科学における綜合化と専門化 (1970年度ICU入学式記念講演)
大塚 久雄
諸君入学おめでとう。きょうは、入学生諸君に、なにか、その出発にふさわしいお話をするようにとのことで、「科学における綜合化と専門化」という題を掲げておきましたが、はじめにちょっと、この題について限定を加えておきたいと思います。まず、科学と申しましても、私は、自然科学のことは専門外で知識が不足です。それで、おのづからお話しが社会科学の方に傾くといいますか、社会科学の方からとられがちになると思います。つぎに、科学という語についてです。日本語には、科学のほかに、もう一つ学問という語がありますね。それで諸君は、なぜ学問ではなくて、科学なのかという疑問をもつかもしれません。そういうことを詳しくお話する時間はありませんが、日本語で学問とよばれているものは科学とよばれているものより、かなり広い内容をもっているように思います。しかし、きょうはもっと狭く、自然科学、社会科学(あるいは人文科学)を合わせた意味での科学、その程度のことにとっておいていただきたいと思います。
さて、諸君もよく知ってることですけれど、この一、二年の間 "専門馬鹿" という語がかなりはやり、新聞や雑誌でもよく見かけましたね。それで私も "専門馬鹿" というのはどういうことなんだろうと考えてみました。これはなかなか難しい問題で、ほんとうは専門の研究をかなりやってみてからでないと、なにが馬鹿であるかは分からないわけなんです(笑)けども、考えてみますと、当っているところもなくはありませんね。直観的に的を射ているところもあるようです。ですから、そういうことを念頭において聴いていただいてもけっこうです。ところで、ふつう "専門" という語を簡単に使いますが、実は "専門" とか、"専門化" という語の意味内容は、それほど簡単ではありません。よく考えてみますと、そのなかにはいろんな種類があるようです。しかし、きょうは、それほどこまかく考えてみる必要はなさそうなので、おおづかみに分けてみますと、"専門" という語には、少なくとも二つぐらいの意味があるように思われます。さしあたって、私が使いなれている表現を使いますと、理論的な専門化と実践的な専門化、この二つを区別することができるでしょう。その二つのあいだには、もちろん、両者がいろいろな程度で絡み合う中間的なものがありますが、ここでは、まずこの理論的専門化と実践的専門化ということについて簡単に考えてみることから始めたいと思います。
理論的専門化というのは、もちろんその名称のとおり、結局理論的な研究のほうへ深入りしていくような、そういう方向をもつ専門化のことです。例えば、おそらく自然科学ならば物理現象の法則とか、化学現象の法則とか、あるいは生物現象の法則とか、そういうものの探究を目指しているような研究があるだろうと思いますが、それなのです。社会科学のばあいにもそれと同じような研究の方向がありますね。例えば、経済現象の法則の探究。経済学といえば、法則の学問だろうなどと考えている人々が一部には、一部にはですよ、あるほどですから、経済現象における法則の究明という方向をもつ研究分野は確かにあるわけですね。その他の社会科学の分 野、例えば、政治学のばあいにも法則の究明という営みがあるでしょう。経済学のばあいは、人的ならびに物的資源の配分をめぐる社会現象に関する法則の追究だとしますと、政治学のばあいは、政治権力の配分をめぐる社会現象の法則の追究ということになりますね。同じように法社会学の営みにも、また狭い固有な意味での社会学の営みにもそうした法則の探究という局面が含まれている、といえるでしょう。とにかく、自然科学の方でも物理現象とか、化学現象とか、生物現象とか、そういうさまざまな領域についてその国有な法則を探究するように、社会科学の方でも、経済とか、法とか、政治とか、その他さまざまな文化領域についての固有な法則を探究する、そういうことをやるわけです。そうした方向にむかって研究を押し進めていきますと、あるいは経済学が、あるいは政治学が、あるいは法社会学 (法学といいますと、我国では法解釈学を思い浮べるのが普通ですから、法社会学という語を使っておきます)が、その他狭い意味での社会学、そういう社会科学の諸部門が生まれてくることになるわけです。そして、それがさらに進みますと、もっとこまかく、経済学のなかなら、ある人は価格論を、ある人は生産論を、ある人は景気変動論を、ある人は貨弊・金融論をやるというふうに専門が分かれて、そこでそれぞれ固有な法則を追究していくことになります。
