ICUの学生に期待するもの (1974年度ICU入学式記念講演)
山本 達郎
新しく入学された学部学生諸君、大学院の学生諸君に対しまして、心からお祝いを申し上げます。諸君の入学はみなさんの一人一人の喜びであるばかりでなくて、 諸君を育ててこられた、 そして愛して、助けてこられたご両親や、周囲の方々の深い喜びであります。また同時に大学のすべての人々の喜びであります。 きょうから始まる諸君のICUの生活に関して、 諸君はいろんな期待と希望とを持っておられるわけです。諸君ばかりではなくて、諸君の周囲の方、ICUの一人一人、我々はみな諸君に対して大きな希望と期待とを持っているわけです。私はこの入学式の日に、私が諸君に対してどういう期待を持っているかということを、これを大学の一員としてお話してみたいと思います。
諸君が大学生活を送る現在の時代というのは大変に大きな世界的な変動の時代、世界の情勢、国際情勢が大きくかわっております。日本の社会・文化・政治経済すべてが大きく変化しています。諸君がよく知っておられるように資源問題、人口問題、食糧問題、公害問題というような、今まで第二次世界大戦まではおよそ考えられなかったような大きな問題が、我々の前に立ちはだかっているわけです。また原水爆の問題があります。現在人間の持っている危険な原水爆をもしもみんな使ったならば、人類全体がたちまちのうちに滅んでしまうかもしれないという、そういう危険な状態の中に我々は住んでいるわけです。そして世界が変わると同時に大学も変わっております。大学が、質もかわり量も変わっている。現在日本にいくつの大学があるかといいますと、九百の大学があります。四年生の大学が四百五・短期大学が五百で、九百以上の大学があります、ここで研究され、教授されている内容が急速に変わっている。変化すると同時に知識はどんどん増えているわけです。この間、諸君が受けた入学試験で、私は試験の監督をやっていたわけですが、どういう問題が出るだろうかと思って次々に配られる問題を読んでいったんです。自分の専門に近いところだけみても、私どもが学校でおそわった内容とは大変にちがった内容になっているので、私が諸君と一緒にICUの試験を受けたら、たぶん落第するだろう、と思ったわけです。それほどにちがっています。こういうような変化の時代にあって諸君自身が変化しているわけですね。社会的に変化しているばかりでない。諸君自身の一生の中で変化の時期に当っている。おそらく多くの方々に、新入生の方々はこの大学にいる間に成年に達せられるでしょう。精神的にも、肉体的にも、法律的にも、一人の人間として独立されるようになるだろうと思います。こういう諸君自身の変化がこの大学の在学中におこる。諸君は大学で身につけたものをもって社会に出られるわけですね。今までの学校の勉強とは全然ちがった勉強をここでしなくてはならない。それではこういうふうにこの世界が変化し、大学が変化し、諸君自身が変化している時に我々はいったいどういう勉強をしたらいいのか、どういうことをICUでやったらいいだろうかという問題であります、諸君の中にはすでにこの大学で何をやろうか決めておられる方がかなりあるかもしれない。どういう企業に就職しようとか、あるいは先生になろうとか、社会奉仕をしようとか、国際機関に働こうとか、いろいろな希望をもっていらっしゃる方があるだろうと思います、そうでなくて、何をしたらいいかわからない、という方もたくさんあるだろうと思います。諸君はこの大学にいる間に何をしようか、将来何をしようかということに対しても、ゆっくり考えていただかなければならないと思います。こういう変化の時代に諸君が一人の人間として、将来の道をはっきりと歩む決定をしなければならないというわけです。私はやはりこの際に、いったいこういう変動期の大学で、どういうことを我々はしたらいいのかという、大学の根本的な問題をいくつか考えてみたいと思います。問題はたくさんありますけれども、きょうはそのうち四つぱかり取り上げてお話してみたいと思います。
