われわれにとっての大学 (1973年度ICU入学式記念講演)
長 清子
皆様、御入学おめでとうございます。私どもの大学の仲間としてお加り下さいまして、これから皆様と御一緒に大学形成に共にあたれますことを、大変うれしく存じます。今日は、今御紹介いただきましたように、われわれにとっての大学とは何かということに関して、三つほどの点についてお話申し上げたいと思います。
大学の自由、学問・思想の自由
第一に、大学の自由、あるいは、学問の自由(アカデミック・フリーダム)ということについて考えたいと思います。「自由」という問題を考えます場合、さきほど中内先生が、ルーズヴェルトの「四つの自由」ということを云われましたが、その中に、恐怖からの自由とか、飢えからの自由とかいうことがありますが、その場合は、「何々からの自由」という考え方、ないし、問題があります。警察力からの自由、国家権力からの自由というような、「何々からの自由」ということと、もう一つ、「何々への自由」ということがあります。宗教を信ずる自由とか、ある思想、あるいは、イデオロギーを信奉する自由とかいうことですね。今日、私は、主として「何々への自由」というような観点に重点をおいて、この第一の点としての大学の自由、学問の自由という問題を考えてみたいと思います。このような観点に立って自由の問題を考えます上に、一つの問題はリベラル・エデュケーション(Liberal Education)ということがあります。皆さんは国際基督教大学が、教養学部の大学として、リベラル・エデュケーションに重点をおいているということは、ご存知なわけですし、そういうことをお考えになってこの大学を選び、お入りになったんだと思いますが、このリベラル・エデュケーション(そのことの全体を今お話する時間はございませんが)ということについて少し考えたいと思います。
リベラル・エデュケーションの一つの重要な点は、私どもの意識が、心が、リベラライズされる、開かれる、自由にされるという意味があるわけですね。私たちが閉された意識から開かれた意識へ、閉じた、閉鎖的な社会(closed society)から、開かれた社会(open society)へ、解き放たれるという問題です。価値観とか物の考え方、生活様式、その他すべてにおいて、閉鎖的な、排他的なものの考え方や社会から、開かれた価値観・人生観・社会観にむかって開かれてゆく。そういうリベラライズされる、私どもの心が、精神が、ものの考え方が解き放たれるということが、リベラル・エデュケーションの基本的な課題だと私は思います。自分の信じている価値観、それはいろいろな思想、宗教あるいは、イデオロギーとして各人が持っていると思うのですが、自分にとって大切だと思う価値観に私どもは熱心に固執します。と同時に、自分の考え方とはちがう価値観(value concept)、ちがう考えに立っている人々に対して、寛容に開かれてあるということは非常にむつかしいことです。しかしリベラル・エデュケーションにおいては、私どもが開かれた人間になるという大変むつかしい問題を、基本的な課題としていると思います。先ほど篠遠先生からも、ICUはキリスト教主義の大学である、キリスト教を基盤にしている大学だということについてのお話がありましたが、基督教において、自由とは、自分の罪からの解放、罪から解き放たれること、自己中心的な、自己を神(絶対)とする閉鎖的な自己主張から解き放たれる、ということを、基本的に重要な課題としていると思います。そのことはリベラル・エデュケーションの課題に最も根底的な基盤を与えるものだと思います。私どもが、学問の自由、大学の自由(academic freedom)ということを考えます場合に、私ども自身がリベラライズされるという課題を負ってここに立っているということが基本的に重要な問題だと思うのです。
リベラル・エデュケーションのもう一つの重要な課題は、既成の知識の切売り的教育ではなくて、「いかに学ぶかを学ぶ」ことであり、出来上った理論体系を学ぶだけではなくて、自分自身で原理的にものごとを考えることが出来、更に新しい理論を生み出すことの出来る自由をもった人間の育成という問題があると思います。