ところで、こういう方向を目指して進むような専門化のばあいには、次のような問題が生じてくるわけです。現実の社会現象、あるいは歴史現象といっていいですが、現にわれわれがそのなかで生活している、あるいは、それによって取囲まれている社会現象は、実はつねに、いろいろな文化諸領域が互いに絡み合ってできているものなので、純粋に経済的な現象などといったものは現実には存在しないということです。つまり、現実の社会現象は経済や法や政治、その他さまざまな文化領域のそれぞれに固有な法則的な動きが互いに絡み合ってでき上っているものですね。これこそは純粋な経済現象だというふうに、現実のなかから、ぽこっと抜き出してこられるような、そんな現象など実は存在しないわけです。これは、おそらく、諸君が静かに考えてみれば、すぐに分かることですね。例えば、物価の変動などということは、それこそ純粋な経済現象のように見えるかもしれないが、このごろの新聞を少し気をつけて読んで御覧なさい。物価の変動という経済現象はいつも物価問題という政治現象として取上げられているではありませんか。さらに、公正取引委員会の問題とされる(あるいは、されうる)限りでは、すでに法現象です。現実の社会現象は、そういうふうに、いろんな文化領域に属する諸側面が絡み合ってできているものです。ところが、例えば経済学の研究が理論的専門化の方向をとるばあいには、そうした現実のなかから、経済現象という側面だけをことさらに取り出してくる。もう少し詳しくいうと、われわれの頭のなかで概念装置を、いいかえれば観念的な実験装置を作り上げ、そして、そのなかでは経済以外のさまざまな条件を変化しないように固定さしておく。あるいは、捨象するといってもいいでしょう。つまり、そうした方法によって純粋な経済現象というべきものを、頭のなかに概念装置として作り上げるのです。言っておきますが、これは現実とまるで無関係なものではありませんよ。現実のなかからその一側面だけを取出したものなんですから、それはまた現実のなかにその一側面として現に存在しているものなんですね。ともかく、こうした方法的前提にもとづいて、純粋な経済現象はどういうふうに動くであろうか、それをどこまでも追究していきますと、そこに経済法則というものが姿を現わしてくることになるわけですね。経済現象は、一般に法則的に把みやすい性質をもっておりますから、このことは、諸君にもおそらく容易に分かってもらえるとは思います。ところで、法現象についても、あるいは、政治現象についても、またその他の文化領域、例えば宗教についてさえも、それが社会現象として現われてくる限りにおいて、同じことがいえる。そして、それぞれに固有な法則を把み出すことができるわけです。ともかく、こういうふうにして、さまざまな文化領域の絡み合いである現実の社会現象を対象としながら、経済学、政治学、法(社会)学等々という、社会科学の専門諸分科が成りたち、そのなかでそれぞれに固有な法則をますますこまかく追究していくという、理論的専門化が進展することになるわけです。
さて、いままでお話してきたような方向で研究を進めていきますと、究極のところでわれわれが出会うことになるのは、きわめて純粋な姿の法則として把えられたものです。あるいは、そういう表現が好きだとあれば、法則的必然性といってもよいでしょうが、こういう原因が与えられれば、こういう結果が出てこざるをえないという法則的必然性にまで到達することになります。ところが、こういう専門化の方向、つまり理論的専門化のほかに、実はもう一つ違った専門化の方向があるわけです。それを、私はさきほど実践的専門化とよんでおきました。が、それはどういう専門化なのか。社会科学の領域でもいろいろありますが、例えば、経済学に近いところでしたら、経営学なんかがそのよい例でしょう。