学生生活について (1972年度ICU入学式記念講演)
中川 秀恭
只今、御紹介いただきました中川でございます。入学おめでとうございました。御父兄の方々の御喜びもさぞかしと御察しいたしております。皆さんはこれから大学生活に御入りになるわけでありますが私は人生において最も意味の深い時期の一つに皆さんがおはいりになられるという風に考えております。
小学校・中学校・高等学校までは、御父兄もそうでありますが、御本人である皆さんも、より上級の学校への入学、究極の目的は大学ということでございますが、小学校におれば中学、中学に居れば高校と言うように、ないしは幼稚園のあたりから、あるいは生れた時から、そのような目的意識をもたれ、皆さんの生活がその目的のもとに統一され、言わばマックス・ウェーバーの目的合理性によってほぼ規制されて今日まできたのだと思います。そうして、本学に入って喜こんでいる方もあるでしょうしあるいは別の国立大学などへ受験したかったんだが、残念ながら落ちたので止むを得ずここに入ったという方もおいでかと思います。しかし、とにかく本学に入学しますと、今までのようなより上級の学校へという意味の目的がなくなります。さればと言って、就職とか結婚とかいうようなものが、大学生活の全体を統一する目的となって、皆さんの四年間、ないしそれ以上営まれる生活を規制するようなことはないと思います。そのような意味で、皆さんが大学へ入った途端に、今まで自分がそのために日夜苦労をし、喜こんだり、悲しんだり、あるいは自分は何のためにこうしなければならないのかという疑問と戦いながらやってきたその目的が、達成された形になります。これからの学生活は、そのような意味で、言わば外的に強制された目的、ないし生きがいという風なものが脱落して、新しく何かを発見しなければならないと言うような状況になるのだと思います。
これは私共が書物を書くとか、ある仕事をなしとげた時に、一時的に味わう一種のニヒルの状態に似ていると言えましょう。例えば、書物を書いてそれが出版されると喜こびを感じますが、それと同時に次の仕事を始めるまでに一種言い得ぬ空虚の期間があります。それは次の段階への準備という意味をもっているでしょうし、いろいろ複雑な可能性を内包していると思います。しかし、とにかく私共は虚脱のような状態に陥ります。そうして、そこから再び新しく出発するためにはかなりの期間と努力とを必要とします。その仕事が大きければ大きいほど、そういう試練に会うのであります。皆さんが、今日、今、直ちにどうこうということは、私にはわかりませんけれども、とにかく大学の生活においてはそういう一種の虚脱、ないしはニヒルに似た状況の中へと投げ出される。皆さんが身をもってそれをしみじみと体験なさる時期が遠からずやって来ると思います。そこで私は、そういう観点から、学生生活について若干反省致しまして、皆さんの御参考に供したいと思う次第であります。
早稲田大学の助教授で慶応大学の講師をしているA・W・ピーターソンという方が、ある定期刊行物(『ばいぶ』昭和四十七年二月) の中に「日本の大学生たち」という題で短い文章を書いております。私はたまたまこれを見まして、大変肯綮に値すると思いましたので、この文章をところどころ御紹介して、私の話しへの糸口としたいと思います。
この文章の第一の見出しは「カントリークラブ的」となっております。カントリークラブというのは、私は勿論入っておりませんが、ゴルフのクラブのことじゃないかと思います。ピーターソン氏は次のように書いております。
「日本の学生が、大学へ入学したあとの態度に、私はしばしば驚かされる。彼らはまったくリラックスし、卒業するためにはそんなに一生懸命勉強しなくてもよいというので、安心しきっている。彼らはしばしばこの態度を次のように説明・弁明する。曰く、彼らは大学へ入学するために高校で死にもの狂いに勉強しなくてはならなかった。だから彼らは、リラックスし、大学生活を大いにたのしむ権利があると……。
こうしたわけで、私は日本の大学とは、学問の府ではなく、カントリークラブに近いのではないかとよく思うのである。
排他的なカントリークラブのメンバーになるのは、非常にむずかしい。一種類、あるいはそれ以上の厳格な資格審査をパスせねばならないので、受験者は資格を得られず、メンバーシップを拒否されるのではないかと心配するのである。
最終的にメンバーとして受け入れられれば、もうゆったりと腰をおろしてリラックスし、メンバーとしての名声と、ほかの数々の社会的報酬をたのしむのである。
入学試験、それも有名校の試験をパスしたあとの学生も、同様にリラックスし、同様の名声をたのしみ、さらに同様の社会的報酬をたのしむ。これらは、学生時代はもとより卒業後にもつづけて約束されている。
カントリークラブの場合も、そして大学の場合も、もっともむずかしいのは、非常に困難な資格試験をパスすることにあり、それが達成されてしまえば、もうなにも心配することはないのである。」
