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ジョセフ・バンクス卿の生涯 - 18世紀の偉大な植物研究家・探検家 -

1991年12月11日に国際基督教大学図書館で行われた勝見允行名誉教授による公開講演の内容をまとめたもので、『国際基督教大学図書館公開講演集 第7集』(1993年3月)に収録されているものです。

ジョセフ・バンクス卿の生涯

-18世紀の偉大な植物研究家・探検家- 勝見 允行

Sir Joseph Banks [Carter, H.B. "Sir Joseph Banks; 1743-1820" p.178 より]

I. はじめに - バンクス植物図譜(Banks' Florilegium)について

 Sir Joseph Banks(ジョセフ・バンクス卿)の名は、日本ではほとんど知られていないといってよいであろう。バンクスは18世紀の英国に生き、自然誌(Natural History)の基礎を築き上げた巨人ともいうべき人である。あとで述べるように、バンクスは1768年から約3年間にわたるキャプテン・クックの第1回世界探検航海に、科学班の責任者として同行したが、多数の植物標本を収集し、また写生画を作成して英国に持ち帰った。バンクスはこれらの成果を出版するべく、帰国後ただちに1万ポンドの費用を準備し、ロンドンのソーホー地区にある自宅で、植物画の完成と、その彫版(銅版)に着手した。バンクスに同行した画家の一人であるシドニー・パーキンソン(Sydney Parkinson, 1745-71)は航海中に病死したが、はじめに訪れたマディラから南アメリカ南端のフェゴ島・南太平洋のフレンドリー諸島までの植物画はほとんど完成し、その後、ソシエテ諸島以降は採集植物の数がおびただしいたためスケッチしか残せなかった。バンクスは帰国後、フレデリック・ポリドア・ノッダー(Frederic Polydore Nodder)、ジョン・クリーブリー(John Cleveley)、ヨハン・フレデリック・ミラー(Johan Frederic Miller)とその弟のジェームズ・ミラー(James Miller)、トーマス・バージス(Thomas Burgis)等に依頼して、パーキンソンのスケッチ画をもとに彼のメモや持ち帰った標本を参考に植物画を描き直させた。1777年にはパーキンソン自身の完成画も含めた483点が仕上がり、その後さらに作業がすすめられて全部で753点が完成した。

 バンクスはこれらの原画をもとに彫版を作り、新植物記載の論文とあわせて図譜を出版するつもりでいた。そのために腕のよい彫版師を探したが、当時は有名な彫版師はすでに他の仕事に忙殺されており、英国には適当な人材が見つけられなかった。そこで、オランダからゲラルド・シベリウス(Gerald Sibelius)という彫版師をロンドンに招き、その他にダニエル・マッケンジー(Daniel MacKenzie)、ガブリエル・スミス(Gabriel Smith)、チャールズ・ホワイト(Charles White)、ジョン・リー(John Lee)、フレデリック・ポリドア・ノッダー等総勢18名がこの仕事に加わった。

 こうして、植物図譜出版のための銅版は完成したが、新種植物の記載のために、論文を作成していた、植物学者ダニエル・ソランダ一(Daniel Solander)(後述)が病死したためこの方面の仕事は中断されたこと、また、バンクスは王立協会(Royal Society)の会長職をはじめとして多くの事業や仕事に忙しかったこと、そしておそらく資金も不足したことなどから、結局は出版はされないままであった。バンクスの死後、大英自然誌博物館に移管され、保存されていたこれらの銅版を使って、1900-05年にジェームズ・ブリッテン(James Britten)が「キャプテン・クックの航海中、1770年に収集されたオーストラリア産植物図譜(Australian Plants Collected in 1770 during Captain Cook's Voyage)」という著作の出版のため、ロバート・モルガン(Robert Morgan)にこれらの銅版から石版をつくらせて印刷した。

 また、1973年には、ブラント(W. Blunt)とスティアルン(T.Stearn)の監修した「キャプテン・クックの植物図譜(Captain Cook's Florilegium)」の中に、オリジナル銅版から黒単色で30点の図譜が出版されている。

 1980年から90年にかけて、大英自然誌博物館の植物部門にいるハンフリーズ(C. J. Humphries)とディメント(J. Diment)の努力により、バンクスの残した銅版から彩色の図譜か出版された。実に彫版されてから200年たってからのことである。

 この印刷技法はヨハネス・ティラー(Johannes Teyler 17世紀)が開発し、18世紀末にバラの絵で有名なピェール-ジョセフ・ルドウーテ(Pierre-Joseph Redoute)が、ステップル画法に関連して再現したものといわれる。ステップル画法は輪郭のない植物画を描く技法である。こうして出版された図譜は17色多色刷で、印刷後に手彩色で細部を補っている。しかし「植物図譜の歴史」の著者であるブラントによれば、バンクス図譜の原画はスケッチ、完成画ともにかなり美しいが、彫版画は彫版師の意欲が感じられず、不愉快なほどであると言っている。一流の彫版師が得られなかったことによるのであろう。

 バンクスの図譜は、マデイラ、ブラジル、フェゴ、ソシエテ諸島、ニュージーランド、オーストラリア、ジャワ島に分けられるが、この中でオーストラリア、ニュージーランドが圧倒的に多い。

 今回の出版は、Alectro Historical Editions及びThe Natural History Museumが行い、100部だけの限定出版である。日本では、雄松堂書店が1990年1月にミキモト・ホールで、ソシエテ諸島の部分だけを展示し、ICU図書館がこれを入手したものである。その一部はこの部屋に実物が展示されているし、また後ほどスライドでお見せする。

Ⅱ. キャプテン・クックの第1回世界一周航海

II-1. 航海の自的と出発までの準備

ここで、バンクスの植物図譜のきっかけとなった、キャプテン・クックによる第1回世界一周航海のことに触れてみたいと思う。

 この世界一周航海には、三つの目的があったといわれている。一つは王立協会の希望によるもので、1769年6月3日に予定されている金星の太陽面通過の観測、二つ目は英国海軍省によるもので、当時フランスが太平洋海域に出かけて盛んに自国領の拡張をしていたことに対する対抗措置をとりたかったこと、そして、三つ目は新大陸の発見の可能性を探ることだった。

  1. 金星の太陽面通過の観測
     1639年に一人の聖職者が、金星が地球と太陽とを結ぶ直線を横切るのを観察したが、地球と太陽との距離を正確に測定することには失敗した。このような観測は、より正確な航海をするために必要であると信じられていた。この金星の横断は1761年にもあり、再び観測されたがやはり失敗に終わった。次の機会は1769年の6月であるが、これを見逃すと、あとは1874年まで待たないといけなかった。つまり1769年6月の観測は18世紀最後のチャンスであった。そこで王立協会では、1769年にはぜひ観測を成功させなければならないと考えた。1766年から観測地点について検討がなされており、太平洋上の島がよいということになったのであるが、これらの島々についての航海記録は当時まだ貧弱なものであった。クックの航海以前には、例えばスペインのTorresとQuiros(16世紀)が多くの島を見ているし、Tasman(オランダ)は17世紀半ばにタスマニアを発見し、ニュージーランドの西海岸を遠方より望み見ている。また、その後1764年に英国海軍省はドルフィン号とタマール号の2隻の船を世界就航に送っている。また、その2年後にSamuel Wallisを船長としてドルフィン号ともう1隻スワロー号(Carteret船長)を2度目の探検に送っている。いずれも、航海は失敗であった。しかし、WallisはTahiti(Otaheite)の位置確認には成功していた。そこで、観測はタヒチ島で行うということに決まったわけである。
  2. 未知の南太平洋の大陸
     当時、南太平洋海域には広大な未知の大陸があると信じられており「Terra Australis Incognita(The unknown southern land)」と呼ばれていた。王立協会のメンバーであったアレグザンダー・ダルリンプル(Alexander Dalrymple)は、当時南太平洋(South Sea)の最高権威者とされており、彼はそのような大陸の発見されることを強く主張していた。先のTasmanによる航海の時、ニュージーランドの西海岸を望み見たという報告が未知の大陸の存在の傍証ともなっていたわけである。その時、バンクスもこの見解を信じていた。

 王立協会は大きな影響力をもっていたが、金持ちではなかったので国王(ジョージ3世)に対して、4000ポンドと船の寄付を申請した。また、政府はこの計画を海軍省を通して支援することに決めた。これは、フランスの太平洋海域での勢力増加に対処するためであった。

 王立協会は、はじめダルリンプルが遠征の指揮をとることを許したが、海軍省はこれを拒絶し、当時一般には無名であったジェームス・クック(James Cook)を船長として指揮をとるように任命した。クックはそれまでに、カナダのキュベックへの遠征で海軍省には絶大なる信頼をおかれていた。未知の大陸の発見をも目的としながら航海するには、Rolling fortiesと呼ばれる南緯40~50度の海洋暴風圏帯のかなたの未知の海域へ立ち入らなければならない。そのような航海技術をもっているのは、クックしかないというのが海軍省の判断であった。

 王立協会がなぜバンクスを選んだかということは、はっきりと分からないが、一つには1万ポンドの費用を負担したということ、また、バンクスには王立協会で影響力の大きい知人・友人を多くもっていたこと、子供時代からの釣仲間で海軍省ににらみのきいたサンドウィッチ伯爵(Lord Sandwich)がいたことなどで、王立協会と海軍省の両方から支持を得ることができたといえよう。いずれにしろ、かなりのロビー活動をして自分が乗り込めるように運動したと考えられている。バンクスの科学班はバンクスを含めて10名であった(表1)。

表1 バンクスの科学班のメンバー
Daniel Carl Solander リンネの高弟、植物学者
Sydney Parkinson 植物画家
John Reynolds 植物両家
Alexander Buchan 風景画家
Herman Diedrich Sporing 科学関係の秘書役、デッサン画家
James Roberts LincolnshireのRevesly Abbeyの召使い
Peter Briscoe 同上
Thomas Richmond 黒人の召使い
George Dorlton 同上
2匹のグレイハウンド
Chades Green* 天文学者
*Royal Societyが任命。Cookと共同で金星観測にあたった。

 他に、各種の測定機器や生物収集のための器具・装置などをいっぱい持参した。Royal SocietyのFellowであったリンネの弟子John Ellisがリンネに送った手紙によると、「自然誌(探索の)目的のために、これほど適切な条件で航海に出かけた者はかつてなかったでしょう。彼等は素晴らしい自然誌の図書館を備え、あらゆる種類の昆虫採集と保存のための機器、あらゆる種類のネット、トロール網、地引網、珊瑚礁での釣のための釣針、水の中に入れて深いところの海底を見ることができる奇妙な装置の望遠鏡、動物をアルコール漬けにするためのいろいろなサイズの瓶、種子をくるむためのいくつかの種類の塩類、蜜ろうとヤマモモのワックス、そのうえ、この目的のためだけに仕事をすることになっている多くの人々がいます。……」と、書かれている。この探検行は史上かつてないほどよく準備され、整備されたものであったらしい。バンクスが、経済的に恵まれていたのでこのようなことができたのであろう。

 さて、クックはこの世界一周航海に出るにあたって、Whithy Collier(石炭船)"Cats" を要求した。この船は船脚は速くないが、非常に安定していて、航海力抜群な平底船であった。ペンブローク伯号と呼ばれていた船を使うことになり、エンディバー・バーク(Endevour Bark)号と改名され、通称エンディバー号と呼ばれた。船長106ft、368トン、最大幅29ft、深さ11ft、最大速度7ノットである。乗組員は総勢94名であった。

 クックは、エンディバー号航海日誌に、「まずOtaheite(Tahiti)に行き、そこで天文観測をしたあと、南緯40度まで進んで南太平洋で島が発見できるか試み、見つからなければ40~35度と西の方へ進み、ニュージーランドに着いて、そこで探検をしたあと英国へ帰る」と目的を書いている。

 王立協会はバンクスの科学班の同行に際し、次のような注文をつけている。土壌の性質、その産物、けものと家禽類、川や海岸で獲れる魚、どのくらいの量が獲れるか、鉱山を発見した場合は鉱物や貴石の標本を持ち帰ること。また、木、果樹、穀類の種子を集めて持ち帰ることなど。