しかし、諸君のなかには経営学といってもまだ見当のつかぬ人が多いかと思いますから、もうちょっと違った例をとってみることにしましょう。例えば医学です。われわれはたいてい病気になってお医者さんに診てもらったことがある。ですから、医学のことは外側からある程度の想像がつくわけです。入院でもするとすぐに分かることですが、お医者さんていうのは実に知識の範囲が広いですね。細菌を問題にしている時には細菌学者、薬品を問題にしている時には化学者でしょう。それから、レントゲンを問題にしているときには物理学の領域に足を踏み入れ、場合によると社会科学にまで関心をもっている人がいますね。私の知ってるお医者さんで、農民の医療を志して、そのために農村社会学をかなり深入りして勉強した人がいます。それを勉強しておかないと、農村で本当に親切な医療ができないっていっておりました。とにかく、お医者さんの知識の範囲はおそろしく広い。深くはない場合があるかもしれないが、いろんな分野の法則的知識に通暁している。いってしまえば、理論的専門化のはてに行きつくような法則的知識、それもさまざまな分野のそうした知識を一つに集めて駆使しているんですね。これは偉いもんだと思います。だから、大学の医学部へ行きますと、いわゆる臨床講義のほかに、基礎医学の講義があるでしょう。しかも、その種類と範囲は、経済学部や法学部の人々なら、よくもあんなにいろいろな種類の專門分野が、一つの学部に集まったもんだなとびっくりするかも知れぬほど、多様で広汎でしょう。つまり、理論的に専門化された、いろいろな知識がみな一つに集められて、使われている。しかも、それはある一つの目的にむけて集中されているわけです。医学の究極的な目的といえば、もちろん人間の病気の治療ですね。いや、予防医学や保健医学というものがあるから、あるいは人間の健康の維持といった方がよいかも知れません。が、ともかくそういう究極の目的にむけてあらゆる種類の理論的専門知識が綜合されて駆使されてるわけですね。そして、これも一つの立派な専門化であるわけですね。さきほど説明したような法則的必然性を狭く深く追究していくのとは、まるで違った方向に進むものですが、しかし、医学は一つの専門分科として立派に通用しているわけですね。少し考えてみるとすぐ分かることですが、こういう性質の専門化はそのほかにも多いですよ。大学の工学部でやっている研究などは、みな、多かれ少なかれそういう性質をおびた専門分科ですね。
ところで、社会科学の領域でも、こういう種類の専門分野の姿がしだいにはっきりしてきました。さきほど申しました経営学などが、まさにそれです。経営学などというと、すぐにああ、あの拝金宗の金儲け学問か、などと軽々しく決めてしまう人もいますが、それはいけない。問題はもっと複雑で、経営学のなかには、必ずしもそういえない重要な面も含まれています。利潤が最大となる、ということは確かにある場合一つの重要な指標になっているでしょうけど、経営という概念の意味内容は、もっとはるかに広いのですね。たとえば、経営史のなかには、狭い意味での、経済の領域における経営の歴史のほかにも、いろんな経営の歴史が含まれています。例えば大学の歴史、政党の歴史。革新政党の党史も、政党が経営という側面をもつ限りにおいて、一つの経営史でありうる。労働組合の歴史もまたそうでしょう。そうしたことはともかくとして、経営学のばあいには、経営の遂行という目標に合わせて、経済学、社会学、法学その他、理論的専門化によって獲られたいろんな知識が援用されることになるわけです。経営学はそうした実践的専門化の方向を目指すような専門分科です。また、戦後新しく、主としてアメリカ合衆国から伝えられてきた国際関係論、それから、このせつとみに重要視されるようになってきた低開発国問題の研究や都市研究などもこうした実践的専門化のよい例で、法学、政治学、経済学その他の社会科学の諸分野の専門的研究者ばかりか、自然科学の諸分野の専門的研究者も含めて、非常に広い範囲にわたる協力がおこなわれるわけです。ともかく、さきの理論的専門化とならんで、こういう実践的専門化という方向があるわけです。