ピーターソン氏は、日本の大学や大学生をこういう風に見ているわけであります。「日本の大学とは、学問の府ではなく、カントリークラブに近いのではないかと、よく思うのである」と言っておりますがこれについては勿論問題があるわけでして、「学問の府」であるか、「カントリークラブに近いものである」かは、一にかかって皆さんが大学においてどのような生活をなさるかという主体的な態度にあるわけでありまして、客観的に大学は「学問の府」であるかないかということは断言できないのであります。勿論、大学は「学問の府」であるわけでございますが、それは皆さんにとっては可能性としてであり、また教員たちにとって、事実そのようなものとして営まれているのでありまして、ただ卒業免状をもらうために通過しなければならない人生における一つの駅亭、ないしは停車場のように考える人にとっては、大学は「学問の府」ではなくなります。こういうわけで、ピーターソン氏のこの言葉には問題があります。
さらにピーターソン氏は「大学の現実の問題」という見出しで、次のように言っています。
「前述の問題 (「過激派学生のパラドックス」という見出しで述べられている問題) への一つの可能な答は、カントリークラブ的生活が、学生に多くの自由な時間を提供するということである。自由な時間を多く持つということは悪いことだろうか。一部の学生にとって、それは悪いことではない。たしかに良いことだ。彼らは勉強し、ほかの種々の活動をすることによって、彼らのモラル・知性・理性を高める。しかしながら多くの学生にとって、余暇は多すぎるほどである。彼らは目的のない遊び、受身的なたのしみに時間を浪費し、狂信的なグループの活動に参加し、あるいはただ単に時間を食いつぶす。要するに彼らはうんざりしている。退屈こそが、日本の大学生の多くの現実の問題である。」
この文章におけるピーターソン氏の狙いは、「余暇をどう使うかが日本の大学生にとって最大の問題である」ということにあるようであります。今日、余暇と言えば直ちにレジャーと結びつけられますが、
大学における余暇というのは、もともとそういうものではありません。ギリシャ語にスコレー(schole)という言葉があります。これはスクール (学校) という英語、その他の近代ヨーロッパ語におけるその同義語の語源をなすものでありますが、「暇」あるいは「閑暇」ということであります。さきほどの学長の御挨拶の中にもありましたが、プラトンやアリストテレスなどのようなギリシャの哲人たちはアカデーメイア(Academeia)とかペリパトス(Peripatos)とか呼ばれる学校で多くの弟子を育てましたが、学問というものはスコレーがないとできない、自由な、直接の目的のない真理の探究が行なわれるためにスコレーが必要であって、それが学問の条件である、という風に考えておりました。ヨーロッパ中世の哲学は「スコラ哲学」と呼ばれております。これは「学校哲学」ということでして、「暇の哲学」と直訳することもできましょう。ところで、ピーターソン氏はこの余暇が問題だと言います。なるほど大学に余暇があるのは事実であります。けれども、それをどのように受けとるかということによって、学問をするために欠くべからざる条件としての余暇にもなりますし、暇をもてあまし、退屈するという意味での余暇ともなるでありましょう。そういうわけで、スコレー、余暇が如何なる意味をもつかは、皆さん自身がどのようにそれを利用するかということにかっておるのであります。
さて、皆さんは今まで蓄積した実力を充分に発揮できたかどうか問題でありますが、とにかく入学試験に合格して、国際基督教大学の学生になりました。この事実が皆さんの将来を殆んど運命のように決定します。欧米でもそうでありますが、特に日本の社会では、どの大学を出たかということが、その人の一生をついてまわるのでありまして、いろいろな社会的特権、待遇、あるいは人々の期待というようなものは、どこの大学の出身者であるかということで決まるようなところがあります。勿論、実力を発揮して、それによって社会的な活動をすることはできますが、大部分はどこの大学を出たかということで決まります。そういうわけで、皆さんは本学の学生になったということによって、一種の運命共同体のメンバーになられたのだと思います。それと同時に、皆さんがピーターソン氏の述べているような一種の危機的な状況の中へ投げ出されているということも、事実であります。危機と申しますのは、それの語源をなすギリシャ語クリシス(crisis)のもとの意味から言いますと、こっちへ行くかあっちへ行くかという別れ道のことであります。したがって、大学が学問の府であるかないか、余暇はどういう意味をもつかということも、それをプラスの方に受けとるか、マイナスの方に受けとるかという皆さんの態度(分ける、批判するというcrineinの態度)にかっているのであります。この意味で、ピーターソン氏の言葉は、まさに皆さんが危機的状況の中へ投げ出されていることを指摘しております。ほかならぬ自分自身のこの状況をどのように受けとり、そこから未来に向ってどのような計画を打ちたていくかということが、学生活における最も大きな課題として、今や皆さんに与えられていると思います。日本の大学生たちについてのピーターソン氏の印象は、この意味で、当っていると思います。