私どもは今日、非常な知識の爆発的に増大する状況の中におります。私のような世代のものの子供時代と、皆さんの中学校高校時代とでは、学校で学ばなければならない知識の量には大変な違いがあると思います。皆さんは私どもが皆さんの年令の頃よりもずっと物知りだと思います。このように、知識の量がどんどん増えていく。そういう状況にあって、今習っていることが皆さんが社会に出られた頃にはもう役に立たなくなっているかもしれない。勿論、大学では、そういう変化してゆく面だけではなく人類の文化的遺産の継承という意味で、永遠に重要な意義をもつ理念や理論を学ぶことはいうまでもありませんが、今日、私どもが大学で学ぶということは、既成の知識を学び、覚えればいいということに止まらない。「いかに学ぶかを学ぶ」(learn how to learn)ということが大切だと思うのです。何を覚えるかではなくて、どのような新しい状況においても、どのように複雑な問題のからみ合った状況においても、常にそこにおいて、原理的にものが考えられる自由、そして人から与えられた理論を、後生大事に守って、それによりかかって生きていくのではなくて、複雑な現実から常に新しく理論体系をつくり出してゆける人間、そして多様な価値を総合することのできる人間、そういう意味での総合力、創造的自由を豊かに備えた人間であることが求められると思います。理論を覚えるのではなくて、理論を生み出していける人間、そういう自由が、今日私どもに求められていることだろうと思うのです。ですから、私たちはこういった知識の爆発的に増大する時代、コンピューター時代、情報化時代、宇宙時代などといわれるような状況の中で、歯車の一つになるのではなくて、全体を見通すことの出来る人間、創造的に自分で考え、多様な相矛盾する諸要素を総合し、体系づけ、そして明日への道を切開いてゆける能力、そういう自由さが、「学問の自由」ということにおいて基本的には求められていることの一つだと思います。この大学ではinterdisciplinaryということをよくいいます。日本語では「学際」というような訳をつける人もありますが、狭い専門分野のことしかわからない「専門バカ」ではなくて、特定の専門の立場に根拠をもちながら、常に他の学問分野に向って開かれている、他の学問分野の問題について常に関心を持っている、そしてその間に生きた対話が持ちうる、更に、そのことにおいて自分の専門の分野がより深められ、より高められていくというような意味でのinterdisciplinaryな関心に本学が強調点をおくのも、実は今申上げたような問題に深くつながっていると思います。そういう意味での自由さということが大事だと思います。
もう一つの問題は、学問の自由、思想の自由という問題です。大学の自由の問題について、今、私はリベラライズされること、および、理論を生み出す力、総合する力、というような自由さをもつことの二つをあげたのですが、もう一つ、学問の自由、思想の自由、という問題について考えたいと思います。
私どもの大学がキリスト教に立つ大学だということは、大学の自由という観点から考えてどういうことを意味するか?キリスト教に立っているからキリスト教的社会学とか、キリスト教的政治学とかいうものをやらなくちゃならないのか、と思う人があるかもしれませんが、そんなことはナンセンスです。そうではなくて、キリスト教に立っているから、何ものをも自由に学べる、キリスト教に立っているからすべてのものを対象化して自由に学ぶことが出来ると私は考えています。マルキシズムであれ、マオイズムであれ、なんでも私どもは学ぶ自由をもっている。しかしそれは常に批判的な目をもって学ぶことだと思います。この大学は、どのような思想も、どのような理論も、誰に遠慮なく自由に研究することの出来る場だ、キリスト教を基盤としているから自由なのだということを、私は、 まず確認したいと思います。しかし、そういう自由、学問思想の自由ということは、自分の考えている理論、あるいは、学問的、または、イデオロギー的立場を絶対化することであってはならないと思います。私どもは常に自分と違う考え方に対して開かれていなければならない。 理論は一つの仮説にすぎない、 それは誤っているかもしれない、決して最後の究極的な答えではないという一つの保留を常に持つことが大切だと思います。謙虚な保留を堅持できるかどうかということが私たちにとって求められている非常に重要な問題だと思うのです。私たち大学人は、教師も学生も、さきほど、篠遠先生も仰言いましたように、ただ教えるという教師ではなく、共に学ぶ仲間だと思うのです。私どもは共に真理の探究者だということですね。何が真理であるか、夫々の学問分野において、また、一個の人間として私どもは問う存在である。教師も学生も共に究極の真理を把持しているものはいない、みんな共通に真理を追求してゆく、真理の探求者の群れだと思います。そうした真理探求者の共同体としての精神がどこまで堅持し、守れるかということが、実は今日、私どもの大学が直面する非常に重要な問題だろうと思います。大学においては、だれも絶対的な真理の把握者ではないという意味で大学は多元主義の社会だと云っていいのではないかと思います。多元主義ということは安易につかうことには問題があると思います。日本の精神的土壌は雑居的だ、無構造の精神的雑居性というようなことが云われます。何でもよい主義の御都合主義的な多元主義ということは、日本の思想状況にはあると思いますが、私が今、大学は多元主義の社会だという場合、そういう意味で云っているのではありません。