いったい大学というのはどういうところか。大学は真理を追求するところである。だれでもいうことです。 私どもは今大学の問題を考えるにあたりまして、 根本的であると同時に常識的な問題を考えてみる必要があると思います。大学は倫理を追求するところである。追い求めていくところ、追い求めて動いていくところであります、追い求めて真理を追求するというのは、どこまでも新しいものを求めていく。新しいものを作っていくという、そういうところですね。我々はいつも新しいものを作り出す、クリエィティブな心の状態を持っていなければなりません。諸君が学校、中学校、高等学校-あるいは大学まで行かれた方もあるでしょうがー、これまで学校で勉強されたことの大部分は、すでにでき上がった学問の結果を受け継いで学んでこられたわけです。 ところが大学の勉強というのは根本的に性質がちがう。もちろん今までの学校でも受け入れるばかりではない、自分から作り出す練習はされたでしょう。しかし、大学というものは本質的に新しいものを作り出していくところであることを、諸君ははっきりとまず、とらえていただきたい。今までの学びとる勉強で秀才であった人が、必ずしも作り出す勉強で秀才であるとは限りません。秀才とか才媛とかいわれた人が、全然基準がちがってきて、別な人のようになるかもしれません。そして私は大学で真理を追求するというのは、非常にきびしいものであるということをまず第一に知っていただきたい。我々が真理に本当に立ち向かいまして、真理を求めていくというのは本当にきびしいものです。厳粛なものです。しかしまたそれと同時に真理を求めてこれを追求していくということは、まことに楽しいものです。厳粛なものであって同時に楽しいものだということです。私どもは試験勉強などをやっておりまして、ことに入学試験の勉強をやって、こういうところをおぼえていなければならないとか、こういう問題が出るかもしれないとか考えているときには、本当に真理を追求するという気分にはなれません。試験勉強をして本当に学問が好きになった人というのは、これは大変に少ない。あるかもしれませんけれど例外ですね、我々がこれから勉強するのはそれとはちがって、自分のほうから真理に向かって近づいていくきびしい勉強である、けれども、それがまた本当に楽しいものであるということを味わっていただきたい。諸君に期待することは、大学の生活の中で、諸君が本当に学問をすることは楽しいものだということをはっきりとらえていただきたいということです。真理というのは、ちょっと考えると大変遠い所にあるようであります。世界の偉人とか天才とかいう人々が、何千年にわたって探し求めてきてどこにあるかわからないというようなものです。しかしそれはまた、遠いようでいて同時にまったく身近なものです。我々一人一人の身近なところに真理というものは存在している。諸君はこの真理を見出す能力、 洞察力、 を持つようになっていただきたいと思います。
第二に問題としたいと思いますのは、 大学は人間を作るところである、 人格を養成する場所である、ということであります。これもわかっているといわれるかもしれませんけれども。学問を研究したり、習ったりすることは大学でやる、だけれども大学は本当に人間を作る場所なんでしょうかといって疑間を持つ人がありますね。確かに大学が学問の切り売りをやっている、知識の切り売りの場所になっている場合は実際にいくらもあります、あの人は学問はできるけれども、どうも人間としてなっていない、尊敬できない。そういう人は学生の間にも、先生の間にも、いろいろあることを諸君は知っておられると思う。それでいいでしょうか。大学というところは、現在いろんな欠陥があるかもしれませんけれども、本質的に人間を作るところでなければなりません。これは重要な点であります。最近日本の学校教育に関して、知育の偏重だとか徳育の必要だとかいうことがいわれているのはご承知のとおりです。教育基本法の大学に関するところをご覧になりますと、大学は学術を教えたり研究したりする場所である、そして知的・道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とすると書いてあります。知的・道徳的・応用的といっています。私どもは今、こういうような世間の批評とか教育基本法に書いてある内容とかにとらわれる必要はありませんけれども、大学は本来人間を作るところであるという意見に対しては、謙虚に耳を傾けて考えなければなりません。大学は人を作るといっても、いろんな作り方、出来方があるわけですが、ここでは重要な問題を一つだけとりあげて申し上げておきたいと思います。それは、大学というのは学問をやって知識をふやすという他に、また道徳を必要とする、知識も必要で道徳も必要であるというふうに並べてこれを理解するというような理解の仕方ではいけない。そうではなくて大学で我々は真実の前に謙遜になって真理を追求していくその過程の中で本当に人間というものが育っていくということであります。