先程、御紹介がありましたように、私は国立大学の一年生、二年生を扱う教養部の部長などをつとめて経験しておりますが、そこではピーターソン氏の言葉が当っているような状況が、しばしば見られます。しかし、それには外面的な観察にとどまる面がありまして、もう少し深く堀りさげて、そのような状況がどこから出ておるかと考えますと、それは大学の本質をなす自由というものに由来すると思います。大学における自由―それは教員にとりましては「研究と教育の自由」、一口に言えば「学問の自由」ということで保障されていますし、学生諸君、特に学部の学生諸君におきましては、学習ということが中心になりますから、学問の初歩的段階における「学習」ないしは「研究の自由」ということして現われるわけであります。したがって、大学におきましては、外部から何々をしなければならないという風な強制とか圧力とかが、かってこないのでありまして、自由を与えられ、自由を生きる大学人にとりましては、すべては自分自身でしなければならない、頼りになるのは自分以外にはない、ということになります。
一般的に申しますと、自由は自発性 (Spontaneity) ということであり、他律 (Heteronomy) にたいする自律 (Autonomy) であります。他の如何なるものによっても規制されることなく、自己自身の内面から発する命令に基づいて行為することが、すなわち自由の行使に外なりません。哲学者カント (Imanuel Kant) はかかる命令を実践理性の定言的命令 (der Kategorische Imperativ) と呼び、それは「汝の意志の格率 (Maxime ― 個人が自らその行為の規則とする主観的に妥当な原理のこと) が常に同時に普遍的立法の原理として妥当し得るように行為せよ」という形式的命令であると言っています。カントによれば、人間の行為の主観的な規則が人類に普遍的に妥当する原理となるように行為することが、自由の行使ということなのであります。自分の好きなこと何をしてもいというのが自由ではなくて、自分の行為が凡ての人間に普遍的に妥当するように行為すること、自己にたいし、人類にたいして責任をもって行為することが自由なのであります。ところで、宗教改革者ルター (Martin Luther) は、使徒パウロにしたがって、「キリスト教的な人間」とは何であるか、「キリスト者の自由」とは何であるかについて考察して、次のように言っています。「キリスト者はすべてのもの上に立つ自由な君主であって何人にも従属しない。キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。」(『キリスト者の自由』) 。すなわち、ルターによれば、キリスト者の自由とは自由と奉仕、「…からの自由」(Freiheit von…と 「…への自由」(Freiheit zu…) という矛盾する二つのことから成立しているのであります。もとより、ルターにおけるキリスト者の自由と、哲学者カントにおける人間的自由とはどうかわり合うのかということは、大きな問題でありますが、ルターにおいては自由は、自己においてキリストを通じて神にたいして責任(Verantwortlichkeit) を負って、隣人にたいして行為するところに成立し、カントにおいては、自己において全人類にたいして責任を負って自発的に行為するところに自由が成立するということができましょう。
かくして、自由は自己自身の内面から、神にたいし、あるいは人類にたいする責任において発動する行為を通じて実現されるのでありますから、自己以外の何ものかによって支えられているのではなくていわば虚無の上にさしかけられているのであります。このような意味で、自由は虚無の深淵から発出するということができましょう。