一つの立場、一つの理念を絶対化しない、自らの理論は一つの仮説にすぎず、誤っているかもしれない、という謙虚な自己抑制をもち、自分と異る理論的立場に対して、そこにも真理があるかもしれないという、他者の立場を尊重する精神でそれに耳を傾けることの出来る人間であること、そういう意味で大学は多元主義の社会だと私は思います。そして、それはまた、寛容の精神につながると思うのです。大学において、真の寛容ということは大切だと思います。また、この場合も、どうでもいい寛容ではなくて、一つの思想的立場、あるいは理論的立場に自分がこれほど熱心に固執するがゆえに、他の人もまたその立場に対してそうであろうという理解をもち、それを尊重することだと思います。自分は正しいと思っているが、しかし、誤っているかもしれないという保留をいつも自らにおいてもっているということは、私どもを寛容にさせる。私は大学というところはこのような意味での寛容の精神に支えられた、多元主義の社会、真理探究のプロセスにあるものたちの共同体だと考えます。こうした多元主義、寛容を基盤にすることなしに、本当の学問の自由、大学の自由ということはありえないと思うのです。大学における学問思想の自由ということは、勿論、異った立場が無関係に併存しているということではなくて、真理探求者の群としての問題の投げかけあい、健康な批判精神をもっての切磋琢磨が必要だと思います。しかし、それは一つの立場が他の立場を粉砕するというような、思想の殲滅戦的方法によってではなく、寛容の精神に基く対話、価値観の交流が必要だと思う次第です。
そしてこの「自由」は実は非常にもろいものですね。一人の人間の行動によってもそれは簡単にこわれてしまうようなものです。理念として自由ということを口にすることは簡単ですが、しかし、それを本当に守り抜くということは大変なことですね。そのもろさ、大学の自由、学問・思想の自由は非常にもろいものなのだということを私たちは肝に銘じて知っていなければならない。そしてそれを守る責任が私共一人一人にあるということを互いに覚えたいと思います。その責任ということをもう一歩進めて考えますと、大学においてはどのような思想的立場、理論的立場も許されるが、この大学の自由、学問の自由の原理を<否定>することは容認されないという問題があると思います。このことは重要な問題だと思います。どのような思想的、学問的立場も許される。その故に、その自由の原理、その学問の自由、大学の自由の精神を否定する思想は許されないということは、大学の自由を守ってゆく上に無視することのできない大切な問題だと思います。国際基督教大学の初代の学長でいらした湯浅八郎先生より先ほど御挨拶がありましたが、当時この大学の副学長で教養学部長を兼ねておられたトロイヤー先生(Maurice E. Troyer 1903年8月24日生まれ 70歳)という、アメリカから来ておられた優れた教育者がいらっしゃいました。当時私はまだ若い助教授であった時代ですが、大学の自由というようなことでよく話し合ったことがあるのですが、その自由を否定する立場は容認されないということをDr.トロイヤーは繰返し云われたことが印象深く残っております。もう70才の老人になられておられますが、旅行の途上、東京に寄られ、ICUに数日来ておられたのですが、その時、私はトロイヤー先生に、このいろいろ大学の激動する中で、昔、トロイヤー先生が、大学における寛容の精神、学問の自由、アカデミック・フリーダムの原理を教育理念として強調すると共に、それを否定する立場は、許されないといわれたことは、私には非常に大きな意味をもった。当時は只単にそういう意見として聞いていたが、それはその後十数年の間に、いろいろの様相を呈して揺れ動いてきた大学の激動の中で私の考えを支え、方向づける力となってきたということを申し上げました。その時トロイヤー先生はこんなことを云われました。あなたがもっともっと若かったころのことだが、自分は学務副学長としてのこの大学での仕事にゆき詰って苦しんでいたことがあった。その頃、あなたが私の部屋に入ってきて、「あなたはこの大学の日本人の同僚が信じられなくなっているのではありませんか?」と言った。それは自分にとっての一つの衝撃だった。そして自分は考えた。もしも自分がここで、大学に共に働く同僚を信ずることが出来なくなっているとしたら、自分は何故ここにいるのだろうか?自分がここで教育にたずさわっているという意味はなくなってしまうと思った。そのことは自分にとって大きな意味を持ったと。そして「あなたはそのことを覚えていますか?」と云われました。私はそんなこと全然覚えていないんですね。私はいつも何でも思ったことをズケズケと人に云う人間で、しかも云ったあと忘れてしまうことが多くって恐縮なのですが、そういうことを申上げたことを覚えていませんでした。