 バンクスの出発に際しては、家族は大いに反対し、探検などの野望は抑えるように警告したが、バンクスは「愚かな者はそうするだろうが、私の大航海は全地球を一周することになるのだから」とコメントしただけであった。他方、彼は何人かの友人からいろいろのアドバイスも受けている。例えば、友人のトーマス・ペナント(Thomas Pennant)は、旅行中に描いた絵は帰国時に関税を払わなくても済むように本の頁の間にはさむこと、傘をたくさん持っていくこと、防水布のコートを持っていくこと、泳ぎのうまい猟犬を連れていくことなどを注意している。海軍外科医のナサニェル・ホルム(Nathaniel Holme)博士は壊血病に関する特別の研究をしていて、バンクスには濃縮したレモンジュースを多量に渡した。バンクスは航海中、壊血病の徴候があらわれると、これをブランデーに入れて飲んだようである。

 当時、長期航海では、新鮮な野菜の不足によって壊血病にかかる者が多く、これが大きな問題であった。クックは航海の間、生肉や塩漬けキャベツを食することを乗員に厳命した。これらを食すると壊血病から守られることをクックは知っていた。生肉を食べることを拒否した船員に対し、クックは鞭打らの刑を与えたほどである。そのためクックによる航海の間、壊血病にかかった者は1人もいなかった。クックの第2回世界一周航海の時は2隻の船で出かけ、1隻はハバイアス・ファノーが船長であった。彼は食事のことをうるさく言わなかったため、彼の船(Adventure号)では多数の壊血病患者が出たのに対しクックのResolution号には1人もいなかったといわれる。


II-2. マデイラ - リオデジャネイロ - フェゴ島

 さて、エンディバー号は1768年8月3日にテムズ川を下り、4日にダウンズで錨をおろし、翌日出航。14日にプリマスに着く。バンクスは陸路プリマスで合流して、船は8月26日にプリマス湾を出航した。

 9月13日、マディラ(Madeira)に寄港、6日間滞在。季節的には探索によい時期ではなかったが、300種以上の植物を収集した。バンクスとソランダー等は、採集した植物を保存したり記録したりするために、採集後すぐに大キャビンで夜明けから夕方まで作業を続けた。彼等は植物だけでなく、ボートで海に出たり、デッキから網を使ったりして海の生物を収集した。バンクスはいろいろなことに好奇心があったようで、例えば、なんでも食べてみることもしたようである。サメも捕獲して食し、結構うまいと日誌に書いている。

 2か月後の11月13日、船はリオデジャネイロ(Rio de Janeiro)に到着。ここで彼等は海賊と間違えられて上陸を許してもらえず、さんざんな敵対行為に出会った。3年前にドルフィン号とタマール号がこの地を訪れた時は、非常な歓迎を受けたと司令官のバイロンが報告していたので、クック等も同じように歓迎されるものと思っていた。交渉の末、やっと食料と水と燃料だけは補給できたものの、クック以外は船上にとどまらざるを得なかった。しかし、バンクスは数人のクルーと共に11月26日、キャビンの窓からロープで下のボートに乗って、警戒の船の音が聞こえなくなるまで暗やみの中を漂い、それから急いで海岸まで漕いだ。町はさけて通り、百姓たちとは親しくすることができ、いろいろなものを安く購入した。わずか数時間のあいだに植物・昆虫を採集し、鳥を撃ち、庭や畑で育っている農産物を調査した。また海岸の調査も素早くなし終えた。リオデジャネイロの大守(Viceroy)がバンクス等の上陸のことを知り、人をやって探させたが、その頃には無事帰船することができた。もし、捕まっていたらスパイとして投獄されていたことは間違いなかったであろう。ここでは315種類の植物を採集した。

 12月7日リオデジャネイロを出航。1769年1月14日にフェゴ島(Tierra del Fuego)に到着。バンクス等は早速ボートで海岸に行き、4時間ほどかけて100種類の植物を採集した。翌15日、クックは自分が命名した"Bay of Good Success"に錨をおろした。

 余談であるが、クックは新しい島や湾、海岸、村落など至るところで名前をつけ、国王の名において英国領であることを宣言している。今日、南洋諸島、ニュージーランド、オーストラリア等々で、クックのつけた名前がそのまま残っているところが多い。

 15日の午後、バンクスとそのグループは早速上陸した。そこで多数のインディアン(原住民)に出会うが、彼等は友好的でバンクス等を招いてくれさえした。彼等はバンクスが生まれて初めて出会った野生の原始的な人種であったようである。バンクスとソランダーは、このような時のために、自国からガラス玉やリボンなどをたくさん持参していったので、これらを彼等にばらまいた。そのため、何人かはボートでクックの船にまでやってくるほどだった。

 バンクスはさらに詳しくフェゴ島を探求するため、ソランダー、バンクスの召使いリッチモンドと2人の水夫を引き連れて、山の方へ採集旅行に出かけた。下からは草のように見えた山の植物は腰までの高さの固いブナの木で、歩くのに難渋した。高山植物を求めてさらに登っていくうちに天候が悪くなり、雪が降り始めて結局野宿をすることになってしまった。何人もが疲労と寒さのためにたおれ、火を焚いたりして助けを待った。黒人の召使いのリッチモンドと水夫たちは持参したラム酒をあおって雪の中に寝込んでしまい、結局リッチモンドと水夫1人は死亡することになった。たいへん危険な採集旅行であったが、バンクスだけは独り疲れを知らず、多数の植物の採集に成功した。

 バンクスは日誌にこのように書いている。「見かけと形とはヨーロッパの植物とよく一致するが、種の数が多く、白い花が多い。しかし、これらの植物は、かつて見たこともないものであるし、あまりにも異なっているものが多いので、私達は、創造の無限の多様性に驚くことに倦きなかった。そして、神の摂理(providence)が、その創り出したものを(productions)、さまざまな気候に合うようにデザインして、繁殖させている無限の心くばりに敬服した」。


II-3. ソシエテ諸島

 1月21日に出航し、ケープ・ホーン(Cape Horn)に向かい、27日にはケープ・ホーンを回った。バンクスは、2月初め、フェゴ島ではなんともなかったのに、胆汁症を伴う病気になった。ウォーリス船長が1766-67年にドルフィン号で航海した時と同じような病気にかかり、その後ずっとからだの具合が悪かったことを知っていたので、バンクスはとても心配した。しかし、まもなくよくなったらしい。なぜなら、2月5日には2日前に撃ったアホウドリ(albatross)を料理して食べたと日誌に書いてあるからである。さきほどのサメの場合もそうであるが、彼は目新しいものを味わってみるのにとても関心が高かったようである。アホウドリのレシピーは次のように書かれていて、とても美味しいものだと皆に推奨した。「皮をはいだ胴体を一晩塩水に入れておいたあと、湯通しして、水を捨てる、そこでごく少量の水で十分に煮込んで柔らかくなったら、風味のよいソースをかけて食べる」。

 さて、ソシエテ諸島で最初に目撃されたのは小さな島のバヒタヒ(Vahitahi)であった。 エンディバー号は島々の間を回り、4月13日にタヒチ(Otaheite, George's Land, King George III Island)のマタライ(Matarai)湾に錨をおろした。タヒチには、1767年にウォーリス船長によって発見された直後の1768年にも、フランスの探検家ブーゲンビル(Bougainville)が訪れているので、タヒチ原住民は非常に友好的であった。

 クックのエンディバー号がマタライ湾に停泊すると、たちまち原住民はカヌーで押し寄せ、ココヤシ、パンの木の実、魚を満載して物品交換を求めた。バンクス等はこれらの品々をビーズと交換した。

 バンクスは、生物学上の宝庫が彼を待っていたばかりでなく、ゆっくりと時間をかけてエキゾチックな住民と会い、調査することができるのでまさに有頂天であったようである。

 タヒチ人は人なつこく、酋長たちとは社交上の宴を何度も持った。また女性も魅力的で、エンディバー号の乗員は度々誘惑された。バンクスは島のプリンセスであるオベリア(Oberea)にぞっこん惚れられてしまって、このことは帰国してから、ロンドンでは巷の戯れ歌にまでうたわれたほどである。

 タヒチ原住民は、他人の物を盗ることには全く罪意識はなかったらしく、クック等の一行はよくポケットからすられた。その他にも、船や野営テントからもいろいろなものが盗まれた。バンクスもオベリアと一緒に寝ていた時、ぬいだ服を誰かに持っていかれてしまい、取り戻すのにひと騒ぎしたことが日誌に書かれている。一番大きな出来事だったのは、金星観測用に持参した四分儀が盗まれたことであった。たいへん苦労して、やっとバラバラにされた四分儀を回収したが、幸い観測には支障をきたすことはなかった。

 クックの航海の目的は、このタヒチで金星の観測を行うことにあったので、天文学者のグリーンと協力して、Point Venusの近くのViapopou川の土手に観測のための設営が行われた。観測は成功した。しかし、結果的には前回の成果の域を出るものではないことが後で分かった。これは、当時の観測の機器の精度が悪かったことによるものである。

 タヒチにおいて、バンクスにとって大きなショックだった出来事は、風景画家のブーチャン(A.Buchan)がテンカンの発作で亡くなったことである。そもそもテンカン持ちの人を連れて長い船旅に出たというのが不思議な気がするが、当時はテンカンなどはあまりたいしたことではないと考えられていたのかもしれない。

 写真がなかった時代、景色や民族衣装や人の姿などを記録するには画家に描かせるより他に手段がなかったので、バンクスはブーチャンの死について日誌の中で、「ブーチャンの死は自分にとって取り返しのつかない出来事である。私は、ここでこれから見ようとしている景色を、英国の友人にも楽しんでもらおうと思っていたのに、その夢は消え失せた。絵で説明しないかぎり、とても言葉では十分に説明ができない。神がせめてもう1か月彼に命を与えて下さっていたらどんなによかったろうに」と書いている。

 バンクスは原住民と仲良くし、大いに信頼を得ていたようで、クックは物品交換やその他の交渉はバンクスにまかせてしまった。そのため、バンクス自身が採集などの仕事に出かける時間が少なくなり、他のメンバーがその分余計に仕事をせねばならなかった。それでも、タヒチを離れる1か月ほど前に、クックとバンクスは小グループで、島をボートと足で探検する1週間ほどの旅行をした。バンクスは島民の文化と習慣について多くの資料とデータを収集した。彼は、タヒチ島民の社会的、宗教的、政治的構造、彼等の衣服・食物、工芸品、ボートや家をつくる技術、必要な会話のための言葉について情報を収集した。彼の仕事は、植物学者・動物学者としての能力だけでなく、人類・民俗学者としてもすぐれた能力のあったことを示すものである。

 バンクスは、リオデジャネイロから持ってきたスイカ、レモン、ライム、オレンジなどの種子をまいて、果樹園を作ろうとしたが成功せず、マスタードだけはなんとか育った。彼自身は栽培家としての技術はすぐれていなかったかもしれないが、有用な植物を移植して役立てたいという考えは、彼の植物採集の基礎をなす考えの一つであった。タヒチはハエが多いところで、仕事の邪魔になるくらい多かった。画家が紙に絵を描く片はしから絵の具を喰ってしまうし、もし、魚を描くとすれば写生よりもハエを追い払うことの方が大変なくらいであった。皿にモラスやタールを入れて、トラップを作ってもみたが全く効果はなかった。

 タヒチでも、バンクスの食物に対する好奇心は旺盛で、犬も食べてみたようである。生の魚も、発酵したココヤシを海水で練ってスムースなのり状にしたものをソースとして食べることも真似てみた。はじめは、いまわしいほど吐き気をもよおしたが、最後には好きになったと日誌に書いている。吐き気をもよおすものを好きになるまで試みるというのは並みたいていのことではない。彼はまた、帰る頃には自分の歯でグリーンのココヤシの皮をむけるようになったと言っているが、これも原住民の習慣を真似たものであろう。なんでも原住民のやっていることを真似てみる、食べてみるという経験をするのは、バンクスが人類学者や民俗学者としての基本的な素地をもっていたことを示しているのであろう。ただ一つ、タヒチの婦人が好んで食べる腐ったクラゲだけはどうしても駄目であった。これを食べた女性と一緒にいるのはとてもかなわないと言っている。

 さて、クックの一行は7月13日にタヒチを出航。原住民との別れは大変なものであったらしい。クックの船員の中には、タヒチの女性と逃亡して帰ってこなかった者もいたほどであるが、結局は連れ戻されてしまった。