もっとも、大学におきましては、カリキュラム、その他の規則がありまして、卒業するためにはこれこれの科目を履習しなければならないとか、その他こまごましたことが定められております。しかし、それはいわば学習のためのほんの道標でありまして、それ以外には、皆さんは、今申しましたような一見頼りのない、虚無にも似た自由の中で、自分自身の内から自分のプランを設定し、「企投し」(entwerfen― 実存哲学の用語) ながら、やって行かなければなりません。従って、解放された自由な人間というものは、時としてはどうしていか分らないという困った状況に陥ります。目標とかプランとかを企投してもおらず、またそれが出来もしないのに、自由が与えられますと、自由は却って大変に持て余すような重荷となりましょう。その結果、外部から権威をもってこうしろという風に指導してくれないものかというように、頼りを求めることになります。皆さんの場合でしたら、大学の中で、あたりを見回しても、説得力や権威をもって、あるいは魅力をもって自分を導いてくれるような人は一人もいない、大学とは本当に頼りにならないところだ、と思うこともありましょう。あるいはまた、自由を別の形で行使しようとして、ここに一種の屈折した自由の行使が起ってくる。それがピーターソン氏の挙げたような現象として現われることになります。
いずれにしましても、大学は「学問の府」であり、そのためには自由でなければならないというところがあるために、日本の大学に見られるような、勉強しなくて卒業できる、そのために暇がありすぎて退屈するという現象が起るわけで、これは自由をマイナスの方に向って行使した一つの結果であると思われます。こうして、皆さんは今まで経験したことのなかったような深刻な危機的状況の中へ投げこまれるわけであります。その時、皆さんの中から必然的に一つの疑問が湧き上がってくるでありましょう。それは、自分は何のために大学へ入ってきて、勉強したくもない単位を履習しなければならないのか、面白くもない講義を聞き、ノートをとらなくちゃならないのか、という意味の疑問でありましょう。更にまた、自分はところてんのように大学から押し出されて行く。そして、大学の社会的地位によってほぼ決った就職先へ就職して行く。だが、そんなことに何の意味があるのか。いったい、自分は人間として何のために生きなくてはならないのか、という疑問も起ってくるでありましょう。自分は「何のために」生きなくてはならないのかという疑問は、自己自身の存在にかわる究極的な問いかけでありまして、ふだんは「眠って」おりますが、ふとしたはずみに、突然に、ひとりでに、皆さんの存在の深いところから、おそいかってくるのであります。
皆さんが学生活において出会う最初の大きな問題、皆さんの真正面に立ちはだかってくる問題は、このような意味における「何のために」という問いであり、それとうらはらに、「何のために」などというものはない、すべては無意味で、ニヒルではないかという疑問であります。そのようなニヒルにたいして如何なる態度をとるか。皆さんの中には非常に真面目な学生もいらっしゃるでしょうから、別にニヒルを経験することもなく、単位をきちんと取り、模範的な答案を書き、良い成績で卒業して、然るべきところへ就職する、あるいは結婚するという方もおられると思います。そういう風に、言わば敷かれたレールの上を事故なしに、順調に走って行く方が居られると思います。しかし、レールの上を走っていても、丁度列車が駅にとまったときに、何か一種のシーンとした空虚のようなものを感じる瞬間がありますが、模範学生といえどもそれに似た瞬間を経験することがあると思います。
以上の分析が当たっているとしますなら、皆さんは人生における最初ともいうべき「限界状況」(Gr-enzsituation)、自分自身の存在が無意味ではないか、自分の営みが意味をもっていないのではないかという自己の存在そのものが問題となる状況に遭遇されることになります。その瞬間がいつ到来するか予想はできませんが、皆さんは「いつか」単位の履習、その他のことを越えて、あるいはそのような営為のただ中でニヒルに直面し、好むと好まざるにかわらず自己自身の存在の意味の探究を始めざるを得なくなるでありましょう。
それでは、大学というところはそのような問いにたいして、一体如何なる答えを用意しておるのか。私は、答えを用意しておるという意味で「イエス」と言うこともできるが、答えはないという意味で「ノー」ということも出来ると思います。このこともまた、皆さんの態度如何にかっているのでありまして、医者が皆さんのために処方箋を書き、薬を配剤して、それを飲めばたちまち治るというような特効薬は、大学は持ち合わせていないのであります。大学における自由というものは、先程の入学式の時に読まれた聖書の箇所にありましたように、「求めよ、さらば与えられん。門をたたけ、さらば開かれん」という言葉でよく言い表わされていると思います。自由そのものも、いかにしてそれを求め、いかにして門をたくかという皆さんの主体的な態度にかっておりますが、今問題としている究極的な問いにたいする答えも、皆さん自身がこの自由を行使して自分自身でさがし求めなければなりません。方法的に正しく、自己自身によって自由に求めるとき、答えが与えられるでありましょう。従って、大学は皆さんが限界状況において出会う究極的な問いに、可能性において答えることができますが、現実的にはその答えは、皆さんがどのようにしてそれを求めるかということにかっているのであります。さきほど、イエスと言うこともノーと言うことも出来ると申しましたのは、こういう意味においであります。