真理の追求というのは先程申しましたように、決してなまやさしいものではない。それでは真理を追求する場合に最も必要なものは何か。必要なものはいろいろありますが、その中で最も必要な資源、最も大きく要求されるものは何であるかというと、 それは謙遜である。真理に対して、その前に謙遜でなければ、 本当の学問はできません。自分でいろいろなものを知っているけれども、それがまちがっているかもしれないといって新しい問題を求めていく。自分はいろんな学説を持ち理論を持っている。しかし、考えてごらんなさい。それが本当に正しいということは何によって保証されているのでしょうか。本当に我々が正しいと思っている学問の内容を捨てなければいけないことが度々おこります。そして、これまでの考えを捨て、前に進んでいかなければならない。いろいろな実験をやる場合に、百の実験をやって九十九まで自分の思ったような結果が出たけれども、一つだけちがっていたということがある。その一つが重要な意味を持っている場合があることは、学問のいろいろな先輩が教えているところです。私どもは常に謙虚でなければいけない。私どもが真理の前に謙虚であるということを本当に深く考えて勉強すれば、そこに人間を作る大きな問題が含まれています。 我々はいったい自然とか人間とか社会とかいうものを考えていく上で、どういうところにどんな問題があるのだろうか。そういう問題を深く考えていくところに、私どもの人格形成の大きな課題があり、また進歩があるわけです。
第三の点は、我々一人一人が、個人として個人を明確にし、個人として考え、個人としての行動の責任をとる。それを明確にするところであるということです。諸君は先程入学式で名前を呼ばれて、一人一人立ち上がったわけですね。大学は決して諸君を集団として考えておりません。 一人一人の諸君の人格の独立性、そしてその責任をはっきりさせている。 学問の中にはいろいろ共同研究というものが必要なところがあります。大勢の人が集まって共同研究をすることがありますけれども、よく考えてみますと共同に研究しましても本当に新しいアイディアを持ち、新しいものを作り出すのは、その共同研究をやっている人の中のだれか一人であります。世界の歴史を考えてごらんになれば、いかに大きな宗教、大きな思想というものが、一人から生まれているかよくわかりますが、これは大切なことであります。諸君はこの一人の功績、一人の責任ということを明確にしていただきたいと思うのです。有名な孟子の言葉で、ご存知だと思いますけれども「自ら省みてなおければ、千万人といえども、我ゆかん」というのがありますね。自分で反省してみて、自分で考えてみて、正しいと思えば千万人の敵があっても、私は私の道を行くという、これは非常に大切なことであると思います。このごろは学校で義務教育の時から、ホームルームというのがありますし、諸君はいろんなところで集団でものを考える訓練を経てきているだろうと思います。大勢の人がいて、その中で多数の意見に従う、多数の人が好んでいるからそっちについていくということがよくあります。しかし大勢の人が好むもの、きめるものが正しいという保証はどこにあるのでしょう。大勢の人はそう思っているけれどもあなた自身は、一人一人、あなたはどう考えるのか、という訓練を諸君はどれだけ受けてきたか私は知りません、大学で一番重要なことは、大勢の人はこう考えるけれども、諸君は、あなたは、一人一人はどう考えるかということであります。私どもが大学で勉強するのには自分で考えなければいけない。自分の意見を持たなければいけない。どんな偉い先生でも、どんな偉い学者でも、そのいったことをそのまま正しいとして受けとるのは、 これは本当の学問に対する態度ではないわけです。どんなに権威のある人の学説でも自身で考えて判断しなければいけない。もちろん学問には多くの伝統がありますし、前の時代から受けつがなければならないたくさんのものがあります。我々はそれを受け取って作り出していくわけで勝手にやればいいのではありません。ですけれども常に我々は個人から生れる考えと責任というものを尊重していかなければならない。これは特に日本の人、―諸君は大部分日本人ですけれども―。日本の人にとって特に必要です。日本の文化の特色がどういうものであるかということは、これからいろいろ諸君が研究されるだろうと思いますが、よくいわれる日本の文化の特色として 「恥の文化」というのがあります。 