 タヒチは楽園であったようである。船は航行を続け、7月17日にはHuahine島のFare Bayに錨をおろした。ここの住民は、タヒチ人よりもずっと恥ずかしがり屋であった。

 クック一行はさらに8月の半ばまでソシエテ諸島を航行し、機会あるごとにバンクスとソランダーは、島々での習慣を調べ、植物を採集した。


II-4. ニュージーランド

 ソシエテ諸島に別れを告げて「南洋大陸」に向かってから、バンクスもソランダーも病気になり、薄い酸液(thin acid liquid)を吐くようになった。これは壊血病の徴候の一つである。船医のモンクハウス(Monkhouse)は彼にホルム博士のレモンジュースを飲むように指示した。

 その頃、船には塩漬けのブタ肉と牛肉、乾燥エンドウはあったが新鮮な食物はなかった。ビスケットはゾウムシがいっばいついて、オーブンで温めると1枚のビスケットから数百から数千の虫が出てきたことをバンクスは観察している。彼は生物学者らしく、5種類のゾウムシを同定し、あるものはビスケットを食べるが、別の種類は他の虫の卵を食べるということも観察している。

 1769年10月6日にニコラス・ヤング(Nicholas Young)という少年が船上より陸影を見た。この少年のあだ名は若造ニック(Young Nick)といったので、クックは早速この岬にYoung Nick's Headという名を与えた。バンクスは、これこそまぼろしの「南洋大陸」と考えた。しかし、近づいてみると、それは大きな島であることが分かった。ニュージーランドの存在は、126年前にタスマンがこの島の西海岸を見ているだけで、これまでに誰も上陸した者はいなかった。

 10月8日にエンディバー号はある湾に錨をおろした。バンクスは、この島がタヒチよりずっと大きいので、そこにはもっと文明のある原住民が住んでいると想像した。しかし、この湾では原住民マオリ族との間に3回にわたる戦闘があり、いずれもマオリに数人の死者が出た。クックはできるだけ殺傷はさける方針で、よほどのことがないかぎり火薬を使って原住民に発砲することはなかった。結局、上陸をあきらめ、この湾を去ったが、クックは「この湾はわれわれの欲するものを何も与えてくれなかった」という意味で「Poverty Bay」と命名した。

 その後、あちこち周航して原住民がTolaga Bayと呼んでいるところに停泊した。ここのマオリは友好的で物品交換ができた。バンクスは今まで全く知られていない植物・昆虫・鳥・動物がたくさんいて、それらを採集することに有頂天になった。彼は、ここのマオリはタヒチ原住民に比べて、より清潔できちんとしているという印象をもった。3~4住宅ごとに共用のトイレがあり、その付近は清潔に保たれていることを観察している。

 11月4日には、水星が太陽面を通過するのでそれを観測するため、クックがMercury Bayと名付けた地点に上陸した。ここはPurangi川が海に注ぎ込むデルタ地域であった。マオリは決して友好的ではなかったが、それでも物品交換はできた。他に、野生のセロリーを多量に見つけ、新鮮な野菜として補給された。11月9日に水星観測は成功し、バンクスとソランダーたちは植物採集に専念できた。新鮮な食品がそろそろ不足してきたので、バンクス等は鵜を20匹ほど仕留めて食べてみた。あまり評判はよくなかった。しかしバンクスは、飢えていればそれがよいソースになるだろうと言っている。

 11月14日には、出航前なので全員が海岸に行き、カキ、野生のセロリー、ロブスター(バンクスはこれまでで最大で最高のエビであると言っている)をできるだけ多く集めた。

 11月15日にMercury Bayを出航。マオリはだいたい行く先々で非友好的であり、攻撃をしかけてきたが、Hauraki Gulfではバンクス等は歓迎され、彼等はそこに注ぐ川を探検することができた。川の土手に生えている巨木を調べる機会があり、バンクスは「松のようにまっすぐで巨大な樹であるから、ニュージーランドはマストの木を切るには理想的な場所である」として、のちのち推奨している。

 マオリは当時、食人肉の風習をもっていた。バンクスはかねがねそうではないかと疑っていたのであるが、Queen Charlotte Soundと名付けたところにいた時、それを確認する証拠を得ている。11月16日の夕方のことであった。バンクスとソランダーとタヒチから連れてきたタヒチ人トウパイア(Tupaia)と共に、小人数の人夫を伴って陸にいた時、原住民の家族が夕食の準備をしているのに出会った。それは主に犬で、土器のオーブンで焼かれているところだった。その近くにバスケットがあり、その一つに2本の骨があるのをバンクスが見つけた。その骨はきれいな骨であったが明らかに人骨であった。骨には歯でかんだ痕さえあった。そこで、バンクスはタヒチ人の通訳を通して、何の骨だと尋ねたところ人間のだという答えが返ってきた。さらに、肉を食べたのか聞くと、そうだということであった。マオリ原住民は、敵を倒したあと、その肉を食べることがあったようである。さらに、陸を歩いていくと、女の身体が水に浮いているのが見つかった。彼女は一部を食べられ、身体を海にほうむる目的で捨てられたのであるが、身体を沈めるためにつけた石がはずれて浮いてきたということである。彼女は、そこにいた原住民家族の親戚らしく、5日前に敵のグループがこの湾にやってきて、戦闘があり、7人が死んだらしい。その1人を食べたということである。こういう話を聞いて、たいていのことでは驚かない水失たちも吐き気をもよおした。


II-5. オーストラリア

 1770年の2~3月にかけて、エンディバー号はSouth Islandの回りを順調に航海していた。バンクスは、先にも述べたようにダルリンプルの南洋大陸説を信じていたので、この陸地がその大陸の一部であると信じていた。しかし、クックは全く否定的で、最後にはバンクスもクックに同意することになった。

 英国を出発してよりすでに2年の航海をしていたエンディバー号は、4月19日の朝、オーストラリアの海岸を望み見ることになる。New South Walesである。

 4月27日に上陸。そこでアボリジニー(原住民)に出会った。彼等は臆病ですぐ隠れてしまい、なかなか出てこなかった。バンクス等はアボリジニーは危害を加えることはないと安心して大いに採集行で楽しんだ。バンクスによれば、アボリジニーはおそらく世界中で最も文明化されていない土人であると記している。ある夜のこと、クックとソランダーが明かりのある方へ出かけると、原住民は逃げてしまったが、貝を料理している最中だったので彼等はそれを食べてしまった。しかし、お礼にとビーズやリボンを残してきたこともあった。

 この湾は、330ポンド(約160kg)もあるアカエイが獲れたりしたので、クックは、はじめ、アカエイ湾(Stingley Harber)と名付けたが、あまりにも多くの珍しい植物が採集できたので、変更してBotany Bayと呼ぶことになった。現在のSydneyの近くである。

 とにかく珍しい植物が多く、採集した植物はあまりにも多くなったので、はさみ帳の中で悪くなってしまわないようにと、200帳にもなるはさみ紙を陸に上げて干したりした。ここで、バンクスはツルナ科のTetragonia expansa(ハマヂシャ)という野生のホウレン草(New Zeeland Spinachと呼ばれ日本にもある)を採集して、つけあわせにして食べたところうまかったので、後に英国に紹介している。

 5月23日にはBustard Bayに上陸。ここでも非常に多種の植物を発見。マングローブの湿地にもトレッキングして、毛虫、昆虫、蟻を観察した。ユーカリ、特にEucalyptus crebra(フトモモ科、リュウケッジュ)を発見した。これはガム様のSanguis dracoris(dragon's blood)を生じ、セラック(シェラック・ワニス)の生産に用いられた。

 バンクスの食欲はあいかわらず旺盛で、ノガンを捕らえて食している。5月24日の日誌には、「本日撃ったノガンを食した。素晴らしい鳥であることが分かった。英国を離れてから食べた最高の、烏だということで皆の意見は一致した。1羽15ポンドもあったので、うまかったばかりでなく腹もいっぱいになった」と書かれている。彼等はここでペリカンを見て捕らえようとしたが、人見知りしすぎで結局標本は入手できなかった。

 次の寄港地は真水がなかったため、Thirsty Sound(渇きの入江)と名付けられたところである。バンクス等は、釣のついた種子が身体や衣服についたり、大群の蚊に悩まされたりしながら探検を続け、新しい植物や蝶を採集した。特に、蝶はべらぼうに多く、3~4エーカーの空間は蝶で埋まっており、しかもどの木も蝶でいっぱいであった。木の上で1匹の蛹を見つけ、船に持ち帰って羽化させた。蛹はとても光沢のある銀色で、まるで銀メッキしたみたいに輝いていた。翌日羽化すると、青色に変わるベルベット・ブラックで、翅の表裏ともふちの付近に淡い硫黄色の斑点が多くあり、下翅のものは、それぞれの末端で深く刻みこまれていた。バンクスが非常に珍しく思った魚はムツゴロウ(mud-skipper)で、詳細な観察が記録されている。

 6月11日夜11時過ぎ、エンディバー号は座礁。ポンプで水をかい出すが間に合わずまさに絶望的で、バンクスは大切な物をボートに早く移したいと思ったほどであった。しかし、クックはきわめて沈着な態度に終始し、的確な指示を与えて、なんとか離礁に成功した。しかし、船底には穴があき、大きな修理を必要とするため、あちこちの場所を探してやっと手頃な河口に投錨した。ここは、クックによりEndevour Riverと名付けられ、現在のCook Townである。

 バンクス等はここで初めてカンガルーを見た。カンガルーを見た水夫は「グレイハウンドくらいの大きさで、ねずみ色をしてとても素早い」と言っている。また「大きさも形も1ガロン樽くらいで、悪魔のように黒く、頭に二つの角をもっており、ゆっくり移動する」動物を見ているが、たぶんこれはfruit batと思われる。その他、ワニ、ディンゴ、ワラビーなどが目撃された。

 船の座礁で船底に穴があき、塩水が入りこんで、パン貯蔵室に保管してあった植物標本が水浸しになってしまったため、バンクスは処置に大わらわで、陸やマングローブ林の探検の機会を逸してしまった。「誰もこんな危険があるかもしれないと教えてくれなかった」とこぼしている。実際、採集した植物の一部は駄目になってしまった。

 7月の初めに船の修理は完了したが、また水漏れが見つかって、出発を延期することになり、バンクスにとっては植物採集や探検のチャンスが得られることになった。この期間にカンガルーを多く見、実際に彼等が跳ぶのを初めて目撃した。そのうちカンガルーを撃ち止め、船に持ち帰り十分調査したところ、ヨーロッパの動物とは似ても似つかぬもので、比較のしようがないことが分かった。有袋類はオーストラリアで発見されたもので、ヨーロッパにはいないからである。バンクスは、そのあと、例によってカンガルーの肉を食べ、よい肉であると言っている。バンクスはここで、flying foxやきわめて美しいハイビスカスの一種、ハマイチビ(Hibiscus tiliaceus)を含む多くの植物を見つけた。また、原住民の観察もでき、民俗学的にも自然誌的にもこの地域を徹底的に調査することができた。


II-6. ニューギニア―バタビア

 8月10日やっと出航。翌日、クックとバンクスは小さな島に上陸し、海岸の様子を見るため高いところまで登った。多くのトカゲがいたので、クックはLizard Islandと名付けた。

 9月3日、クックはバンクスとソランダーと共に数時間だけ、ニューギニアの離れた海岸に上陸した。彼等は早速、60~100人の原住民に囲まれ攻撃を受けたので、鉄砲で威嚇して退けた。そこには、ココヤシの実がなっていたが木の高いところにあったので、グループのメンバーがこれを切り倒そうとした。しかし、クックはこれをとどめた。原住民の大切な食料に被害を与えてはいけないと考えたからであった。クックは、環境破壊や原住民の生活をおびやかしたり、むやみに殺戮したりすることを絶対に許さなかった。 見識の高いキャプテンであったといえる。植物は23種だけで、全部バンクスの知っているものばかりであり、あまり探索の価値はないと判断し、早々に船へ引き揚げた。ニューギニアにはパンの木、ココヤシ、料理用のバナナ(plantains)など有用な植物があるのに、オーストラリアにこのような植物が生育していないのは、両国の原住民の間のコミュニケーションがないからだと考えた。9月16日夜、Aurora Australisを初めて見た。