しかし、こう言っただけでは、皆さんはおそらく満足なさらないでありましょう。そこで、一人の先輩の言葉を引用して、大学における皆さんの生活がどういう意味をもつかということを、答えとしてではなく、試論的に一つのモデルとしてお話して、御参考に供したいと思います。
イギリスの歴史家アーノルド・トインビー教授が、昨年『未来を生きる』という書物を出版しました。これは明けて一昨年、毎日新聞に九十七回にわたって連載された特別記事をまとめたものであります。その記事というのは、毎日新聞社の企画によって、京都産業大学教授若泉敬氏が、「今日の生きがい」、「生と死」、「科学する精神」等八項目にわたり六十六の質問をあらかじめトインビー教授のもとに送り教授の準備ができてから、若泉氏がロンドンにトインビー教授を訪ね、一週間にわたって、のべ十七時間対談、それを紙上に連載したものであります。
その第一問「人間は何のために生きるべきか」にたいして、トインビー教授は次のように答えております。「私は人間の生きる目的は愛すること、英知をはたらかせること、そして創造することだと申し上げたい。人間はこの三つを追及するために全能力と全精力をさげるべきだと思います。そして必要とあれば、これらの目的を達成するためには自らを犠牲にしなければならないと考えます。」トインビーはその後数回にわたる記事の中で、人間の創造・英知・愛のはたらきについて説明しております。
私は、トインビーの説明する、創造と愛と英知の働きを、くわしく紹介するつもりはありません。私は、私なりに解釈した、この創造・英知・愛の働きを簡単に申し上げまして、それが大学という一つの機関において、どのように営まれるかということを御話したいと思います。創造と申しますのは、近代的の意味においては科学技術によって、さらに又、大企業がいろいろな設備をいたしまして、物を作る、新しいものを作っていくという意味に解されます。しかし同時に又、芸術家あるいは、その他の人々が新しい美、真なるもの、善なるものを実現し、発見してゆくという意味においても、この創造ということは言えるでありましょう。しかし、現代における最も言葉の本来的な意味におきましては、創造というのは、人間が今までなかった新しいものを、科学技術ならびにそれの企業化を通して、この世に作り出してゆくという営みであると思います。そのためには、いろいろな資源が必要でありますし、そこから人間の生活に役に立つものができますと同時に、マイナスの効果であるところの公害がいろいろな形で発生いたします。さらに又、地球には限られた資源しかありませんからそのような資源が、どんどん消耗される、ということであります。とにかく人間における最も人間らしい営みは、新しいものを作ってゆくということであり、キリスト教的に言えば、天地万物を作った神が、己れの姿に似せて作った人間が、神から託された尊い仕事であるという風にも解されると思います。
しかし、神の無限の創造の働きとは違いまして、人間の創造の働きには、非常に限界があります。大学における研究というものは、科学技術の方面におきましては、まさしく、人間のこの創造の働きの準備にほかなりません。いろいろなものを発見してゆく、そうしてそれが、すぐさまそのからくりに従って人工的に作り上げられていく。それがやがて、企業化されて、大きな設備で物が作られていくということであります。
しかし、このようなものを作るという働きは、英知によって導かれないと非常に大きな危険を作ります。なるほど、企業、その他は直接の目的としてある物を作る。そのためには、どのように合理化していかなくてはならないかという意味で、極端に合理的なシステムを組織して物を作りますが、それは、その企業のある物を作るという限定された場面における営みでありまして、自分のそのような生産というものが、人類の全体的な営み、あるいは、地球における自然のからくりに対してどのような影響を及ぼすかということは、一つの企業は、考えていないのであります。人間の技術的な知識、科学的な認識というものは、そういう意味における部分的な認識に過ぎないのであります。従いまして、そのような人間の物を作る営みが、人類全体、地球全体に対してどのような意味を持ち、又どのように処理されなければならないかということは、個々の部分的目的・部分的営みを越えた、物の全体を見渡すことのできるような英知を必要といたしますし、その英知によって導かれなければなりません。このような英知ないしWisdomというものは、自然科学のある特定の分野を研究する、人文科学、社会科学のある一つのテーマを研究していくということによっては養われないものであります。