しかしトロイヤー先生は、一人の若造が云ったこともこういう風に何年も覚えていて下さるような教育者なのですが、それだけではなく、実はその言葉を逆に今日トロイヤー先生から自分は投げかけられているのだと私は考えました。大学の激動の中で、寛容の精神を尊重し、大学の自由、学問の自由を守ろうとすること、そしてその原理を否定する立場は容認されえないということを混沌とした複雑な歴史の現実の中で見きわめて行動するということは、大変むつかしいことです。そして、考え方や行動様式の異る同僚の教師や学生たちを本当に信ずるのかという問題は、私たちにとっての非常にむつかしい、しかし、根本的な問いかけだと思います。大学の自由ということはそういう問題を含んでいると思うのです。こうしてお話していますと、大学の自由、学問の自由ということは、単なる一つの言葉であり、概念にすぎませんが、具体的な歴史の歩みの中をたどる中で、そういう問題のむつかしさにゆき悩み、苦しみぬくことがありますし、またそういう現実にあって、一つのそういう言葉、考え方が、非常な意味をもって私共をささえ、耐えて立つことを得しめてくれることがあります。
これから皆さんは、ICUにおける大学形成に加わって下さる一人一人として、そういう問題をおそらく身をもって体験してゆかれるだろうと思います。このもろい「自由」をどういう風に皆がお互に守り合えるか、一人一人が具体的にそれを守ることなしには、この大学の自由、学問の自由ということは、それは単なる空虚なスローガンに終るでしょう。この問題は教師にとっても学生にとっても、この大学を形成してゆく、構成員としての一人一人の思想と行動の問題であり、生活全体にかかわる問題だといってもいいと思います。
社会正義の実現と新しい偶像崇拝の問題
第二に、社会正義実現の課題と、新しい偶像崇拝という問題について考えたいと思います。今日私たちが身をおいている社会は、人間が本当に人間らしくあるという観点より考えますとき、多くの矛盾、社会悪を含んでおります。先に中内先生からも御説明がありました国連の「世界人権宣言」は、皆さんにもよく読んでいただきたいと思いますが、非常に立派な内容です。ルーズヴェルト夫人を委員長とする人権委員会が、世界各国の憲法や人権に関する異った思想を総合しながら、また、各国の政府や諸機関の批判や意見をとり入れながら、非常な苦労を重ねて作成したもので、1948年12月10日の第3回国連総会の決議で満場一致で採択されたものです。しかしこれらのあらゆる条項が世界のあらゆるところで守られているということではありませんね。むしろそうありたいと願う問題である場合も多々あります。道徳的よびかけであって、法的拘束力はもっていません。また、その条件もととのっているとはいえないでしょう。たとえば「何人も教育をうける権利を有する」(第26条)といっても、今日インドにおいて、教育をうけている人達の数は非常に限定されています。大人まで含めますと、まだ20%か30%しか教育をうけていない。それはその国の人口問題、経済問題にも深くつながっていて一挙に解決をつけることの出来ない問題を含んでいます。そして、こうした国連の人権宣言がどのように各国の憲法を拘束する力になることが出来るか、そうならなければあんな人権宣言は本当には意味をもたないわけですが、それは貧困や富の不平等分配など経済的な問題、政治的な抑圧の問題など、多様な問題と連関しているでしょう。そういう意味で、大学人としての私たちは常に社会正義の実現に対して大きな責任をもっていると思いますし、皆さんも一人一人そういう問題に大きな関心をもっておられることと思います。今日、私どもは社会正義の問題に無関心なような人間ではありえない。過去において大学のことを「象牙の塔」ということばで表現したことがありました。それは、大学というところは、社会の問題も、この世のこともすべて忘れて、学問に専念するところだという考えですね。他方、こうした「象牙の塔」的大学も社会の一部だ、社会が闘争の場(battle ground)であれば、大学も闘争の場だ、という考え方が特に戦後強くなってきました。戦争が起ったことも知らずに研究に専念していたというような学者が尊ばれた、象牙の塔的大学観はまちがっていると私は思います。大学は社会から自由ではない。大学人は皆一社会の構成員として社会の矛盾の中にまきこまれていますし、大学自体も社会にインボルヴ(involve)、しているわけで、社会から隔絶して存在するものではない。しかし、それと同時に、大学は単なる社会の一部ではない。象牙の塔というようなことばが適当とは思いませんが、やはり社会の現実を超越している面がある。社会の中に内在化してまきこまれている要素と、それを超越している要素その緊張関係の中に大学というところはあると思うのです。大学は、そして、大学人は社会の矛盾をひしひしと受けとめなければならない。