ところで、考えてみますと、この二つの専門化は実は昔からあったのですが、その区別があまり意識されないまま、両方とも"専門化"とよばれてきたわけですね。ところが、二十世紀に入るころから、いや、とくにこの二十年位の間に両者の相違がだんだんはっきりと意識されはじめた。それは、この専門化の二つの方向の間のパランス、あるいは比重が変ってきたからだ、といってよいかと思います。以前は、いや、私の若い頃でもまだそうでしたが、理論的専門化という研究の方向が、科学の営みのなかでもっとも大切な部分をなしている、あるいは、理論的専門化こそが科学の進展の中心部分だとされ、そして、実践的専門化の方は、そうした原理の応用というか、科学としては何か価値が一段低いものであるかのように、まあ、何となしに考えられていたわけです。つまり、理論的専門化こそが、科学という営みの中心としてその発達をひっぱってきた、あるいは、ひっぱっていくであろう、というのですね。ある点では、そうだったといえるでしょう。というのは、研究対象がさまざまな意味で単純であるあいだは、理論的に専門化された法則的必然性の知識が、案外簡単に実際に役立てられることが多かったからですね。人間は自然に服従することによって逆に自然を支配するというようなことが、理論的専門化の知識だけでも、いきなり可能であるような状況がかなりあったわけです。しかし、よくよく考えてみると、医学などのように、そうじゃない場合も古くからあったわけですが、まあ、そういう状況であった。そして、どちらの方向への専門化であるにしろ、自然哲学のなかから自然科学の諸分科が生まれてき、さらにそれがさまざまな専門の諸分野に細分化されていく。また、社会科学のばあいも同様で、いわゆる道徳哲学のなかから法学、政治学、経済学、社会学等々が分かれ、それらがさらにさまざまな専門分野に細分化されてきたのでした。アダムスミスがそもそも道徳哲学の教授として、倫理学の講義をしたり、法学の講義をしたり、経済学の講義をしたりしていたことを考えれば、そのことはよくわかるはずです。ところが、専門化が進行するにつれて、専門の分野はしだいに小さくなり、視野はだんだん狭くなってくる。そして、その果ては、専門の知識だけでは複雑な現実にとうてい対応しきれず、だんだん重要な問題が視野のなかに入ってこないというようなことにもなってきたわけです。つまり、さまざまな専門の知識が互いに協力しなければ、とうてい有効に現実に対処することができなくなってきた。例えば、いま問題の物価問題にしてもそうですが、諸君、考えてみれば、その他にもそういうことがいくらもあるでしょう。そうした事情のなかからbig science などとよばれる研究分野が、自然科学の方だけではなくて、社会科学の方でもだんだん大きな問題となってきたわけです。たとえば、都市問題がそうですね。都市問題といえばすぐに思い浮ぶ公害問題もそうでしょうね。こうした研究課題に立ち向かうことになりますと、経済学さえ分かっていれば、後のことはおのずから分かってくるなどという人々でも、そういう人々がときにはおりますね、それじゃ経済学でひとつ解決して下さいといわれたら、すぐに困ってしまうのではないでしょうか。ともかく、いろんな専門分野の知識が協力し合わなければ、どうしてもうまく行かなくなってきたわけです。
さて、こういう状況になってきますと、そろそろ "専門馬鹿" という言葉が飛出してくるような事態も生まれてくるわけです。専門的知識というのは、具体的な現象のある特殊な局面だけに視野が限られているような知識ですから、どのように専門に徹していても、それだけでもって、そうした具体的な問題を処理していくことなどはとうていできないわけです。専門的知識になにかそれ以上のもの、何か萬能のmagicのような力をあたえては絶対にいけない。いまも言った、経済のことさえ知っていれば、後のことはみな分かるなどという考え方には、なにかマジック的な思考様式が残っているんじゃないかという気さえします。ひょっとすると、マルクスなどがそういうふうに言っていそうに思うかもしれませんが、よく読んでごらんなさい。彼はそんなことは決して言ってないはずです。そうしたことに関連して、ちょっとお話しておきたいんですが、昔から"一冊の本の人"、homo unius libriという言葉がありますね。もっぱら一冊の本を読み、それだけで物を考えていこうとする人のことです。が、また、"一冊の本の人は警戒せよ" という言葉もありますね。どんな立派な本でも、たった一冊の本を読み、それをマスターしたら、あらゆる現象はそれからの演繹で理解できるんだというような考え方は、あぶないということでしょうね。こういうことも、すぐには分からないかもしれないが、念頭に置いていて下さい。