しかし、さればといって、そのような個々の科学的な研究を離れては養うことのできないものでありまして、個々の研究に即しながら、同時に全体を見渡すような、そういうものとして養われていかなければなりません。こに、私は教養、言葉の本来の意味における教養というものが必要になってくると思います。古今東西の古典に親しむ、あるいは現代の最もすぐれた人々と人間的な交わりをする、あるいは大学は世代から世代にわたって科学的な知識並びに人間的な英知を蓄積しておりますから、そういう大学という社会において、皆さんが人々と交わることによって獲得され始めるものでありましょう。しかし、このような英知は大学生活四年間で養われるものではありません。一生を通じて涵養されなければなりません。けれども、皆さんは大学においてそういうものを求める端緒を、掴むことができるだろうと思います。
ところで、そのような英知といえども、愛によって支えられなければ、マイナスの方向に英知が使用されることがないという保障はありません。愛というものには、いろいろな現象形態がありまして、友情あるいは夫婦の愛、恋人同士の愛、その他いろいろあります。そういう現象形態がございますが、しかしそれとは別に、自分自身を越えて他人を指し示すような、つまり自己を超越して他人を志向するような人間関係が愛の最も純粋なる形態であろうかと思います。このような愛をいかにして養うかということは、大学においてはなかなか学ぶことができません。私は、そのような愛というものは、人間を超越する絶対的な存在者、神と呼ばれる存在者によって人間が呼びかけられることによって、その超越する存在者に対して人間が応答していく、答えていくというその答えていく仕方のうちに養われると信じています。我々は、神に直接、答えることはできません。神に答えるためには仲間の人間に対して答えなければならない。つまり、横の人間関係を通して、神の呼びかけに答えていくということが最も純粋な意味における愛の究極の姿ではないかと思います。そのような自己超越的な愛によって英知が導かれ、さらにその英知によって人間の創造の働きが導かれる時、ここに地球上における人間の人間らしい生活というものが保障されるだろうと思います。
簡単に申しましたが、そのような考えを別にトインビーが申しておるわけではありません。トインビーが「人間が生きる目的は、愛すること、英知をはたらかせること、そして創造することだと申し上げたい。……」と言ったのは、おそらくそのような意味ではなかったかと思います。これが、彼の考えている「人間の生きがい」というものでありまして、皆さんが大学において先程申しましたような、自分の存在は、そもそも何のためにあるのか、自分は、そもそも何のために生きるのかという、そういう疑間に遭遇され、ニヒルの淵に立たれた時に、今申しましたようなトインビーの言葉を思いおこし、そうして、それを道標の一つとして学生生活を営まれるならば、おそらく間違いのない生活が営まれるであろうと思います。
繰返して申しましたように、メニューを作って皆さんに人間存在の究極の問いにたいする答えを提供するのが大学ではありません。そうではなく、皆さんが問いを適切に立て、それを方法的に追及するとき、一見無意味でニヒルのような大学において、答えが返ってくるのであります。これは科学における探究の方法と異なるものではありません。科学的探究において先ず大切なことは、探究の対象に適切な問いを立てることであります。次に、問いの構造にふさわしい仮説を立て、それにしたがって対象そのものに問いかけて行き、答えをきく。予期する答えが得られない場合は、その仮説をすて、新しく仮説を立てなおして問いかけて行く。答えが得られるまで、それを繰返すのであります。
皆さんは大学においてこのような科学の方法を身につけられるのでありますが、それとならんで、自己自身の存在にかわる究極的な問いにたいしても適切にして正しい態度で立ち向い、今後四年間を通じて、答えを得るいとぐちを発見されるように願っております。
大変整わないお話でございましたが、これをもって終ります。
中川秀恭 1908年島根県に生まれる 1938年東北大学法文学部哲学科卒業 専攻-基督教学 現在-国際基督教大学教授 著書-「ハイデッガー研究」(小山書店)「ヘブル書研究」(創文社)「近代的人間とキリスト教」(日本YMCA同盟出版部)「現代におけるキリスト教信仰」(日本YMCA同盟出版部)「信仰と歴史」(日本YMCA同盟出版部)「西洋中世思想の研究」(共著)(岩波書店) 訳書-カール・レヴィット「キルケゴールとニーチェ」(未来社)ルドルフ・ブルトマン「歴史と終末論」(岩波書店)
「学生生活について」 1972年5月27日第一刷発行 著者:中川 秀恭 発行人:東京都三鷹市大沢3-10-2国際基督教大学生部 大口 邦雄 印刷:一誠社綜合印刷株式会社