そのことに対して無関心であってはならない。apathy無関心ということは一番こわいことです。しかし関心をもつということは、そのままそこに手ばなしでインボルヴすることではない。大学は社会からある距離をおいて超越するという要素をもっている。インボルヴしながらも、超越している。その問題を受けとめながら、一歩退いてその問題を基本的、原理的に検討する場所、そこにどういう問題があるかということを理論的に、科学的に研究する場所である。しかも、それは単に、研究のための研究、ということではなくて、今日の社会矛盾をどう解決つけるかという関心をもって研究するのであり、明日の社会をどういう方向に向って生み出していけばよいか、何をどう克服して新しい明日の社会をつくり出すのかというヴィジョン、理論やプログラムを用意しなければならない。そういう意味でインボルヴしながらそれを超越しており、その問題の解明の方法と方向を私たちは常に問い求めていく。こういう課題を大学は負っているのであって、こうした責任を果すことなしに大学人は明日の社会に対して指導力(推進力)ではありえないでしょう。
左翼理論家で九州大学の教授をされていた向坂逸郎(さきさか いつろう)という社会科学者があります。この人が大分前になりますが、ある綜合雑誌に書かれた文章を興味深く読んだことがあります。正確な表現は忘れましたが、その中に次のような内容のことが書かれていました。自分が大学で学んでいたころに多くの学友が社会実践につき進んで行った、そのとき自分はどうもよくわからないことがあって、もう少しよく勉強し、考えてからでなくては動けなくて、実践活動になかなか入れなかった。そういう自分は社会実践につき進む活動家たちからは、意気地なしのように、無責任のようにいわれた。ところが、何十年かたった今は、そのころの実践家の一人は天理教の宣伝部長になっている、そしてその頃、図書館で本を読み、社会矛盾について考え、思いなやんでいた自分が今は、理論家として左翼陣営の一番左に立っていることを思い、感慨無量だというようなことだったと記憶しています。向坂教授のこのお話は私共に学生時代の研究と実践ということについて大切な問題を示唆するように思います。私は、大学というところは、わからないことはわからないとはっきり自らに向ってもいい、わかったような顔をしないで、わからないことがわかるように学び、考え、追求する場所だと思います。わからないことがわかるまで問いぬいていく研究の場所であることが必要だと思います。そのことが、実践を、他動的、一時的なものではなくて、自らの確信に基くものとなし、また、社会矛盾の分析、その解決方法などに関する充分な用意をととのえさせることになると思います。
次に、社会悪の克服、社会正義の実現という問題との関連において、イデオロギーの絶対化、あるいは偶像化という問題について考えたいと思います。ところで、イデオロギーという場合、私は、ある特定のイデオロギーを意味しているのではありません。私どもはすべて何かのイデオロギーをもっている。私どもはみなある意味で政治・社会問題にかかわっており、また、ある行動をするあるいは、しないということを通して何らかのイデオロギー的かかわりの中にあるわけであって、イデオロギーから自由な人間はありえないと思います。そこで、どのようなイデオロギー的立場に立つにせよ、特定のイデオロギー、特定の社会理論、あるいは特定の社会問題の分析方法、解決の方法のみを絶対的なものとすることに対する警戒が、私は大学において非常に必要だと考えます。一つの解決法、一つのイデオロギー、一つのイデオロギー的立場は一つの仮説にすぎない、複雑な現状を分析するための一つの仮説なんだ、それはまちがっているかもしれないという保留が大切だと思います。私共のたてる仮説は常に修正されていかなければならない。そういう謙虚な、抑制された、そして、開かれた立場が社会問題を考える場合にも重要だろうと私は思います。そういう意味において、一つの理論的立場、一つの仮説、一つのイデオロギーを絶対化すること、それは私は新しい偶像崇拝だといってもいいように思います。日本で昔からあった偶像崇拝には、大きな岩や木にしめなわをはっておがんだり、狐のような動物を神様としてお稲荷さんにまつったり、あるいは、皇帝崇拝など、いろいろありましたが、迷信的な偶像崇拝は、もう百年も前に日本のキリスト者たちも、近代合理主義者たちもその克服に努めてきました。しかし今日私どもがもっとも関心をもって警戒しなければならないのは、そういう偶像崇拝ではなくて、自分の理論、自分の立場を絶対化する新しい偶像崇拝ではないかと思います。私は、そういう偶像崇拝から自らをどう守るか、それからどう自由であるか、ということは今日の大学人にとって非常に大事な思想的課題だと思います。