ところで、こうした事情のなかで、同じ専門化のなかでもこんどは実践的専門化の方がだんだんと前面にでてくるようになってきました。つまり、ただ専門化をますますこまかい分野にまで押しひろげていく、とりわけ理論的専門化を押しすすめるだけでは、とても複雑な現実を科学的につかめない、あるいは処理しきれないということが、分かってきたわけですね。が、それはどういうことなのか。これは自然現象ですけれども、便利ですから、例えば颱風の予報のばあいをとって説明してみることにしましょう。このばあい、何か気象の動きを根底において左右しているような或る法則的必然性があって、それによって結果を百発百中に予測する、そんなことでは絶対にありませんね。もし、本気でそんなことを言ったとすれば、おそらく笑われるでしょうね。現実に行われるのは、皆さんが新聞でみるようなあの颱風予報です。たいていはこうでしょう。硫黄島あたりで発生した颱風の卵がしだいに発達しながら、はじめは西へ向かって進んでいく。季節によると、そのまま中国の方へ行ってしまうこともありますね。ところが、九月ごろには日本列島の方にやってきて、本州を横断するようなことが多くなるわけです。そのばあいでも、室戸岬に上陸して大阪を襲うか、紀伊半島を通過して名古屋を襲うことになるか、なかなか分かりませんが、颱風の目が近づいてくるにしたがって、その可能性の幅がだんだんせばまり、見通しがはっきりしてくる。そして、新聞紙上で見かける鋏状の予想図となるわけです。分かるのはそれだけです。社会現象のばあいも実は同じことで、ある可能性の幅が分かるだけですね。ただ、分からない範囲が一般にもっと多いかも知れませんがね。つまり、予測できるのは客観的可能性だけだというわけなのです。なにか現象の底にひそむ法則的必然性、そうしたものによって結果をすべて正確に見通すといったようなことは、実は絶対にありえないことですね。一定のことがらが現実におこりうる可能性の幅が見通せるだけで、それが客観的可能性といわれるものなのです。では、どうしてそういうことになるのか。自然現象のばあいも社会現象のばあいも同じです。社会現象についていいますと、現実はたとえば経済の法則だけですべて必然的に動いているのではなくて、そのほかに、法とか、政治とか、いろいろな文化領域の固有な法則的な動きが、あるいは、促進しあい、あるいは阻止し合いつつ、互いに絡まり合って社会現象の現実の動きを形づくっているわけなのです。こうしたさまざまな法則的動きの絡まりあいを、マックス・ヴェーパーは適合的因果関連とよんだのですが、実践的な立場から或る社会現象の動きの見通しないし予測をおこなおうとするばあいには、科学的であろうとするかぎり、こうした適合的因果関連を追究し、それによって、現実のある幅をもった可能性、つまり、客観的可能性を明らかにしようとする。これより他にありえないことは、さきにお話したことからも分かっていただけることと思います。実は、こういうわけで実践的専門化がますます科学的研究の前面に姿を現わしてくるとともに、いろいろな領域における、あるいは、社会科学だったら、いろいろな文化領域における、理論的知識の綜合ということが、したがってまた、単なる専門化をこえた綜合化がいよいよ避けがたい状況となってきたわけなのです。ただ、ここで一言しておかねばならないことは、専門化に対して綜合が必要となったといっても、專門化への努力はもうやめてもよいなどというのでないことは、いままでお話してきたことから、すでにお分かりでしょう。専門化もますます進めなくてはならない。