ルース・ベネディクトのいった言葉であります。我々はどうも世間を気にしている。ほかの人が自分をどう見ているだろうかということが気になる。他人に笑われたくない、恥をかきたくない、ほかの人がみなこういっているからどうも自分が別なことをいうのは恥かしいという気持です。自分の外に行動の基準がある。しかし大学の生活はそうではなくて、私どもは自分の中に基準を持たなければいけない。先程の孟子の言葉でも自分の中に自ら省みて、自分の中に問題を求めている。諸君は一人一人が外を見る前に、 まず自分を見なければならない。自分を堀り下げて考えるということをしなければいけないわけです。西洋の多くの国々では自分の意見を持たない人というのは尊敬されません。諸君が将来世間に出て活動するという場合に、その人がどういう人であるかという、個人としての性質が明確な人でなければ、最終的な信頼を得ることはできません。この問題は人間の形成の上でも大切であり、学問を進めていく上にも大切であります。個人の問題、個の確立ということをよく考えていただきたいと思います。
次に第四の問題ですが、それは大学というのは、自由を尊重し自由を発展させるところであるということであります。国際基督教大学の創立の目的という文章を諸君はもうすでに読んでおられると思いますが、このだいがくの目的は「真理の追求と自由の高揚とにある」、自由を高めることにあると明記されております。自由を高めるというのはどういうことか。第一に大切なのは大学はもともと自由の上に立っているということであります。大学というものは自由がなければ成りたたない。本質的な展開をすることができない。諸君は、大学の歴史を勉強なさいますと、何百年の間に大学の人たちがいかに外部からの圧力に対して抵抗し、大学の自由を守ってきたかということがよくおわかりだろうと思います。外からの社会的な政治的な圧力に対して私どもは自由を守らなければいけない。自由を守って初めて、学問の展開真理の探求が可能になるわけです。諸君は自由には責任を伴うんだということをおそらくもう耳のいたくなるほど繰り返して聞いておられるだろうと思います。大学において自由を高揚するためにまず我々はどういう責任をとらなければいけないかといえば、一番大切なことは人の自由を尊重してこれを犯さない、人の自由を束縛しないこと、これが大学の本質です。人の自由を束縛し大学における自由を犯すものに対しては、全力をもって抵抗しなければいけない。諸君一人一人が抵抗しなければいけない。これは大切なことであります。あらゆる大学のメンバーは自由の確保のために戦わなければいけない。諸君は自由というものがどういうものであるのかということに対して、鋭いセンスを持たなければいけません。いつどういう時にどういう判断をすれば大学の自由が損われるか。社会の自由が失なわれるかということに対して諸君は敏感でなければいけない。自由を損うものは何であるかといえば、いろいろなものがありますね、その中で特に大きいのは政治的な勢力です。大学の中に政治的な勢力が入ってくる場合、それは先生の間でも、学生の間でも、事務職員の間でも、政治勢力が入ってきてこれに左右される場合には大学の自由は崩壊してまいります。これは歴史的に大学の発展の跡をたどってごらんになれば明瞭なことです。私どもは政治的な関心を持つべきであります。社会的な責任をとらなければいけない。大学の一人として、あるいは社会の一員としてつよい政治的な関心を持つべきであります。しかし大学の中で、学問を研究し真理を探求する場においては政治が支配してはならない。政治というものは学問の自由を束縛する非常に危険な力を持っているのです。政治とならんで、というよりもっと大きな力で大学の自由に害悪をおよぼすものは、これは暴力です。人の自由を自分の腕力によって、あるいは物理的力を用いることによって奪ってしまう。物理的な力というのは、大きな音をたてるということもその一つであります。人の自由を腕力だとか物理的な力によって、暴力によって犯すことは、いかなる場合でも大学は拒否しなければいけない。暴力は問題にならないが学問の場で政治的な活動も拒否するというのは大学のたてまえであります。そうしなければ本当の真理の探求というものはできない。この大切な大学の自由、ある意味においてうっかりしておりますとくずれやすいもの、この大学の自由を守るために諸君がこれから勇敢に戦っていただきたいと思うわけであります。