 次の寄港地は、当時オランダ東インド会社の支配下にあったサウ島(Savu)で、ここでは原住民の歓迎を受けた。大量の生肉、果実、野菜を購入。さらに航海を続け、10月1日ジャワ岬を通過。その後、風と潮流に進路をはばまれ、やっと10月9日にバタビア(現在のジャカルタ)に到着。ここはリオデジャネイロを離れて以来の文明都市であった。

 バタビアは当時、地球上で最も不衛生な都市として知られていた。オランダ人は、平らな低地帯の故国の都市をモデルにしてこのバタビアを建設した。中心になる通りにはそれに沿って運河をつくった。これが間違いであった。北半球のアムステルダムの涼しい気候と異なって、熱帯の湿度の高い風土では、この都市計画は全くの失敗であった。運河は信じられないくらい汚れており、およそ考えられ得るありとあらゆる塵芥にあふれ、腐敗していた。したがって、蚊、病原菌の培養基のようなもので、マラリア、赤痢は猖獗をきわめた。バンクスによれば、オランダからの駐屯部隊100のうち、年の終わりまでにほぼ50の部隊が死亡し、25部隊は入院、完全に近いといえるのは10部隊以下というすさまじい状態であった。クックの一行も、多くの者が病気にかかった。バンクス自身も、召使いのピーター・ブリスコウ(Peter Briscoe)、ジェームス・ロバーツ(James Roberts)そしてソランダーもマラリアにかかった。残念なことに、バタビア滞在中、船の外科医のモンクハウスもタヒチから連れてこられたトウパイアと子供のテイト(Tayeto)も死亡した。


II-7. 帰国

 エンディバー号はクリスマス直後にバタビアを出航したが、その時すでに乗員7名死亡、40余名が重病であった。バタビアから喜望峰への11週間の航海は絶望の期間であった。バタビアを出た4週間後、海兵隊員1名死亡。次の週には10名死亡。その中に天文学者のグリーンと画家のパーキンソンがいた。翌2月までにさらに20名死亡。結局、航海が終わるまでに38人が死亡した。壊血病にかかった者は1人もいなかったのに、バタビアに寄港したばかりにこのような結果になってしまった。

 3月14日CapeTown着。ここでもバンクスはいろいろと探査した。バンクスは、南アフリカの女性にひどく魅力を感じたようである。日誌にはこのように書かれている。「一般に、彼等は美人で、色つやのよい肌をしていて、生き生きとした顔色で、結婚すると最高のハウスキーパーとなり、多くの子供を育てる。妻が欲しいとすれば、ここが私には一番合ったところだと思う」と言っている。

 ところが、バンクスには実は婚約者がいた。リオデジャネイロを発って以来、エンディバー号については何の音沙汰もなかったので、英国ではこの船は沈没したのではないかと噂されており、可哀相なフィアンセも心を痛めていた。帰国間近いというのに、バンクスは彼女のことは全く忘れてしまっていたらしい。日誌にも彼女のことは、何も書かれていない。

 彼女の名はハリエット・ブロセット(Miss Harriet Blosset)といった。英国を出発する前、あるパーティーでブロセット家とたまたま一緒になった。3人の娘がいて、長女は背が高く美人で少し高慢、一番下の娘は地味で精彩がない信心深いメソジスト。真中は可愛く気紛れであるが、派手すぎることはない。バンクスはこの真中の娘にに一目惚れし、旅立つ前夜にはロンドンでLa Buona Figliuola(Wiccol's Piccinni)というオペラを一緒に観て、夕食を共にした。ついでに話しておくと、バンクスは帰国してからハリエット嬢に会おうとしなかった。彼女は彼のためにチョッキを作って待っていたのに、バンクスはさらさら結婚は考えていなかったようである。彼には前からMiss B-Nという愛人がいたようであった。ロンドン子はバンクスの情事やブロセット嬢のことをいろいろと噂にした。

 エンディバー号は7月12日午後3時、約3年の航海を終えてDealに帰港。バンクスとソランダーはまさに時の人であった。

 航海中に収集した植物標本は3万382点で、約5000種に及び、そのうち1400種が新種であった。いかに成果が大きかったかが分かるであろう。この他に、哺乳類5種、鳥類107種と1000種以上の昆虫、鳥などの動物標本を持ち帰った。また、ありとあらゆる記念品、民俗資料の他に、パーキンソンの描いた1500枚の動植物の絵も持ち帰った。これらは今でも英国自然誌博物館に保存されている。

 王立協会の会長であるジョン・プリングル卿(Sir John Pringle)は、バンクスとソランダーの二人をKing GeorgeⅢに紹介した。その後、バンクスは国王にプレゼントを贈ったり、航海の話をしたりして、King GeorgeⅢとバンクスとの間には永続的な友情ができあがった。国王は、農業と植物、特に食料や各種生産物の素材となる、社会にとって有益な植物に対して多大の関心をもっていたことがバンクスと共通しており、これが二人を結びつけたものであろう。

 滅多に人をほめたことのないサミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson)は、バンクスとソランダーの二人とは非常に楽しく話をしたようである。もっとも、ジョンソンのボウズエル(James Bowswell)に宛てた手紙のなかには、「あのような探検は、その過程に知的なものがないので私には関心がない」などと言っている。

 亡くなった画家シドニー・パーキンソン(Sydney Parkinson)の兄のスタンフィールド(Stanfield)は、無教養で性質が悪く、バンクスに対して、シドニーの描いた絵の所有権を主張したりした。しかし、これはもともとシドニーがバンクスに雇われて描いたものであるから、筋は通らないのであるが、それでもバンクスは、スタンフィールドに約100ポンドの手当を出してやったりした。

 バンクスはソーホーにある自宅で、これらの資料を保管し、専門の人を雇って整理させた。また、世界中の人々にこれらの資料の利用を許した。

 ちなみに、18世紀は各国で多くの人たちが世界に向かって植物や動物を求めて探検に出かけた時代であった。(表2)

表2 18世紀の主な博物収集・探検行
フランス アダンソン 1749-59 西アフリカ・セネガル
コメルソン 1766-71 世界周航(ブーガンビルに同行)
ソンヌラ 1768-78 マダガスカル島・ニューギニア周辺
イギリス ショウ 1727-42 北アフリカ
ロクスバラ 1766以降 インド
パンクス 1768-71 世界周航(クック第1回周航に同行)
フォルスター父子 1772-75 世界周航(クック第2回周航に同行)
ロシア グメリン, J. G. 1733-45 シペリア
グメリン, S. G. 1768-74 南ロシア・ペルシア
パラス 1768-74 南ロシア・シペリア
オーストラリア ジャカン 1754-59 西インド諸島
スウェーデン リンネ 1732 ラップランド
カルム 1747-51 北アメリカ・カナダ
フォルスコール 1760-63 アラピア(ミハエリス教授の探検隊の一員)
ツユンベリー 1771-78 日本

Ⅲ.キャプテン・クックの第2回世界一周航海とバンクスのアイスランド探検

 第1回の航海が終わって1年もたたないうちに、2回目の世界一周航海が計画されることになった。その一つの目的は、第1回の航海で、クックは南洋大陸の存在を否定したけれども、さらに南まで下がってもっと確証を得ることが求められたからである。バンクスも王立協会、サンドウィッチ伯の支持を得て、再び科学班を率いて行くことになった。しかし、バンクスは自分が指揮権を持ち、クックは船のドライバーにすぎないというように振舞ったため、いろいろ問題が起きた。バンクスは16人を下らないグループを構成した。ソランダーと著名な画家のジョン・ゾファニイ(John Zoffany)、他に3人の絵描き、2人の書記、9人の召使い、そのうち2人は自分の気分転換のためのホルン奏者であった。

 今度は2隻の船で行くことになったが、クックはやはりWhithy Collierを選んで、それぞれリゾリューション号(the Resolutions)とアドヴェンチャー号(the Adventure)と名付けられた。クックはリゾリューション号の船長であった。

 バンクスは、この船は小さすぎると文句をつけたが、海軍省はそれをはねつけた。しかし彼はなお、膨大な科学器具や自分の部下たちのためのスペースが足りないとして、船尾の若干の改造を要求した。これは不思議にOKが出て、実現された。しかし、改造された船はきわめて不安定になってしまい、海軍省はバンクスの意見も聞かずに、これを撤去してしまった。バンクスは怒ったが、海軍省は今度の遠征はバンクスー人のためにやるものではないことをバンクスに通告することになった。その間、サンドウィッチ伯との間には気まずいことも生じたようである。

 バンクスは、かっとして計画を中止してしまい、自費でアイスランドの探検旅行に出かけてしまった。第2回世界一周航海のためには新しい科学班が編成された。リーダーはドイツの博物学者ジョン・ラインハルト・フォースター(John Reinhart Foster)で、博物画家として息子のジョージ、風景画家としてウィリアム・ホッジス(William Hodges)、天文学者ウィリアム・ウェイリス(William Wallis)が加わった。

 クックは第1回の航海から帰って1年と1日後(7月13日)にアイスランドヘ向けて出航することになった。なお、クックは第3回世界一周航海にも出たが、この時はハワイにおいて原住民に殺されるという悲劇的結末となった。

 他方、バンクスはSir Lawrenceという帆装船(Brig)を1か月100ポンドで4か月間チャーターして、キャプテン・ハンター(R. N. Hunter)と12人のクルーで出発した。バンクスのグループには次の人たちが加わった。モアランド(Moreland〕:彼は庭師で、生育している植物はすべて採集し、できたら種子を集めることが任務であった。ドネツ(Anthony Donez):彼はコック。ジェームズ・ロバーツとピーター・ブリスコウの2人の召使い:彼等はエンディバー号にも同行した。ジョン・ゴア(JohnGore):彼はエンディバー号の士官であった。及びアレキザンダー(Alexander):バタビアから連れてきたマレー人の召使いであった。

 一行は1772年7月に出航し、同年11月にロンドンに帰着した。アイスランドでは、植物採集、Icelandic manuscripts(後にBritish Museumに寄贈)の収集の他、自然現象、古器物(遺物)を調査した。また、火山Mt.Heklaにも登り、溶岩を採取して、船のバラストとして持ち帰った。これは、Chelsea Physic Gardenに置かれた。この旅行でバンクスは、オランダとイギリス間の戦争に巻き込まれたりした。バンクスは、後にバンクスの跡を継いでKewGardenの園長となった若き植物学者ウィリアム・フーカー(William Hooker)に会い、フーカーはバンクスの庇護のもとにおかれることになった。


Ⅳ. バンクスの生い立ちと生活

 以上、バンクスの植物図譜に因んで、クックの世界一周航海に同行したバンクス等一行の採集・探索活動やそれに伴う出来事をざっと述べてきた。

 バンクスはこの後、王立協会の会長や、キュー・ガーデン(植物園)の責任者などとして、

18世紀の英国での自然誌発展に多大なる貢献をすることになった。バンクスがどのようにして、自然に関心を向けるようになったか、そして、具体的にどのようなことをしたのかということについて述べてみる。バンクスの生い立ち、彼の生活に沿ってバンクスの果たした役割を紹介してみたい。

 1702年、NottinghamshireのScoftonに住んでいたジョセフ・バンクス1世(Joseph Banks, the First)、バンクスの曾祖父は、ジョージ・ハンブル卿(Sir George Humble)からLincolnshireのオランダ領を9000ポンドで購入した。さらにその後、1714年にはRevesby Estateを1万4000ポンドで購入、1721年にRevesby Parkを柵で囲んだ。そして、1726年にはMarsh Estateを入手した。ジョセフ1世は、GrimsbyとTotnesの議員となったが政治的にはあまり活発でなかった。彼はRevesby Abbeyの領地と家とをこよなく愛して、その地方の歴史の研究に熱中した。この情熱が曾孫のバンクスに引き継がれたと思われる。彼は1727年に62歳で屋根から落ちて死亡。

 ジョセフ2世は、Royal Societyの特別会員(Fellow)になったが45歳で死亡。政治家であった。その長男のジョセフ3世は20歳で早世。次男ウィリアムが跡を継いだ。政治家。しかし、彼は農業、特に沼沢地の干拓に関心をもち、専らLincolnshireのRevesbyの家にとどまって、LondonのArgyll Streetにある家には議会のあるときしか行かなかった。