しかし、それと同時に、綜合化をもはや避けて通ることはできなくなった。いや、それどころではない。実り豊かな綜合を行うためには、同時に専門化もどしどし進めていかなければならないばかりか、いまやそうした専門化も綜合化への方向づけに支えられ、裏付づけられつつ進展することになってきたわけです。さきほども言ったように、実践的専門化のばあいには綜合化ということがすでに初めからその中に含まれていて、実はそれが科学の進歩を押しすすめていた。そうした綜合化の努力がいまや科学の営みの前面に姿を現わすことになったのだ、といってもよいでしょう。
さて、このようにして、科学とその背後にある実践的意図との関連の意味が、どうしても問題にされねばならなくなるわけです。もちろん、科学研究という営みには、自己目的という一面があります。知るに値いするものを知ろうとする、いわば知的価値の追求という一面が確かにあります。もしそれが否定されるとしたら、大学の自治とか、研究者の自治などのもつ意味を理解することができず、その折々のさまざまな政治的要求や社会的要求に研究が屈服させられそうになったばあいにも、その近視眼的な誤まりに対抗する根拠を見出しえないことになるでしょう。そういうふうに、科学の研究は一面において、たしかに真理のための真理の研究でなければならないのですけれども、しかし同時に、なんらかの意味で社会的実践との関係が問題になるや否や、他のさまざまな諸価値からの要求と緊密に結びつくことになるだけではない。さらに、その奥では、時代の要請、あるいは、その他いろいろな名称でよばれてはいますが、ともかくその時代を支配している、あるいは、次の時代を支配するであろうような究極の価値によって支えられ、押しすすめられてきたし、また、押しすすめられることになるといってよいでしょう。実践的専門化のばあいはもちろんそうですが、もうひとつの理論的専門化さえも、結局はじめからそうした究極の価値に支えられ、押しすすめられてきたものであることは、いまや明らかだといわねばなりますまい。
このように、科学研究の背後には、時代の要請ともいいうるような究極の価値が横たわっている。日本語には "思想" という便利な語がありますが、もしそういう表現を使ってよければ、科学研究の背後には、意識されているかどうかは別として、一定の思想がひかえていて、その営みを支えている、といってもよいでしょう。序でにちょっと言っておきますが、英語のreligionという語はしばしば現実とのはげしい緊張関係を意味していますが、日本語の宗教となりますと、そうした意味合いがほとんどなくなってしまうようです。それに比べて、思想という語は、その点ではかえってreligionに近い意味合いをもっていますから、ここで思想という語をあえて使ってみたわけです。が、ともかく、科学研究の進展の根底には、一定の思想的基礎が必ずあるわけです。もちろん、そうした思想的基礎は時代によって変りますし、また、現在の文化を支えている思想と、次の時代の文化を生み出そうとしている思想のあいだには、さまざまなはげしい緊張が生じてくることになりますが、そうした点はいまは触れぬこととして、とにかく科学研究は、実践の面では、こうした究極のもの、つまり思想に支えられて成り立っているわけです。もちろん、さきにも言ったように、認識の面における科学研究の自己目的性を忘れてはならないし、忘れると退廃をよびおこすわけですが、また実践の面で科学研究が深く思想的根底に連なっていることを忘れると、これまた退廃をよびおこすことになるわけです。ところで、この思想というものは、たとえば思想史とか、宗教社会学というような社会科学の諸分野があることからでも分かるでしょうが、思想なり、宗教なり、そうした価値的立場が現実の社会現象に対して影響を及ぼし、形をとって現われてくるかぎりにおいて、それを対象化して社会科学的研究を行うことはもちろんできます。しかし、思想とか、宗教として現われてくる価値それ自体は、どうしても科学の対象にはなりえないものですね。また、或る意味では、なりえないからこそ思想でありうるわけです。これは、ぜひ知っておいてほしいことだと思います。