大学に関する本質的な問題の四つをお話したわけですが、諸君は多くの大学の中で特にICUを選んで入られたわけですね。大学にはいろいろな名前がついています。地名をつけたもの、北海道大学東京大学、筑波大学とか、こういうのがありますし、年号をつけたもの、慶応大学、明治大学、大正大学、昭和何々大学というような色々の名前の大学いろいろありますが、このICUは「国際基督教」という、この大学の方針と性格を名前に初めからつけている大学です。こんなにはっきりと何をやる大学かといっている大学は少ないですね。その大学に諸君は入ってこられた。これは諸君の選択で、さっき入学の宣誓をされたわけですね、宣誓というのは非常に重要です。「私はそれを本当に誓います。守ります」ということを諸君一人一人がきょう宣誓された。公に約束してこの国際基督教大学に入られた。ICUというのは非常に特色のある大学です。
いろんな特色がありますが、第一に教養学部制である。学部が一つしかない。いろいろな専門の先生方がおられますけれども、諸君の勉強する学部はただ一つです。いろんな専攻が分かれたりしますけれども、他の大学とちがって割合に自由にあっちこっち動くことができます。教養学部であるということは現在世界的に変化していく大学を考える場合に大変に重要な問題であります。ICUの性質につきましては先程学長からお話がありましたので、あまり多くを申し上げませんが、この教養学部制の非常に大きなメリット、有利な点というものを諸君はよく考えて、これを生かしていただきたい。専門教育は必要であります。諸君も専門的な勉強をしていただきたいが、その前に大切なことがある。こういう変動の時代にあって私どもは何を知らなければいけないか、一番必要なこと、本当に人間が学間するのは何のためであるかということを明確にしなければ、いくら専門をやっても、本当に社会に役立ち、人類に貢献することができない、そういう状況に今世界はあるわけです。日本もそういう状況の中にあります。諸君は先程申しました深い洞察力と、バランスのとれた常識と、そして社会に対する責任を自覚して、勉強していただきたい。それには教養学部の制度というのは非常に重要であります、教養学部の制度の中で諸君が勉強されていろいろな不満がおこるだろうと思います。ほかの大学とちがいますから。しかしこの大学で教養学部の勉強をして、それからその先に専門教育、専門の勉強ができないかというと、そうじゃない。この大学は非常に開かれた性格を持っている。先程学長がおっしゃいましたように、諸君がここで勉強することが、もし不充分ならばこの大学の全員が諸君にあらゆる便宜を与えるように、学外でも勉強できるようにとりはからってあげるでしょう。この大学は非常に開かれた大学です。諸君が特別な勉強をしようと思えば、それだけにまた、あらゆるとはいえませんけれども、いろいろな道が開かれていると考えていただきたいと思います。諸君としてはこの教養学部制というものがどんなものか今はつかみにくいだろうと思います。我々も本当につかんでいるのかどうか疑問の起る場合があります。ですけれども、こういうような大学のシステムについては、 この方法によっていろいろな国々で多くの成功した結果がでていることを知り、また諸君が大学を卒業して、そして何年かたって後をふりかえって見る時に、 初めてこの教養学部のよさというものがわかるでしょう。そして専門教育、専門の勉強をなさりたい方には、それぞれの道が開かれているところを充分にいかしていただきたいと思います。
その次に先程学長のいわれましたICUは国際性という問題があります。今さら申し上げるまでもなく現在の世界、日本の現状というものは国際的な関係の中で動いており、その中で生きていかなければなりません。これは疑いもない事実でありまして、将来ますますそれが重要になるでありましょう。諸君がこれから講義を聞かれる先生方として、今学年度の予定としては、私の理解では七ヵ国ぐらいの、方々がおられます。学生諸君の方は二十ヵ国にはなっております。二十ヵ国あるいは二十一ヵ国の学生がこの大学におります。諸君がこの大学で接触する人は、こういういろいろな文化、いろいろな背景を持った人々です。諸君はこういう人々に接して国際的な環境で勉強をしていく間に、いかに世界が多様であって、文化とか国とかいうものがいかにちがうものであるかということを、はっきりとつかまえていただきたい。