学生時代の英雄的なラディカリストが、卒業すると途端に大会社のモーレツ社員に転換するというような、安易な転向をする人であってほしくない。ほんとうに社会悪に関心があるならば、それは一生涯をかけて取組むべき課題なわけですね。一生涯その問題をほんとうに誠実に問いぬけるという真摯さでの社会的関心であるかどうか。大学というところは、理性の支配する場であって、先ほどもいったように、その自由は弱いものです。それは、ちょっとした力で容易にこわされるような脆いものですね。そういうところで英雄的なラディカリストであることはむずかしいこととは思いません。だれにもできることかもしれません。しかし、社会の現実、社会の矛盾は簡単に解決できるようななまやさしいものではない。そこで社会悪の克服、社会正義の実現を目ざして忍耐強く働きぬける強靱な精神とさめた理論と実践力をそなえた人間であることが最も大切なことでしょう。社会革新という大変むずかしい問題との取組みにおいて、人類的視点からの展望をもち、いいかげんなことでくじけない面魂をもった人物をどう育てることができるか、そういうことが私どもの大学の使命であり、課題だと思います。
先ほども国連の人権宣言のことにいささかふれましたが、インド人の人権を奪うイギリスの不当な植民地支配のもとにあって、インドのガンディがイギリス植民地政策の一環としての悪法に対する不服従の運動をおこしたことは周知のことですが、こうした抵抗運動によってつかまって、裁かれることになった時、イギリスの裁判官の前でガンディはこういうことを言っています。「私は市民としては、法律を破ったのですから、それにふさわしい裁きを受けましょう。しかし、人間としては、この法律は悪法だと思いますから、それを破ったことを誇ります」と。そうするとイギリス人の裁判官が、「私もこの法律は悪法だと思います。この法律がなくなった時に誰よりも先ず喜ぶのは私でしょう」というようなことを云っています。裁判官をして、その裁かれる者、白洲にすわっているガンディに対してこう云わせるだけの人間的、精神的インパクトをガンディは持っている。インド人の人権が守られるためのガンディの闘いは非暴力の抵抗の方法で一貫していました。彼は、イギリスからの独立運動において、イギリス人の髪の毛一本も傷つけてはならないとインド人の仲間に命じました。自ら苦しみを受けながらも、暴力を決して用いないで解放運動を推進しました。その非暴力という場合、ただ単に物質的暴力を用いないだけではなくて、精神的暴力、即ち、憎しみをも決して伴ってはならないといいました。物質的暴力も精神的暴力も用いてはならない。物心両面における非暴力をもって、政治的解放―社会正義を実現する戦いをし、ガンディはめざましい成果をあげたわけです。ラインホルド・ニーバーというアメリカのある政治思想家が、アジアの宗教的指導者であるガンディが非暴力の抵抗運動という、政治運動においてかつて見ない方法をもって、西洋のどのような政治学の理論家も指導者もできなかったようなめざましい成果をあげたことは注目に値するといっています。ニーバーは、あらゆる社会闘争において、どの党派も他の党派の悪に気をうばわれて、自分の悪を見ることが出来なくなる。また、暴力は十倍の憎しみ、復讐心となってかえってくる。しかし、ガンディの示した非暴力の冷静さはこうした怨恨を最少限にとどめ、残酷さをやわらげる大切な方法だともいっています。社会正義実現のために生涯をかけてコミットしていったガンディの精神とその方法は、今日の私共に大切な問題を示唆するものだと思います。
人類社会への貢献の課題
第三に、人類社会に貢献する人間、人間社会のつくりかえ(Re-creation)に参加し貢献する人間が求められているという問題について考えたいと思います。ICUが国際性を強調し、国際社会、人類の平和、福祉に貢献する人をつくりたいとねがっていることについては、先ほど篠遠先生も申され、また要覧などにもいろいろ書かれているところです。入学するみなさんの中には、ICUに入って英語も勉強し、将来は国連とかユネスコとかその他の国際機関で働きたい、国際人になりたい、そういった関心をもっている方々があるでしょうね。最近はしませんが、2、3年前までは、入学試験にインタビューをしました。よくみなさんは、英語を勉強し、国際的教養を身につけて国際社会で働きたいといっていました。しかし、この今日の国際社会において、ほんとうに貢献するということはどういうことでしょうか?英語が話せればそれで国際人であるということではありませんね。外人と少しつきあって話ができたら国際人か、そうではないですね。そういう甘い国際性で今日の国際社会で役立てるようなものではないわけです。今日の世界は非常に大きなつくりかえの状況にあります。アジアは、戦後多くの国々が独立を獲得しましたが、アフリカなどでは、東京の人口の半分にもならないような、500万人か600万人ぐらいの、人口を擁した小さな独立国がいくつも生れてきていますね。