしたら面白くなっちゃって、荷風が言うよりも先のことがどんどん自分の頭に出てきて、先を全部作っちゃったんだって。それを荷風の校閲を経ないで渡しちゃったらしいのね。そしたら荷風が烈火の如く怒って、大喧嘩になった。それを、荷風の判子まで偽造して売ったというように荷風は贋作事件にしたてて作品にした。判子云々は荷風のウソだけど、でもそうしなきゃ面白くならないよね、なんていって話してくれましたけど」

由良は元東大教授、英語科主任。初の著作『椿説泰西浪漫派文学談義』には、平井が共感きわまりない書評を寄せたそうです。1970年代には、独文の種村季弘、仏文の澁澤龍彦に匹敵する英文学者だった。その時期、教養課程2年生のゼミ説明会で由良に接してから、博士課程修了まで教えを受け、代筆などを頼まれたこともあるという四方田犬彦は、『新潮』(P/910.5/Sh61)2007年3月号に発表した評伝「先生とわたし」(のち単行本、新潮文庫)に、二人の師弟関係を克明に記している。

それによれば、1980年代に入っても、自分は弟子に恵まれたと述懐し、四方田などの名前を挙げていた由良は1984年、四方田の著作を、「すべてデタラメ」と評し、翌年は偶会した渋谷のバアで、「きみは最近、ぼくの悪口ばかりいい回っているそうだな」といって四方田の腹を殴りつけたという。さらに、『国文学』(P/910.5/Ko453)1988年2月号に、四方田の手紙を引用、公然と批判するに到るのだが、これって、どこかで聞いたような気がしませんか。

余談:
平井には双子の兄がいました。上野の老舗和菓子店「うさぎや」の主人、谷口喜作です。創業者とする資料もありますが、初代は富山県出身で、大正2年(1913年)現在地に開業したと、同店のホームページにありますから、あるいは二代目でしょうか。呈一兄弟は明治35年(1902年)神奈川県に生まれています。
初代が喜作最中を、三代目はうさぎまんじゅうを創案し、同店の名物となっていますが、二代目の手掛けたどら焼きも有名です。
阿佐ヶ谷駅北口にある「うさぎや」は、初代の娘さんが昭和23年西荻窪に店を構え、昭和32年に現在地へ移転したものだそう。

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