 ジョセフ・バンクスはウィリアムと妻サラ(Sarah)の長男として1743年にArgyll St. で生まれた。結婚して2年目であった。

 ジョセフは少し大きくなると、Revesbyに連れていかれ、9歳までLincolnshireで育てられた。大きな農場、河、小川、神秘な泉、森、ヨシの茂る不気味な沼沢地に囲まれて育った。彼は自由気儘に、釣竿を持ち、鉄砲を持ち、犬を連れて毎日が遠足であった。彼は釣がとても好きであった。隣人のサンドウィッチ・アール4世(Sandwitch Earl, the Fourth)とは特に仲がよかった。彼等はよく一緒に釣をし、友情は晩年まで続いた。

 彼は野生を好んだため、本を読むことが嫌いだった。9歳の時、父ウィリアムは彼に紳士としての教育を受けさせることにし、Harrow校に入れた。しかし、学校での勉強ぶりはぞっとするほど悪く、3年を待たずしてEalon校へ転入学させられた。しかし、Eatonでも学業は改善されなかったばかりか、遊ぶことばかりに熱中した問題児だった。学校では古典の文学作品を読むことが中心で、ホーマー、ルシアン、ヴィルジル、ホーレス、オーピット、さらにはミルトン、ポープも加えられた。バンクスはこれらのことには全く関心を示さなかった。しかし、彼は学生仲間に人気があった。勇気があり、剛健だからである。バンクスが特に好んだのは水泳であった。この水泳好きが、ほとんどポウロの改宗に匹敵するくらいに、彼の性格を転換させる動機となったのである。すなわち、バンクスは粗野な田舎紳士から、熱心な科学者であり鋭い時代の観察者に変わることができた。

 後年、バンクスの医者であったばかりでなく、生涯を通しての最もよき仲間の一人であったイブラード・ホーム卿(Sir Everard Home)の語ったところによると、「なぜ急に変わったかというと、ある夏の宵のことです、他の少年と一緒にいつものように川で泳いでいたところ、あまりにも長く泳いでいたので、水から上がった時には他の友達はすでに去った後でした。そこで私は小径に沿ってブラブラと歩いていると、その傍らには、花々が美しく植えられていました。立ち止まって何気なく調べてみると、思わず“美しい”と叫んでしまったほどでした。私が、ラテン語やギリシア語よりも、これらの自然の造形物を知りたく思ったのは当然のことです。ラテン語やギリシア語は父親の命令であり、それには従わねばなりませんでした。しかし、これらのいろいろな植物は、私自身の楽しみと満足のために慣れ親しみたかったのです」とバンクスは述懐している。そして、彼はただちに植物学を独学で勉強し始めた。

 Eatonで数学と地学は教えられていたが、植物の勉強はできなかったので、薬種商や薬剤師に用いられるハーブを栽培していた老婦人たちと仲良しになり、1件につき6ペンス支払うという条件で、植物に関する有益な情報を教えてもらった。こうして、彼は植物に関する百科全書的な知識を増やしていった。Revesbyに戻った時、母の衣裳室にあったGerraid's Herbalという版画付の植物の本を持ち帰り熱心に読んだ。バンクスは学校では植物や昆虫採集に熱中し、植物腊葉標本や昆虫標本を熱心にこしらえていた。

 ある時、天然痘(Small pox)の治療をするためRevesbyに帰ったところ、症状がひどくて、 ベッドに寝ていなければならないほどだった。そこで快復した頃には、バンクスは学校へ帰る気をなくしてしまった。考えた末、彼はOxfordに行き、Christ Churchの特別自費生(Gentleman Commoner)になった。1760年18歳のときであった。OxfordとCambridgeではふつうの自費生(Commoner)に比べて、G. C. は高い授業料を払う代わりに、学生服、食堂のテーブルが別で、講義出席も免除されるという特典があった。

 当時、オックスフォードにはハンフレイ・シブソープ博士(Dr. Humphrey Sibthorp)が植物学の講座の教授であったが、過去35年間に1度だけ植物について講義しただけといわれていた。だから、彼にはバンクスのような若い金持ち学生の気紛れを満足させてやるつもりは毛頭なかった。バンクスは他に植物学の講義をしてくれる人を探したがいなかったので、仕方なくCambridgeに行き、そこでマーティン博士(Dr. Martyn)という植物学のProfessorに会い、彼から若いユダヤ人のイズラエル・ライオンズ(Israel Lyons)に話してみろと言われた。

 ライオンズは4歳の年上であったが、すぐに二人は意気投台し、お互いに切磋琢磨した。ライオンズは数学もまた得意で、後にキャプテン・フィップス(Phipps,Capt.the Hon. Constantine, R. N.)の北極探検の天文学者として同行し、惜しくも若くして死んだ。

 二人はOxfordに帰り、バンクスはライオンズのもとで植物学と自然誌(Natural Hislory)を勉強する学生のグループを組織した。資金のあるバンクスがパトロンとなった。

 バンクスはそこで科学的なトレーニングを受けた。1761年に父ウィリアムの死。しかし、21歳(1764年)になるまでは法的に遺産は相続できなかった。母親のサラは家を売り払い、チェルシー(Chelsea)に新しい家を求めた。これは後のKewGardenの前身となるChelseaPhysic Gardenのすぐそばにあった。1763年、バンクスはRevesbyに移り住み、そこで自然誌の研究に没頭するようになる。

 バンクスはOxfordを離れる頃までに、将来自分のやるべきことについて決心をしていた。彼のやるべきことは、自然誌の科学(Science of Natural History)の発展のために、植物・昆虫・動物・その他なんであれ、新しい価値あるものを求めて、探検・遠征を行うことであった。大学を離れてからは、このことの準備のために、多くの時間を費やした。

 Chelsea Physic Gardenは、すぐれた植物学者で古典的な名著Gardener's Dictionaryの著者である、フィリップ・ミラー(Phillip Miller)が管理人であった。バンクスは家の近くでもあるのでたびたびここを訪れ、ミラーと友情を築き、この庭園にある外国植物の大きなコレクションを自由に勉強することを許された。バンクスはさらに、当時の自然誌研究家(Naturalist)とできるだけ関りをもつように努め、科学に対する理解を大幅に広げていった。そして、1766年4月、これらの友人の支持によって、バンクスはRoyal Societyの会員(member)に任命された。23歳であった。

 この年、バンクスはエスキモーの地である、NewfoundlandとLabradorへの探検を決行した。バンクスにとって初めての探検行であった。親族、友人がすべて反対したのを押し切っての探検行であった。しかし、この探検行は科学的な目的で計画されたものというよりは、むしろ状況の結果といった方がよいかもしれない。

 バンクスの母はモラビア教会(Unitas Fratrum, Hussによって始められた)の熱心な信者であった。この派の人々は、プレシプテリアンのように、極端に道徳的な生活を求めた。「聖書が私達の唯一の信仰と実践の規範である」としている。しかし、ボヘミア地方では迫害にあい、他国へ逃れて、ヨーロッパの各地に定住した。英国には1735年にやってきた。他方、異邦人ではあったが兄弟団(The Brethren)が、Newfoundland及びLabradorの重要かつ豊富なタラ漁業を支配することが、英国民にとってきわめて有益であるとキャンペーンしていた。夕ラは、乾燥魚や肝油などの需要が人口の増加と共に増えていて、タラ漁は、英国の経済にとっては緊要なことでもあった。同様なことはフランスについても言え、フランスの漁民はこの海域に停泊し、漁業をする権利を確立しようとしていた。

 1760年頃までに英国はupper landに近づいていたが、最も肝要なことはEskimoの心をつかむことであった。ここにモラビア人たちがやってきたのである。兄弟団もキリスト教をEskimoにもたらすべきと決めていた。1752年にモラビア教会のグループはLabradorに宣教師を送り、Eskimoとの接触をはかった。その後も1764年、65年と再度試みたが成功しなかった。しかし、この海域におけるモラビア教会の影響は永続することになった。

 バンクスは特に宗教的な人間ではなかったが、モラビア人の高い道徳的水準を尊敬し、キリスト教をLabradorとNewfoundlandという住みにくい土地へ伝えようとする彼等の努力を尊敬していた。

 バンクスはエスキモーのことを聞いたり、大氷陸のこと、植物と動物が自然のままにおかれている土地のことを聞くにつれ、どうしても探検してみたくなったというわけである。

 サンドウィッチ伯と、Eaton時代の友人で海軍大尉(Lieutenant)となっているコンスタンチン・フィップスは、バンクスの考えに賛同し、海軍の船で行くことを示唆してくれた。

 1766年4月7日にロンドンを発ち、プリマスからThe Niger号で出航した。トーマス・アダムス卿(Sir Thomas Adams)がキャプテンで、バンクスとフィップスは定員外だった。アダムスは1765年にモラビア人をLabradorに連れていったことがあった。

 航海の間にバンクスは病気になった。しかし機会あるごとに海の動物、昆虫等を採集し、また途中の寄港地では植物採集を行った。プリマスから20日後にNewfoundlandのSt. John'sに到着。1万人のフランス人と3万人の英国の漁師が住んでいた。バンクスによれば、St. John'sは“The most disagreeable town 1 evermet with”(今まで出会ったうちで最もがまんのならない町)であった。なにしろ、すべてが魚臭く、牛は魚の臓物を食べるので、ミルクも魚臭い、ということであった。フランスとイギリスの漁民の対立も激しかった。

 10月28日、St. John'sから出航。バンクスは植物・動物・岩石・鳥類・貝類などの収集物のみならず、なんでも珍しいものは記録した。食事のことやその他風習に至るまで。船はリスボンに向かったが、途中嵐にあい、デッキに置いた種子を入れた箱と植物の箱は駄目になったが、その他のものは助かった。11月17日にリスボン着。6週間滞在。そこでは、ドミンゴ・ヴァンデリ(Domingo Vandelli)とホアオ・デ・ルオレイロ(Joao de Luoreiro)という指導的な植物学者に会い友情を築いた。彼等とはその後、標本の交換を続けることになった。国際的な学問的交流の始まりである。彼はまた庭園をいくつか訪ね、英国植民地の自然誌協会(Natural History Society)の会員になった。バンクスは、いかなる政治的野心も持たなかったし、政党にもくみしなかった。彼は、政治が異なっても、国境があっても、科学情報の自由な交換には全くさまたげにならないと確信しいていた。

 1766年11月末、バンクスは多くの成果をもってロンドンに帰着した。彼は航海中に、Royal Societyの特別会員(Fellow)に選ばれていた。23歳であった。金持ちだからという批判もあった。確かに当時のFellowには貴族が多かった。しかしNew Foundland/Labradorでの収集の成果が知られるようになると、バンクスは一流の野外収集家(Field Collector)として認められるようになった。北海への探検行はバンクスの自然誌研究家(Naturalist)としてのキャリアの第一歩であったといってよいであろう。

 バンクスは帰国後、New Burlington St.に新しく家を購入し、そこに定住することとなった。

 1767年2月15日、バンクスは初めてRoyal Societyの会合に出席している。

 バンクスはぶっきらぽうで、エネルギッシュで、直截的であったため、粗野のように見え、敵をつくったりしたが、彼はきわめて開放的人間であり、自分の収集品は決して独り占めせず、他人に利用させることにきわめて寛容であった。

 バンクスは、その後Walesやその他の地方にも探検旅行に出かけて、その地方の農業や漁業や墓石、城の廃墟に至るまで、なんでもつぶさに観察し、日誌に記録した。また収集も続け、外国との交換も増えて、収集物はどんどん蓄積していった。

 クックの世界一周航海に同行して帰ってから1年後にはIcelandに探検に出かけた(前述)。

バンクスは、LondonのSohoの自宅を私的な自然誌博物館として、その研究の場として、世間の人々にこれを開放した。収集したものは植物標本から他の物品に至るまで、科学者に対して、また旅行者や探検家にも開放した。彼は決して、これらの収集物を私的な趣味的なコレクションとはしなかった。バンクスは、これらのものは万民の共通の財産であり、研究の対象として平等に取り扱われるものと考えた。誰でも自由に彼のライブラリーの本を読み、書類に目を通し、収集品を手にとって調べることが許された。そのために、彼のところを訪れた人々は、贈り物を持ってきたりしたので、ますます収集品が増えていった。