国連総会に一票をもつ国の数は刻々にふえているわけです。また、人権意識が世界のすみずみにまで浸透し、人間の尊厳のために貧困や無知の中から人々は立ち上りつつあります。政治的、経済的独立を獲得するための闘いや、アフリカ、ラテンアメリカなどにはさかんにおこってきています。アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどのいわゆる旧植民地諸国と西洋諸国との間の関係も大きく変りつつあります。白人の政治的な支配から独立しても経済的な支配がまだ強くおよんでいる。そういう現実における経済関係を変えようとする運動もあり、また、人種差別との戦いをしている人たちも非常に多いです。こういう問題全体を含めて、今日は、世界全体が新しくつくりかえられようとする、激動の中にあるといってもいいように思います。そして、今日私たちが国際社会で貢献するということは、地球のすみずみまで人権の尊重が自覚的となり、夫々の民族が政治的、文化的市民権を主張しつつあり、世界の民族、国家の新しい関係がどのように生み出されてゆくかが問題となってきています。そして世界の構造、政治経済・文化の全体的構造がつくりかえられようとする時代です。こうした世界のつくりかえにどのようなヴィジョン(vision)をもって貢献するかということが、今日求められている国際性ということだと思います。今日はある意味で、文化的多元主義の時代だというようなこともいわれますが、かって西洋の文化が唯一の価値であると考えられたような時代はもう終ろうとしている。そしてどのようにおくれたように見えても、それぞれの民族がもっている文化思想宗教、そういうものが新しい意味で市民権を世界に求めている。そういう意味での多元主義の時代に、どのように建設的、創造的に対応出来るかが、20世紀から21世紀にかけての課題だろうという人もあります。こうしたダイナミックな、大きな変動期にある国際社会の中で、私どもがほんとうに貢献することのできる人間であるということは、先ず、そういった異なった歴史と文化、異なった思想、異なった価値体系をもっている人たちの心の中の悲しみや喜びがほんとうにわかり、その人たちの苦闘している問題や彼らの負っている重荷がなんであるかということがほんとうにわかる人間になることだと思います。そういう人間になるということは、単に根なし草のユニバーサリスト、無性格な国際人であることで果せることではないでしょう。それは私たちが自分自身の母国である日本の文化、日本の思想、そして、日本の社会の矛盾などがほんとうにわかる人間であることが求められるでしょう。日本人の文化、日本人の精神構造の中にある特殊主義的な要素、(英語でいえばparticularism)大東亜共栄圏の思想で世界を支配しようというようなことを第二次世界大戦中に考えた指導者たちがいましたが、こうした考えに例をみるような、特殊的な価値を絶対化しようとする排他的な自己主義的な要素があると共に、もっと人類的な普遍的な価値につながる要素もあるでしょうね。そういうものをきめ細かく見きわめながら、日本人として日本の文化、思想がその独自性を保ちながら人類的な価値にむかって開かれていくということを追求するものでありたい。それは、私共一人一人の思想と行動にかかわる課題でもあると思います。日本の文化、日本の思想を充分に理解し、その内包する問題を負って、この国の精神的土壌の中で生きる者でなくて、どうしてよその国の文化がわかるでしょうか?私たちは、まずほんとうの日本人であることにおいてまさにほんとうに国際人である、他の国の人々の文化が内がわから理解できる人間になるということなのではないかと考えさせられます。また日本の社会の矛盾や問題に関心をもちそれに責任をとる労苦をしていることなしによその国の社会矛盾解決に貢献できる人間がどうしてできるでしょうか?また、一つの国の問題にほんとうに責任をもってとりくむということを通して、一つの国のかかえる問題は世界各国の協力なしには解決できないことを学ぶでしょうし、弱い国、小さい国を助けるような協力の仕方は何かという国際的協力の基本的な問題にも直面してゆくことでしょう。このあいだも国連のリクルートメント・オフィスの責任者の方がみえまして、かって私のアドヴァイジーで国連で働いているICUの卒業生は非常にいい。あのような人たちをもっと選び出して推薦してほしいとたのまれました。たしかにICUの卒業生で国際機関でいい働きをしている人たちが多いことは事実です。国連だけでなく、ユネスコにおいても、その他の国際機関においても、たいへん重要な働きをしています。国際機関で働く日本人の中でICUの卒業生の数はたしかに一番多いといわれていますね。しかし、私共が人類に貢献する生き方をするということは、必ずしも国際機関に働くことだけではないと思います。