と同時にいかに文化がちがい、いかに国がちがっても、人間というものは本来は同じもので、一つであることを知り、どこに本当に私どもが人間として一つとなることができる根拠があるのかということを、諸君はこの大学にいる間にはっきりと把握していただきたい、自分で感じとって、そして勉強していただきたいと思います。文化のちがいを知るというのは決して簡単なことではありません。私どもは感謝の気持というのは大変に大切なもので「ありがとうございました」といえる人になりたいと思います。ですけれども、感謝の気持をどういうふうに表現するかというと、文化がちがうと大変ちがうことになりますね。ほかの人に対して本当に「ありがたかった」「うれしかった」 「感謝します」 という時に私どもはそれを口に出して申しますけれども、 本当に感謝する時にはだまっているという文化がありますね。諸君はそれがわかりますか。本当に感謝するときはだまっている、こういう文化に外からきた人が接触をしますと、色々な誤解を生じるわけです、いかに人が何かやってあげても決して、ありがとうとはいわない。本当に感謝するとだまっている。インドの多くの地方でそういう感謝の態度がありますがご承知でしょうか。 この場合、 外に表明しない感謝の気持が共通にあることを知らなければなりません。 とにかくこれは一つの例でありますけれども、異質の文化を理解するのは決して簡単なことではありません。文化がちがうと別なやり方があるもんだということをいつも問題として、注意していただきたいと思うわけです。
ICUの第三の問題はキリスト教であります。諸君の中にはキリスト教を信じている方がかなりあるでしょう。しかしキリスト教を信じないという人の方が多い。そちらのほうが恐らくは大部分でありましょう。何れにしてもこの大学はキリスト教に基いて立てられている。先程のお話にもありましたように、神に捧げられた大学であります。しかしこの大学は決して諸君にキリスト教を強要したり、おしつけたりするところではない。大学はどこまでも真理を探求するところであります。キリスト教をおしつけません。だけれども諸君は自分でえらんでキリスト教大学というところに入ってこられたわけですね。これはキリスト教というものから、諸君はチャレンジを受けている、問題を出されているということを意味します。我々一人一人どう考えるかということです。キリスト教のチャレンジ、キリスト教の投げかけている問題には非常に大きい問題がたくさんあります。愛と憎しみの問題であるとか、 裁きと許しの問題であるとか、生と死、 永遠の生命の問題であるとか、普通の学問、 科学の中では扱わないようないろいろな重要問題が提出されているわけです。こういう問題に関して、キリスト教が問いかけているということです。それを受け入れないなら、受け入れないだけの根拠をもって、我々は生活するべきでありますね。こういうようにキリスト教から出される問題はたくさんありますけれども、私はここで大学の本質である真理の探求とむすびつくいくつかの問題を考えてみたいと思います、時間がありませんので二つほど挙げてみたいと思います。
いったい現在の世界も大学も変革する時期に科学というものが人間の知識の中でどういう位置を占めるだろうかということが問われております。私どもは科学を信用し、技術にたよって生きてきたけれども、果してそれだけでいいんだろうか。我々が知ることのできる事実、私にわかるばかりでない、他の人にもわかる事実を求めまして、事実に基いて私どもの考え方を作り上げるというのが科学の常道、実証科学の性質でありますが、学問は実証科学だけではすまされない。私どもは哲学を必要とします。哲学という言葉は曖味に使われる場合がありますが、とに角我々の生き方、考え方の根本を問いなおしてみる必要がある。そればかりでなくて科学を越え、哲学にとどまらないで、広い意味の宗教を必要としています。私どもがすべてを捨てて、その前にひれふさなければならないような何ものかの権威を必要とするのではないかと問われているのが現代であるといってもよいかと思います。しかも一方で広く人間の生活水準と人権が問題とされている。この時にあたってキリスト教は問題を提出しております。神の前にすべてのものを捨てる。神の権威の前にはすべてのものは無に等しい。そういう考え方があると同時に、人権の尊重の考えが強く出ている。人間の考え方として個人を尊重することが大事だと申しましたが、先程の入学式の中には人権という考えが入っておりました。諸君の宣誓の中にはいっていました人権宣言です。人権とは何か。人間の犯すことのできない基本的な権利、これはどこからくるのでしょうか。