科学的思想という語がありますね。科学に支えられた思想というものはもちろんありえます。しかし、それは思想が科学になってしまうとか、科学が思想として働くとかいうことではないわけですね。そんなことになったら、おそらく思想はもうまったく力のないものになってしまうでしょう。思想が科学によって基礎づけられなければならないというのは、そういうことでは決してないわけです。たとえば、諸君はたぶんマルキシズムについて科学的社会主義という表現を聞いたことがあるでしょうが、あれはマルキシズムという思想体系がずばり科学知識のかたまりだということではないはずです。マルキシズムが思想であるかぎりは、そのなかに、どうしても科学の対象となりえないものが、捜せば必ずあるはずですね。諸君、それを自分で捜してごらんなさい。たとえば、マルクスの思想の根底には、社会的人類とか、人類的社会という理念がありますね。が、あれは、歴史上かって現実に存在したとか、存在してるというようなものではありませんね。むしろ、それは価値であり、あるいは、マルキシズムという思想の根底を形づくる理念であって、決して社会科学的研究の成果として得られた概念などではありません。しかも、人類的社会という理念は、マルキシズムという思想から抜き去ることができないばかりか、むしろ、それあるがゆえに「資本論」の科学性が成り立つような公理というか、そうした前提をなしていると考えねばならない。マルキシズムについてはいろいろの議論がおこなわれていますが、たとえば、そういうことも、ひとつ考えてみて下さい。なにか、"科学的" という語を聞かされただけで文句なしに頭を下げたりするのは、思考の弱さを示すといわれても仕方ないでしょう。逆に、科学という営みをその奥底において思想が支えていることを、ぜひ知ってほしいと思います。そういう意味で、このせつ、科学を超えるものとしての思想が、多くの若い人々のあいだで問題にされはじめていることは、そのこと自体としては決して悪い現象ではなく、むしろ、喜ぶべきことであろうと私は考えています。
ただしかし、そうしたことに関連して、もう一つだけどうしても言っておきたいことがあります。それはこういうことです。思想というものは、そういうふうに、どうしても科学の対象となりえないものなのですが、また、それだからこそ、いうならば箍(たが)が外れることもありうるわけです。さまざまな思想は、宗教もそのなかへ含めていいんですが、民衆にいろいろな約束をするものです。これも魂の世界というか、内面的なことがらだけではなくて、政治的、経済的、その他さまざまな現世的な約束を民衆に対してするものです。宗教のばあいもまったく同じだということは、このごろの世相を観察すればすぐに分かることでしょう。そして、まさにその点に、さまざまな脱線、いや、はっきり言ってしまえば、ホラ吹きの可能性もはらまれてくるわけです。思想というものは、実は、本来的にそういう性質をもってます。その信仰に帰依すれば、すべてが解決、病気はなおり、立身出世し、金持ちになるとか、ある思想が行きわたれば、政治、経済、その他社会の萬事がおのずからよくなっていく、というふうにですね。ですから、さきほど申したように、科学の底には思想がある、科学の営みは思想に支えられてはじめて成り立ちうる、ということを一方的に強調するだけでは、これまた一種の危険を伴うことになるわけです。ところで、かりに思想ないし宗教がそういうふうに無責任な約束をしたとき、こんどは逆に、科学の方が、その誤まりを明らかにすることができるわけです。実は、科学にはそういう面がある。いや、社会科学にもそういう一面があることを、とくにこのさい諸君に知って欲しいと私は思うのです。それは、こういうことなのです。たとえば、ある思想ないし宗教が、たいへん魅力のある現世的な、あるいは政治的経済的な約束をしたとします。そのばあい、言うことがあまり極端だと、それがおかしいということは直ぐにも分かるでしょう。しかし、Sophisticateされていて、それがなかなか分からんこともあります。その時に社会科学はこういうことができる。かりに、彼らと同じ価値観に立ってみる。