ICUの卒業生の中には日本の農村や山村の中学校や高校の先生になったり、伝道している人たちや、労働者の中で働いている人など、草の根にわけ入って働いている人たちがいく人もいます。そこにおいてほんとうに人類的に思想し、行動するということ、人類的な価値を生きる人々を日本の草の根にあって育成しようとすること、これは地味ですが、非常に重要な国際性、人類的課題につながることだと私は思います。外国に出てゆくことだけがICUの国際性ではない、むしろ日本のふところの中で、人類の問題を考え、人類的課題を担う人間であること、また国連のような、あるいはユネスコのようなところで働きながら、実はアジアの民衆の悩みをそこで代弁し、アジアの土着的な文化の重要性を考え、そうした文化が普遍的な価値へと開花され、人類に貢献するものとなるよう道づけをすること、これらは同様に大切な人類的課題につながる生き方だといえましょう。ICUで私どもが強調する国際性ということは、こういう問題ではないかと私は考えるものです。ICUの寮では一つの部屋に日本人とアメリカ人と韓国人とが住むということがありますが、あるとき、私のアドヴァイジーだった学生がこんなことを話しました。昨夜、自分の寮の部屋で夜通し議論した。それは自分が同室のアメリカ人に対して、あなた達アメリカ人は、なんとなく日本人に優越感をもっている。けしからんじゃないか、といった。そうすると、同室の韓国の学生が、何をいっているんだ、あなた達日本人こそ、私たち韓国人に対していつも優越感をもって対していると云った。そんなことから3人か4人で夜通し民族間の優越感とか劣等感とかいうようなことで朝まで激論しあった、というのです。くたくたになりましたが、こんなにすばらしい人間的ふれあいを持ったことは、生まれてはじめてでした、とその学生はいっていました。ICUでいろんな国の学生たちがおりますが、みなさんが単に英語の会話の勉強に外国人学生を相手に話してみるなどというようないいかげんな交わり方でこの大学での国際的環境が取扱われるとしたらそれは全く不幸であり、残念だと思います。この大学で出会う外国の学生たちとほんとうに心と心でふれあい、そしてその人たちの心の深みにある苦しみや喜びや悲しみを理解できる人になる、またそういう人に出会うことを通して、私どもの考え方の中にある、克服されなければならない誤りや偏見などの問題を発見する。異った歴史、文化、社会を背景とする人たちとの人間的、人格的出会いを通して互に新にされるということであり、共に人類の問題を負うとはどういうことかということを学ぶのだと思います。ICUの国際性ということはそういったきびしさをもって私たちにチャレンジしていると思います。もう時間がまいりましたから、おわりたいと思いますが、この大学に入って私共の仲間になってくださった皆さんが、先ほどいったような意味でのリベラライズされた人であることの意味を考え、こわれ易い、もろい大学の「自由」をほんとうに大切にすることのきびしさを共にわかちあう仲間となっていただきたい。社会の悪を克服し、社会正義の実現の問題を一生涯をかけて真摯に追求し、負いぬける骨のある人間を自らの中に用意していってほしい。そして、ゆき悩み、苦闘する世界の人々と共に、世界のつくりかえに本当の意味で貢献できるような国際的な、人類的な課題を謙虚に学び、その問題に責任のとれる人間に成長していっていただきたい。そういった問題をこれからの学園生活を通して、教師も学生も共に考え、問いあい、学びあってゆくわれわれでありたいとねがっています。みなさん一人一人がそういった課題にかかわり、コミットし、いっしょに苦しんでくださることによって、われわれにとっての大学が、ほんとうに生きた大学になると思います。これから始まる皆さんの大学生活が豊かな実りあるものとなりますように。
長清子(ペンネーム・武田清子) 1917年6月20日生 オリヴェット大学卒 コロンビア大学、ユニオン神学校に勉学 文学博士(東京大学) 国際基督教大学教授(思想史)、大学院部長、アジア文化研究所長 WCC(世界教会協議会)会長 主な著書「人間・社会・歴史」創文社(1953)「人間観の相剋」弘文堂(1957)「天皇制思想と教育」明治図書(1964)「土着と背教-伝統的エトスとプロテスタント」新教出版社(1967)「背教者の系譜-日本人とキリスト教」岩波書店(1973) 編著「思想史の方法と対象」創文社(1961)「比較近代化論」未来社(1970)「現代日本思想体系(6)・キリスト教」筑摩書房(1964)「戦後日本思想大系(2)・人権の思想,筑摩書房(1970)その他
「われわれにとっての大学」 1973年5月31日第一刷発行 著者:長 清子 発行人:東京都三鷹市大沢3-10-2国際基督教大学学生部 中内 恒夫 印刷:一誠社綜合印刷株式会社