 毎週木曜日の朝食時は、その時代の科学的に重要な事柄について討論が行われる正式な会合であった。時には実演・実験も行われた。バンクス家の図書室と自然誌室に集まった人たちは簡単なロールパンとお茶またはコーヒーが供された。その会合の間、バンクスは特に招待した客と別室で食事をした。食事のメニューは素晴らしかったといわれている。日曜日の夜は女性も招待されて、もっと気楽な会がもたれた。音楽もあり、ソランダーやバンクスや他の冒険家から旅の面白い話が聞かれた。バンクスのSohoの自宅は科学のサロンであったといってよい。

 バンクス自身はあまり科学的な仕事をしなかったし、植物の新種に関する論文とかは書かなかった。クックとの航海での植物収集品については、先述したように、ソランダーが主として論文にまとめる仕事をしていた。しかし、それでもバンクスはHorticultural Society(現在のRoyal Horticultural Society)にはいくつかの論文を出している。

 農業委員会(The Board of Agriculture)は、東インド会社から送られてきた山地のイネの6種の種子をバンクスに委託して栽培させている。彼は、実験結果をまとめて、これらのイネは穀粒を得るためには、この国での栽培に適していないこと、しかし、葉が多いので飼料としてはよいかもしれないなどと報告している。また、バンクスは1779年にSpring GroveにThe Heston Houseを入手し、そこにmini-KewともいうべきGardenをこしらえた。そこで、彼はexotic seedsの発芽の実験の大部分を自分自身が監督して行った。また、果樹栽培も手掛けた。イチゴを麦藁で覆う方法を導入して、アメリカのクランベリー栽培にも成功した。しかし、バンクスは植物学上の仕事に自信がなかったのかもしれない。そのために、本などの出版は遅く、自分のしたことに対する主張もあまり強くなかったのかもしれない。

 Newfoundlandから帰った時、Royal Societyより、その旅行の科学的成果について報告するよう招待を受けたが、彼は感謝したものの結局その機会をパスしてしまっている。

 バンクスは、自分が科学をするというよりも、科学の進展のための計画をたてたり、知識・情報を交換したり、研究を援助したりすることに力を注いだといってよいだろう。彼自身は目分のことをBotanistではなく、Botanizer(植物学推進家)と呼んでいる。彼は指導し、指示を与え、人々を勇気づけることが好きだった。おそらく、いろいろな出来事の渦中にあることを好んだのであろう。

 彼は科学の擁護者でもあった。1700年代は海軍が敵の船を捕獲すると、その所持品は勝者に帰した。バンクスは、その中で採集品などがある時、それは当該国の科学者に返すべきだと主張して、骨を折ってやった。ある時、ネルソン卿(Lord Nelson)がバンクスに手紙を書いている(1803年)。「英国海軍のフリーゲートがフランスのコルベット艦(木造帆装軽巡洋艦)をアテネで掌捕しました。しかしながら、下級船員が押収した美術品の所有者なので、それらをRoyal Societyに差し出させることはできません。私が目下のところできることは、貴下にお願いして、政府がギリシアからの貰重なコレクションを買ってくれるように働きかけて下さるということだけです」と。バンクスは時には、このような場合、自腹を切って先に金を払うことがあった。

 1821年4月2日、バンクスの死後、パリのAcademy of Scienceで、キュビェ男爵(Baron Cuvier)はバンクスの死に対する迫悼演説を行った。その中で彼は、「バンクスは科学的仕事はわずかしか残していないし、それも特に秀でたものではなかった。しかし、彼の名前は科学の歴史の中で燦然と輝くだろう…‥」と前置きし、

 「英国とフランスとの間の過去22年にわたる長い戦争体制の間、バンクスの名前はどこにあっても、有用な研究に専心する同胞にとっては守護神であった。もし、収集品が押収されたら、それを取り戻すのにバンクスに告げさえすればよかった。もし、人が留置されていたら、その事実をバンクスに知らせるのに要した時間だけが、彼等と自由との間にある遅れにすぎなかった。もし、海で四方囲まれてしまったら、バンクスの声が科学的探検の道筋を開いてくれた……」と。

 なんと素晴らしい賛辞ではないか。バンクスは、まさに力ある存在であったばかりでなく、その力を正しく利用したといえる。彼がどんなに大きな力を持っていたかは、1778年から41年間、Royal SocietyのPresidentであり続けたことからも分かるであろう。このことについては、最後のところで述べることにする。

 バンクスの肩書きには、

他にバンクスが支援した協会は

等々があった。

 これらの功績により、1781年に準男爵(Knight)、1795年にはバス勲爵士(Knight of Bath)のRedリボンを受賞。ジョージⅢ国王よりこの章を受けたとき、彼は“長年この栄誉を望んでいた”とつぶやいたということである。1797年には枢密院(Privy Council)のメンバーに任命された。ウィリアム・ハミルトン卿(Sir William Hamilton)はナポリからバンクスに祝いの手紙を送り、ハミルトン卿とエマ夫人の喜びを伝えた。

 バンクスはRoyal Societyの会長になってから、London, Kew, Windsor(国王に会うため) そしてRevesbyとを行き来して忙しく生活した。

 バンクスはRevesbyのあるLincolnshireでは大規模な農業を経営しており、それは企業のように整然としていた。アーサー・ヤング(Arthur Young)という著名な農学者は、“General View of the Agriculture of the County of Lincoln”という論説の中で、バンクスの農場の「神経中枢」を紹介している。

 「オフィス:2室より成り、30×16フィートの大きさ。レンガの仕切りと鉄の扉があって、火が絶えず燃されている部屋がたとえ火事になっても、もう一つの部屋には影響がないようにしてある。奥の部屋には156の普通サイズの抽出しがあり、幅13インチ、奥行10インチ、深さ5.5インチで、すべてに番号がふってある。どの抽出しにも、その中に入っている書類とそのテーマが分かるリストがついている。だから、誰かが人について、あるいは排水、柵、農場、森林などについて照会があるときは、いつでも多量の情報の中からすぐ必要なものが取り出せる。固定テーブルが両面の窓の側にあり、そこには地図や計画書をひろげることになっている。これらのものはラベルされて壁にかけてある。

 最初の部屋は、机、テーブル、測定器や水準器などの入ったブックケース、そして、開くと本棚となる木製の入れ物がある。真中に蝶番があって、閉じるとキャリア・ワゴンとなる。ここには40のフォリオペーパー・ケースが本の形になって収まっている。これらの書類は、田舎でも、ロンドンでも必要とされるところへそのまま運ぶことができる。このようなオフィスはかなりのビジネスの管理ができることを意味している」

 バンクスはLincolnshireの自分の農場以外に268の小作農場(tenant farms)を持っており、貸土地代金として年間5721ポンドの収入があった。

 バンクスは慈悲深い領主であったが、いいかげんな土地管理には容赦しなかった。誰かがバンクスに土地の借用を申し込むのではなく、バンクスの方から土地の貸与を申し出た。ある時小作が、凹みによる排水(hollow drainage)によって土地改良をしているのをみて、彼は21年のリースをその者に与えた。これははげましの意味をこめた報奨であった。

 バンクスの農業上の功績の一つに、メリノ羊(Merino sheep)の英国への導入がある。これには面白いいきさつがあるが、ここでは割愛する。

 バンクスは晩婚であった。愛人のMiss B-Nはどうなったか分からない。一説によれば、バンクスの子供を宿し、出産の時に死んだといわれている。秘密はバンクスと共に墓に行ってしまった。いずれにしろ1779年3月23日、バンクスはドロテア・ヒュージセン(Dorothea Hugessen)と結婚した。子供はなかった。

 バンクスは幸運にも経済的に恵まれていたので、自分が稼ぐ必要がなかったから、十分に暇があった。自分の選択に従って人生を歩むことができた。しかし、バンクスが非常に有意義なキャリアをもつことができたのは、単に富があったからだけではない。バンクスは冒険心に富んでいたこと、好奇心も旺盛であったこと、健康であったこと、周到な計画をたてるセンスをもっていたこと、科学的な探求心にあふれていたこと、寛容な心をもっていたこと、大勢のよい友人に恵まれたことなどが挙げられるだろう。

 しかし、彼の人生における成功の一部は二人の女性に負うところも大きかった。一人は妻のドロテア、もう一人は独身のまま過ごした妹のサラ・ソフィア(Sarah Sophia)である。二人の女性は疲れることなくバンクスのために尽くした。同じ家に住み、家庭は平和と静謐にあふれていた。サラは、バンクスへの風刺漫画、訪問者カード、メダル、新聞の切り抜きを集め、自信にあふれ、威厳をもった態度で物事を取り仕切った。いつも長い杖をもった召使いを従えていた。弓術と釣がうまかった。ドロテアはおとなしく、古陶器を集め、この道の専門家とみなされた。二人ともバンクスには無私の献身を尽くしたといってよい。バンクス家へ社交的な招待がある時は必ず、Sir Joseph, Lady and Miss Banksと三人宛になっていた。

 バンクスと共に働いたソランダーは、バンクスの兄弟みたいなものであった。二人の女性に可愛がられ、彼はバンクスと違ってとても陽気で、人をもてなすことがうまかった。不幸なことに、1782年の春、突然の麻痺におそわれ、バンクス夫人の献身的な手厚い看護の甲斐もなく 数日で死んでしまった。

 バンクスの家庭は和やかであり、決して肩のこるような雰囲気ではなかった。しかし、彼等の生活はきわめて時間を厳守する生活であった。例えば1805年、Norfolkの領主であるサミュエル・タイセン(Sumuel Tyssen)への手紙に、「貴殿がOxfordに向かわれる途中、次の火曜日に、Spring Groveでの夕食時にお目にかかれるのは幸せに存じます。ただし、私達は時間を厳守する人間だということ、そして時間は4時半であることだけはご記憶ください」と書いている。

 サラ・ソフィアは1818年9月に、数日間の病気で死亡、バンクスには大きな痛手であった。

 バンクスは1820年6月19日に死んだ。その頃は、片方の足を悪くしていて、椅子に腰掛ける生活だった。遺言により、バンクスは年金200ポンドと彼のライブラリーと植物標本を、いずれ大英博物館に移管されるという了解のもとに、彼の友人でありライブラリアンとして働いたロバート・ブラウン(Roberl Brown)に贈った。30年間バンクスのために働いた画家のフランシス・バウァー(Francis Bauer)には、Kewにいるかぎり年金300ポンドを与えた。彼は、自分のためにいかなるモニュメントも建てないようにと言い遺した。

 バンクスの遺した文書資料は、その後ブラウンの示唆により、1832年にバンクスの友人であり、ジョセフ・フーカーの母方の祖父であったドウソン・ターナー(Dawson Turner, F. R. S)に移管された。いろいろと面倒なことのあった後これらの文書資料は、1973年に、その時の所有者であったクナッチブル夫人(Lady Knatchbull)が死亡するまで大英博物館に保管され、その後で博物館の所有に帰することになっていた。しかし、彼女が死んだ時、若い相続人であり、バンクス夫人の甥の子供にあたるブラボーン卿(Lord Braboune)は、大英博物館との約束の履行を拒否し、1986年4月14日、サザピーのオークションにかけて売ってしまった。売値はたった182ポンド19s 0dにすぎなかった。彼は金に困っていたのかもしれない。そのため、バンクスの手紙や書類は世界中に散逸することとなった。エンディバー号航海についてのオリジナルの原稿は、7ポンド2s 6dにすぎなかった。バンクスという偉大な男のLife Workのオリジナルが、思慮のない行為によって消滅したことはきわめて残念である。しかし、幸いなことにオーストラリアの事情を扱った原稿の多くがNew South Walesの政府のために働いていたサウル・サミュエル卿(Sir Saul Samuel)によって入手され、保管された。他方、ドウソン・ターナーの娘たちによって筆写されて残っていた原稿から、ジョセフ・フーカー卿はバンクス卿によるエンディバー号航海日誌(Journal of the Voyage in the Endeavour by Sir Joseph Banks)の一部を、航海後128年たって出版した。バンクスの妹サラが筆写したNewfoundland日誌は、大英博物館に存在している。