そして、現在の具体的な客観的諸条件のもとで、彼らのいうような手段を用いて行動したばあい、彼らの約束がはたして実現されるであろうか、そうしたことを概念装置によって追究してみるのです。もう少し詳しくいうと、そういう因果関連がはたしてどこまで現実に可能であるか、その客観的可能性をさまざまな法則的知識を援用することによって検証してみる、そういうことができるわけですね。それによって、そんなことはまるで夢物語だということが直ぐ分かるばあいももちろんあるでしょうが、少なくとも、天気予報のように、或る程度まで結果を予測することができるでしょう。こういうふうなやり方で、科学は思想を批判することができるわけで、これをマックス・ヴェーバーは価値批判、Wertkritikとよんだのでした。
考えてみますと、歴史の流れのなかで多くの思想が大小さまざまの働きをしてきたわけですが、彼らが約束した通りのことが、結果として、実際に実現したことはまずなかった、と言ってよいでしょう。かりに、実現されたといってよいようなばあいでも、理想とするところにかなり近づいたというだけで、しばしば思わない結果を生み、場合によると、逆の方向へ行ったことさえあるわけですね。ちょうどこの薬なら病気が治ると思って飲ましたが、副作用が出てきたり、ときには死んでしまうようなことさえあるようなものですね。同じことは、もっと規模の小さい、われわれが目前に見る政治、経済その他の社会現象についてもいえるわけです。そして、たとえば政府のさまざまな政策、政党の公約―これには、残念なことに、頭から信用してかからない習慣がありますが―企業の経営方針などを、いま言った価値批判の方法によって、社会科学の、いや、もっと広く科学の立場から、肯定的にあるいは否定的に批判することができるでしょう。科学は、もちろん社会科学を含めて、われわれにとってこのような意味をもっているのです。そうした科学の立場にたつ物の見方、考え方の基本を、諸君はいまから始まる学生生活のあいだに学びとり、身につけようとしているわけですね。もちろん、私はそうしたことが大学における生活すべてであるなどとは決して考えてはおりません。そのほかにも重要なことがいろいろあるし、その奥には究極的な意味をもつものがあると考えます。が、しかし、大学よりももっと整った条件のもとで、効率よく学問の基本を身につけることができるような場所は、他にあるでしょうか。もちろん、大学以外でも学問はできますし、場合によると、そういうところから、かえってすぐれた人材が生まれてくることもありうるでしょう。が、相対的にですが、それにもっとも適した場所が大学はそうしたことは明らかですし、むしろ、大学はそうしたこと を本来使命とする制度だといってよいでしょう。こうしたことを念頭において、諸君がこれからの四年間をできるだけ有効にすごされることを切望します。こういうことを私がいうことの意味は、いまは或いはいまはまだ十分には分からないかもしれない。けれども、どうか諸君の記憶のなかにとどめておいて下さい。諸君が勉強してるあいだに、たぶんだんだんと分かってくるだろうと思います。諸君が新しい学生生活をまえにして胸をふくらませているそのときに、私がお話したく思うことはまだいくつかありますが、きょうお話したこともその大切な一つでした。ご静聴ありがとう。(拍手)
※ 本稿は、1970年4月23日国際基督教大学春季大学オリエンテーションでおこなわれた講演に加筆されたものである。
大塚久雄 1907年京都に生まれる 1930年東京大学経済学部卒業 専攻-社会経済史 現在-国際基督教大学教授 著書-「株式会社発生史論」「近代欧州経済史序説」「資本主義の系譜」「社会科学の方法」「社会科学と信仰の間」「大塚久雄著作集」(全10巻) 編著-「マックス・ヴェーパー研究」「西洋経済史講座」(全5巻) 訳書-マックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」他
「科学における綜合化と専門化」 1970年7月1日第一刷発行 著者:大塚久雄 発行者:東京都三鷹市大沢3-10-2 国際基督教大学学生部 讃岐和家 印刷(株):文伸印刷所