V.キュー・ガーデン

 ロンドンのKewGardenは、世界で最もすぐれた植物園であることは言うまでもないが、この植物園の発展の基礎を築いたのがバンクスである。

 18世紀の前半には、自然誌への関心は金持ちが主に余暇の楽しみのためするもので、友達に見せるために珍品を棚に陳列するとか、収集したエキゾチックな植物を庭や温室に置くとかの類のものにすぎなかった。18世紀以前には多くの人々が世界中からいろいろな物や生物を収集したが、これらの博物学的収集には科学的な観察はなく、系統だった分類などというものもなく、まさに趣味の収集にすぎなかったといってよい。

 しかし、バンクスと国王ジョージⅢ世はもっと実際的であった。珍しい植物の収集は単に珍奇なものを集めるというのではなく、社会に役立つ有用なものを見つけ、利用することに意味があると考えていた。

 Kew Gardenは、1660年チャールズⅡ世の王政就任後、ヘンリー・カペル卿(Sir Henry Capel)によって始められたが、1730年にWalesのプリンス・フレデリック(Frederick)が、カペル家よりKew Houseを借り受けた時以来、王室の管理のもとにあった。21年後、Walesの 未亡人プリンセス オーガスタ(Augusta)は彼女のすべてのエネルギーを投じて、Kew Gardenの開発に努めた。彼女は政治的には評判のよくない、ビュートのアール(Earl of Bute)という男にこの庭園をまかせた。彼は園芸家としての技術は抜群であったが、プリンセスが1772年に死ぬと、ジョージⅢ世は彼を嫌って解雇してしまった。ところが、アールは辞めるときにKew Gardenからいろいろな植物を持ち出し、ほとんど空にしてしまったので、これを回復しなければならなかった。国王はKewを単に観賞用の目的だけではなく、科学的な植物園として開発したかったので、1773年、バンクスをそこのディレクター及びRoyal Gardensの特任顧問として任命した。

 バンクスは英国人が世界にひろがり、貿易などのネットワークを作り、自然資源が人間の利益のために開発されることを信じていた。そして、Kew Gardenこそ植物とその種子の国際的な交換の場所であると考えた。バンクスはKewが盛んになるためには、収集はビジネス・ライクにやらねばならないと考えた。彼はKewのディレクターになる以前から、世界の博物学者と通信を行っており、彼のSohoの家には定常的に植物標本や種子が集まっていた。そういう意味で、Kewでバンクスがしようとしたことは、彼の私的な活動の大規模な拡張であったともいえる。

 バンクスは、世界中の博物学者の善意にだけ頼っていたのではなく、費用を負担して、危険をおかして植物収集に携わる人材を求めた。しかし、手当はそれほど高くなく、年間100ポンドにすぎなかった。それでも多くの人がこれに応じた。彼等はだいたい貧しい出身の単純な男たちで、植物に魅せられた庭師たちであった。そして、バンクスにはきわめて忠実であった。バンクスに協力した人々はきわめて多いが、表3にその一部を挙げておく。

表3 キュー植物園の植物収集のためにバンクスに協力したまたは雇われた人たち
Francis Masson (1741-1805) ケープ、北アメリカ、スペイン、マデイラ、 カナリー諸島、西インド諸島
Archibald Menzies (1754-1842) 南米
John Ledyard (1751-1788) カムチャツカ、アフリカ
WiIliam Jackon Hooker父 (1785-1865) アイスランド
Joseph Dalton Hooker子 (1817-1911) ヒマラヤ
William Kerr ( -1814) 中国
Dr. Clarke AbeI (1780-1826) 中国
Andre Michaux (1746-1803) 地中海、近東、北アフリカ
Peter Simon Pallas (1741-1811) スカンジナビア、ロシア
Apollon Apolloservitch Mussin-Puschkin (1761-1805) スカンジナピア、ロシア
Anton Pantaleon Hove インド、アフリカ海岸、西インド諸島
Peter Osbeck 中国
William Roxburgh (1751-1815) インド、西インド諸島
Nathaniel Wallich (Nathan Wolff, 1786-1854) インド、ネパール
Jean-Baptiste Leschenault de la Tour (1773-1826) カルカッタ
Christopher Smith and James Wiles 西インド諸島
David Burton オーストラリア
George Caley (1770?-1829) オーストラリア
Allan Cunningham (1791-1839) リオデジャネイロ、シドニー、ニュージーランド
Mungo Park アフリカ
James Bruce アフリカ
William Brass アフリカ
Adam Afzelius (1750-1835) アフリカ
James Bowie (1789-1869) リオデジャネイロ、ケープ
John Bradbury (1768-1823) 北アメリカ
Findland Lucas Bauer (1760-1826) オーストラリア

 その中でフランシス・マッソン(Francis Masson)は、バンクスがKewのディレクターになる1年前にすでに収集の旅に出ていた。クックの2度の航海の時、Capeまで連れていってもらい、Cape TownとFalse Bayとの間の山を採集した。数百の新種をKewにもたらした。ヒース、ペラルゴニウム、オキザリス、ロベリア、メセンブリアンセマムなど、今日、庭や鉢植えの植物としてポピュラーになったものも多い。彼はさらに北アメリカ、スペイン、マデイラ、カナリー諸島、アゾレス諸島、西インド諸島を採集し、Kewの発展に大きく寄与した。ウィリアム・カー(William Kerr)はプロの収集家で1806年に中国へ行き、植物のみならず種子を集めるのにたいへん苦労した。彼の持ち帰ったものには、コオニユリ(Lilium tigrinum, Tiger Lily)、モッコウバラ(Rosa Banksiae, Banksian Rose)、ササユリ(Lilium japonicum)、アセビ(Pieris japonica)、シュウカイドウ(Begonia exansiana)などがある。

 バンクスに協力した人々には、収集家でない人たちもたくさんいた。例えば、船の外科医であったアーチポルド・メンチーズ(Archbald Menzies)はGiant Redwood(Sequoia sempervirens)とMonkey Puzzle Tree(Araucaria araucana)をもたらした。後者は、彼がチリの太守と食事をしている時、珍しいナッツが皿の上にあるのを見つけ、こっそりポケットにしのばせて持ち帰ったものである。また、バンクスは中国の英大使館付医師のクラーク・エーベル(Clarke Abel)に1776年2月10日付の手紙で、彼にバラとユリ及び他の中国の庭に植えてある優雅な植物を集めるように要請した。特に、各種のAzalia indica、シャクヤク、茶の木などを欲した。バンクスは中国の絵で見るような色の違った美しい花が本当にあるのかどうか関心があった。

 バンクスは、多くの人々に協力を求め、また多くの人々がバンクスに協力して世界を駆け回った。バンクスは、収集家としてのキャリアを通して、生きた植物や種子、球根を、英国までの長い距離を最も不適な条件で持ち帰るための技術を特別に研究した。当時、植物を移入することは賭けであった。バンクスは人に植物採集を依頼する時は、きわめて明確に、詳細な指示を与えた。何を探すのか、どのようにして集めるのか、どのようにして生きたまま輸送するのか、どのように梱包するのか、種子の保存はどうするのか等々。当時の長い海洋航海でこれらの植物が頻繁にかつ無事にKewへ持ってこられたことは、きわめて驚嘆に値するべきことである。

 このような彼の綿密な指示が、かの有名なバウンティ(Bounty)号の反乱の一原因でもあったことをちょっと紹介しておこう。

 バンクスは、安くて栄養価の高いパンの木の実を西インド諸島の砂糖農園で働く奴隷たちに供するため、タヒチよりパンの木を集めて移植することを考えていた。政府がこれを支持し、決定した時、船長はウィリアム・ブライ(William Bligh)という、クックの2度目の航海の時、リゾリューション号に士官として乗船した者が任命された。彼は、すぐれた船員であり航海者であったが、想像力が欠如していたため、臨機応変の態勢がとれなかったので、何事も指示書に従って厳格に命令を下したこと、また、彼は自分の指揮下にある士官たちを、きわめて侮辱的な言葉で対応して、特権を乱用する癖があったことの二つの欠点があった。バンクスは、植物の世話をする者として、ネルソン(D. Nelson)とブラウン(W. Brown)という二人の者にいろいろな指示を与えるよう政府に求められた。二人はまずタヒチで1000本のパンの木の実生を育てることに成功した。これには数か月かかった。しかし、これらの植物が船へ持ち込まれた時、船員は居場所をせばめられて狭苦しい空間に押し込まれてしまった。そのうえ面倒な植物の世話のために、バンクスは二人に次のような指示を与えていた。船中では、①植物は絶えず動かして新鮮な空気に曝すこと、②葉は塩分がつかないように定期的にスポンジを使って真水で拭うこと、③植物には継続的に濯水すること。船員たちは非常に行動が制限された状態におかれることになった。だんだん水夫たちの間に植物を憎む気持ちが生じ、その結果とうとう反乱が起こることとなった。不思議なことには、タヒチで植物を育てたブラウンも反乱に加わり、率先して植物を海に捨てたことである。ブライは、やっとのことで18人の男とたった23フィートのopen boatに乗って、3618マイルのTimor島までの信じられない旅をしたあと無事英国に戻った。ブライは船を失ったことで起訴され、裁判になったが、バンクスの支援もあり結局無罪となった。

 1820年にバンクスが死んだ時、けちな政府はKew Gardenを維持するのに気乗りがしなかったため、危うくKew Gardenは崩壊するところであった。しかし、ウィリアム・フーカーが跡を継ぐことになり、彼の努力でバンクスの成果が維持されたばかりでなく、今日の世界最大の植物園にまで大きくなったのである。


Ⅵ. 王立協会の会長

 1778年、プリングル卿(Sir John Pringle)が王立協会の会長を退いた時、バンクスの名が会長候補者として挙げられた。バンクスは35歳。1766年以来のメンバーであり、1774、75年には評議会のメンバー、そして1778年の時も評議会にいた。投票の結果220票の替成はほぼ満票であった。こうしてその後、彼の死ぬまでの42年にわたる会長職が始まった。

 バンクスは会長に選ばれた時、息急き切って遅れて到着し、記念晩餐会の会長の席に倒れこむように着席した時、「王立協会の会長でこんなに早く走った者は誰もいないだろうと思う」と叫んだということである。

 18世紀は、科学技術が大きな進歩を遂げつつあり、産業はますます機械化されつつあった。それに伴って、新しい方法と新しい素材への要求が高まりつつあった。18世紀の科学史の一部を表にまとめておく。(表4)

 表4 18世紀の科学史
日本 外国 参考
貝原益軒 大和本草16巻 (1709) シュタール フロジストン説 (1702) プロシア王国成立 (1701)
養生訓 (1713) ハリー ハリー彗星発見 (1705) 英大ブリテン王国成立 (1707)
将渾吉宗による測午儀を
使った天体観測----6年間
(1718) ファーレンハイト 水銀温度計 (1714) 米プリンストン大創立 (1746)
青木昆陽 甘藷記 (1735) ヘールス 植物静力学 (1727) 仏百科全書 (1751)
幕府・江戸神田に天文台設置 (1750) リンネ 自然の体系 (1735) 大英博物館創立 (1753)
平賀源内 鉱山用磁針器 (1755) セルシウス 摂氏温度目盛 (1742) アメリカ独立宣言 (1776)
山脇東洋 蔵志2巻(初の解剖書) (1759) ベーリンク ベーリンク海峡発見 (1728) アダム・スミス国富論 (1776)
平賀源内 寒暖昇降器 (1765) ビッフォン 博物史 (1749) パリ条約 (1783)
杉田玄白
前野良沢
解体新書 (1774) 法王ベネティクト 地動説解禁 (1737) 仏・ナポレオン戦争 (1796)
大槻玄沢 蘭学階梯 (1788) ヴォルフ 発生論(後生説) (1759) マルサス人口論 (1798)
司馬江漢 地球両半球図 銅版 (1792) スパランツァーニ 微生物自然発生否定 (1765) 赤穂浪士仇討 (1702)
ハリソン クロノメーター(航海用) (1765) 享保の改革 (1716)
キャベンディッシュ 水素の発見 (1766) 享保の大飢饉 (1732)
ラザフォード 窒素の発見 (1772) 浅間山大噴火 (1783)
ブリーストリー 酸素の発見 (1774-75) 寛政の改革 (1787)
ラポアジエ 燃焼理論 (1778)
インゲンハウス 光合成の発見 (1779)
シャルル シャルルの法則 (1781)
ボルタ ボルタ電池 (1799)

 バンクスは、自分は大企業のキャプテンのように考え、すべてが王立協会という発電所から放散すべきであると思った。バンクスは、彼自身の生活や仕事は非常に組織化されていたにもかかわらず、会の日常の業務にはあまり関心がなかつに。そのため、事務はしばしば混乱したということである。彼は会議が嫌いで出席しなかったといわれるが、実際は、42年間の会長職の間、450回あった会合のうち出なかったのは31回だけであった。

 バンクスはぶっきらぼらで傲慢で、時には粗野に振舞ったため敵も多かった。一般からは、バンクスは協会を操作しているとか、評議会は彼の友人ばかりで固めているとか非難された。しかしこれは真実ではなかったらしい。

 バンクスが行った王立協会の改革の一つは、会員の選出である。誰でも富や地位に関係なく、成功裡に科学的業績をあげた者、特にオリジナルな研究をした者は誰でも会員に選ばれてよいという基準を設けたことであろう。このことにより、会員となるためには、科学のパトロンとなった地位や称号だけの金持ちばかりでなく、研究に自分自身がたずさわった者でさえも、綿密な調査を受けたうえ、会員になることが認められた。しかし、それにもかかわらず、純粋に科学に関っているメンバーは悲しいほどに少なかった。

 バンクスの会長職は、1783年の終わり頃までは、ともかくも平穏であった。しかし、その頃から彼を追放しようという確固たる運動が生まれた。事の起こりは、WoolwichのArtillery Collegeの数学の教授であったチャールズ・ハットン博士(Dr. Charles Hutton)が、王立協会の外交通信の職務を怠ったとバンクスに非難されたことに始まる。ハットンはロンドン郊外に住んでいたため、科学論文や書類や外国からの通信文書の翻訳の仕事が滞っていると非難されたのである。そこで、外国通信書記はロンドンに居住することという決議がなされた。このためハットンは辞任した。彼は辞めさせられたといって告訴することとなった。1783年12月に、王立協会はハットンに、彼の過去の奉仕に対して感謝するという動議を提出した。しかし、バンクスはハットンが義務を効率的に遂行しなかったというかどで、これに反対した。バンクスは敗れた。そして、ハットンは自分を弁護する手紙を協会に送り、協会でそれが朗読され、受理されることとなった。このことが、バンクスの最も強烈な敵であったサミュエル・ホースレイ博士(Dr. Samuel Horsley)(後にSt. AsaphのBishopになった数学者)に、バンクス会長とその行政部を攻撃する口火を与えることとなった。ホースレイはネビル・マスケリン(Dr. Nevil Maskelyne)や協会のセクレタリーであるマティ(Mr. Ph. Maty)の支持を得て、会長の信任投票を行うことに成功した。

 1784年1月、信任投票が行われたが、バンクスは生き延びた。反バンクス派は、その後も外国通信書記はロンドンに住まわねばならないという規則をくつがえす動議を提出したが、これも失敗に終わった。2月には、ホースレイ等の反バンクス派は、バンクスが評議会メンバーの選挙とFellowshipの候補者の選定の邪魔をしたとして非難をした。これは、さらにすさまじい議論をもたらした。1か月後、マティは無記名のパンフレットを協会に提出した。それは「王立協会における意見の相違と論争の真正の物語」と題するものであった。ホースレイは、この文書に対して感謝することを投票で決めるように提案した。しかし、バンクスは、この文書は協会に対する悪意に満ちており、誤解を招くものとして断固拒否した。そのためマティとハットンがこれを支持しただけで終わった。バンクスへの対立はここで終わりとなり、マティは辞任して、後任としてチャールズ・ブラグデン(Sir Charles Blagden)が任命された。彼はバンクスの旧い友人の一人であり、忠実なバンクスの支持者であった。

 会長職の間にバンクスは、世間でいろいろと風刺漫画や落首、風刺詩の題材としてとりあげられている。当時のポピュラーな風刺作家の一人であったジョン・ウォルコット(John Wolcot)は、ピーター・ピンダー(Peter Pindar)の名のもとにバンクスをからかった詩文などをしばしば書いている。例えば、バンクスが昆虫や他の被造物をもっと求めて神に祈る。詩文。

化物は私の至上のよろこび
あなたの僕(しもべ)の視覚を化物でうっとりさせ給え
羽毛が毛に変わり、
脚がとんでもない所について
眼はピンほどに小さく、皿のように幅広く、
……………………
…………
かような頭のないハエには私の名前を
Sir Joseph Banksという名前を与え給え。

 しかし、バンクスはこのような「戯言」で傷つけられたかどうかは分からないが、おそらく職務上の災難ぐらいにしか思っていなかったであろう。

 会長職の間にした大きな業績の一つは、リンネ協会(Linnaean Society)の設立を助けたことである。これは英国における最初の専門家の協会であった。リンネ協会が植物学と動物学の指導的団体となった時、バンクスは、このような協会はゆくゆく王立協会の権威を傷つけるだろうと警告を受けた。そこで彼は、Royal Institution, The Astromical Society及びThe Geographical Society(The Society of Longitudueの後身)のような組織ができるのには反対した。しかし、あとになって新しい協会はRoyal Societyの下部に位置することが同意され、彼も 安心してこれらの協会を全面支持することができた。その他の協会も彼が支持したことは先述のとおりである。

 バンクスは、カール・リンネ(Carl Linneaus)をとても崇拝していた。Newfoundlandに行ったあと、彼はUpsalaに留学してリンネのもとで植物学を勉強する計画をたてたほどである。

 リンネが死んで、息子のカールは、父の残した収集品・植物標本の保存状態が悪く、とても世話が大変であるというので、バンクスは1200ポンドで買い取りたいと申し入れて断られた。しかし、1783年に息子が死に、リンネの未亡人はこれをバンクスに売却したいと接触してきた。その手紙が届いたのは、ちょうどSohoの家で恒例の木曜日の朝食会をしていた時であった。招待者のなかに、熱心な若い植物学者であり自然誌研究家であったジェームス・エドワード・スミス卿(Sir James Edward Smith)がいた。バンクスは手紙を読んだ後、スミスにリンネの収集品のために寄付するよう助言をした。スミスは1000ギニーを提供した。スウェーデンの科学アカデミー・科学者たちはこのことにすごく怒り、反対したが、結局収集品はロンドンに移された。1万9000の植物標本、2500の鉱物標品、3000以上の昆虫、1500の貝、約800のサンゴ、そして多くの書物、数千の手紙。現在もリンネ協会がこの収集品を保管している。

 1820年5月18日、エバラード・ホーム卿(Sir Everard Home)は、バンクスの会長辞任をRoyal Socielyに通告した。しかし、協会は全員一致でその辞任の受理を拒否した。42年の期間にわたって、きわめて有能で誉れ高く、その会長職を遂行してきたバンクスに辞任すべきでないと伝えた。しかし、バンクスは返事をしないまま6月19日に死亡した。


Ⅶ. おわりに

 今回の話は、はじめに述べたように、バンクスの植物図譜に因んで、バンクスについて紹介することにあった。バンクスについて書かれた本を読むにつれ、私は彼の魅力にとりつかれてしまったようである。しかし、ここでは、彼についてはごく表面的なこと、そして彼のさまざまな活動の一部しか語ることができなかった。バンクスが果たしたオーストラリア建設の役割や、経度委員会での重要な仕事、メリノ羊のことなどには触れることができなかった。しかし、18世紀から19世紀にかけて、英国の王立協会に君臨した巨人の面影は少しでも分かっていただけたことと思う。

 バンクスについて話すようにと最初私に依頼されたのは、前ICU図書館長鬼頭當子さんであった。その後、現図書館長事務取扱長野由紀さんから催促され、半ば仕方なしに準備を始めたのであるが、私にバンクスについて調べる機会を与えて下さったことに感謝している。講演に際しては、資料の調達、バンクス図譜の展示、スライドの作成等協力して下さった、図書館の長野由紀さん、山口絹子さん、山本裕之さん、その他の方々にお礼を申し上げる。


Ⅷ. 参考文献

Ⅸ. 付録

IX-1. 付録1 エンディバー号によるキャプテン・クックの第1回世界一周探検航海

1768年8月26日 イギリス プリマス港出航
1768年9月13日~9月18日 マデイラ島滞在
1768年11月13日~12月7日 ブラジル リオデジャネイロ滞在
1769年1月15日~1月21日 フェゴ島滞在
1769年4月13日~8月9日 ソシエテ諸島(タヒチ他)滞在
1769年10月8日~1770年3月31日 ニュージーランド滞在
1770年4月28日~8月23日 オーストラリア滞在
1770年10月2日~12月25日 ジャワ島(バタピア)滞在
1771年3月14日~4月14日 アフリカ喜望峰滞在
1771年5月1日~5月4日 セントヘレナ島滞在
1771年7月12日 イギリス ディール帰港

Ⅸ-2. 付録2 エンディバー号航海経路図

Ⅸ-3. 付録3 ジョセフ・バンクス卿の生涯

1743年2月2日に生まれる。
1752年ハロー校へ入学。
1756年イートン校へ転校。
1760年オックスフォード・クライスト・チャーチ・カレッジに特別自費生として入学。
1761年父親、死去により、Revesby Estatesを相続。
1763年オックスフォードを離れる。
1766年ニューファンドランド及びラブラドル半島への探検旅行に出る。
王立協会会員に選ばれる1767年 イキリス西部地方を旅行。
1768年キャプテン・クックと共にエンディバー号で第1回世界一周航海に出る。
1771年エンディバー号帰国。
1772年リゾリューション号での第2回世界一周航海を断る、
1773年王立キュー植物園の科学部門のアドバイザーとなる。
1774年初めて王立協会評議員を務める。
1775年ヨークショアーを旅行。
1776年リゾリューション号帰国。ソーホー・スクェア32番地を購入。
1778年王立協会会長に選ばれる。
1779年3月23日結婚。
下院議会にて、囚人の服役地としてのオーストラリアのBotany Bayの適合性を主張。
1782年天文学者、ウィリアム・ハーシェルのために国王ジョージ3世から恩給を得る。
1786年ニュー.サウス・ウェールズにおけるコロニー設置に関する計画の主問題に助言。
1787年スペインより初めてメリノ羊を入手。
バウンティー号での船長としてキャプテン・プライの任命を保証。
1788年アフリカ協会設立に関る。
中国からインドへの茶工場移転に関して、東インド会社に助言。
キャプテン・フィリップ、最初の受刑者を引き連れてBotany Bayに到着。
1790年キュー植物園の植物画家として、フランシス・バウアーを任命。
1792年ムンゴ・パークを、ウォーチャスター号でスマトラヘ派遣。経度委員会に諮らずに、トーマス・マッジに
賞を与えようとする下院議会の意向に反論。
1793年ジョン・ハンターの比較解剖学博物館を入手すべきだとする王立協会の提案を距否。
プロビデンス号で、バウンティー号失敗を埋め合わせる。
1797年ムンゴ・パークにオーストラリア内陸の探検を勧めるが失敗に終わる。
1801年ムンゴ・パークの最後のアフリカへの探検を準備。
インベスティゲーター号による、イクイップス・フレンダースの探検航海にロバート・プラウンとファーディ
ナンド・バウアーを同行させる。
1804年経度委員会にてジョン・アーノルドの主張を支捗し、トーマス・アーンショーに報酬を与えることに反対。
園芸学協会設立委員会の議長を務める。
1808年マーガレット・アン号による、アイスランド航海ヘウィリアム・フッカーとジョルジェンセンを派遣。
1810年議会にて、無防備のデンマーク領土への敵対行為を禁ずる条例を成立させる。
1814年キュー植物園の植物採集のための探検隊派週計画を更新する。戦争中は、護衛されての航海で大変な時間を
要したために派遺は中止されていた。
1815年穀物一揆の際、ソーホー・スクエア襲撃される。
1817年レベスビーへの最後の旅行。
1818年大きな列車事故に遭遇。妹サラ・ソフィア死去。より大規模な王立協会からの代表者により、経度委員会の
構成を変更させることを約束。
1820年6月19日死去。

[ Sir Joseph Banks, K. B., P. RS. by H. C. Cameronより ]

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