キリスト教ではそういう考え方について人間観というものが問題になります、キリスト教の人間観というのは、神が人間を作った、人間は神になぞらえて作られた、つまり神的な性質をもっている、神的な性質をもっていてしかも大きな傷がある、大きな欠陥があり、重大な罪をもっているというのがキリスト教の人間観です。諸君は人間の性善説とか性悪説とかいろんな思想があることを聞いておられるわけですが、キリスト教の人間観というものはそういうものですね。それでは世界の人権思想、民主主義の基本となる人権思想というものがどこから来ているのか。民主主義という言葉は非常に曖味でいろいろの意味で使われますけれども、研究をやってみますと、この人権思想の根本はキリスト教と密接に関係していることがわかります。私も小さなグループを作って人権思想に関する研究をやってみたことがありますが、どうも歴史的にさかのぼってみますと、その起源はキリスト教の人間に関する考え方から出ているようです。それがいろいろなところに影響して、いろいろな形をとって現れておりますけれども、キリスト教の思想なしに果して人権思想ができたかどうか疑問であります。これは諸君がこの大学で研究される一つの大きな研究問題だと思います。とにかくそういう問題をキリスト教は出しているのです。もしも人間がただの物質の塊りであるならば、ほかの人間を無視しても大したことはない、あるいは殺してしまってもどうということもないではないかという考えさえ出てこないとはいえません。 一人一人の人格の尊厳性、 人格の尊厳性の背後にある神聖性という考え方がなくて本当に心から人間を尊重できるでしょうか。という問題をキリスト教が投げかけています。これは一つです。
もう一つだけ申し上げてみたいと思いますが、それは我々が最終的に権威として尊ぶものは何であるか。私どもがその前にすべてを投げすて、権威としてあがめるものは何であるかということであります。キリスト教は明確でありまして、これは唯一の人格神であります。エホバの神といわれております唯一の人格神で、それ以外に権威を認めないわけです。先程申しましたように学問というものはどこまでも進歩して参ります、我々はいろんな学説を教えられたり作ったりしますが、それは次々に壊されて新しいものが立てられていく。私どもはどの学説も、どの人間の考え方も絶対とすることはできません。キリスト教では絶対なものは神だけであります。我々が政治的な考え方でも、学問の考え方でもこれが動かない、絶対であると考えたとすれば、それは進歩の終りであります。学問の考えというものは次々に進歩している。無限に進歩するといっていいもので、それを絶対化することはできません。自分の考えていることを絶対化することはできないわけで、我々はどこまでも謙遜でなければならない。謙遜が学問の基礎にあるということは先程申しましたが、本当に謙遜であるためには何が必要であるのか。私どもがすべてを投げうってその前にひれふす神がない場合に、私どもはどうなるかというと何か別なものを神としてあがめる。神とはちがう別なものを尊重する。尊重するばかりでなくて絶対の権威とするというあやまりに落ちいりがちじゃないでしょうか。この問題をキリスト教は投げかけております。キリスト教は偶像を排斥します。人間の手で作ったものを崇拝することを排斥します。これはユダヤ教もキリスト教もイスラム教もそうです。私どもは人間の手で作ったもの、何かここに何か人間や動物の形をした神様の像でもあれば、 これが偶像であるということはだれでもすぐわかりますね。しかし人間が頭で作り上げてきたものが、それが偶像の性格を持っている、絶対の力を持っているというときに、それが偶像であるということを見破ることは必ずしも容易ではありません。ことに神から作られたと考えられるもの、人間とか自然とかいうものに対して、我々が考える考え方というのは何か神に近いものであるような気がしてまいります。学問のある分野では、どうもこれこそ絶対であるというものが考えられやすい危険があるわけです。しかしこれもやはり基本的な性格としては偶像であります。イスラム教の本で、イブン・アル・カルビーという人の「偶像の書」という本があります。偶像のことばかり書いた本ですが、その「偶像の書」の初めのところに、神の被造物、神に作られたものを神の仲間として並べておいたこと。これが偶像崇拝として大きな欠陥であることが指摘されております。神によって作られたものを神と並べることは偶像崇拝であります。イスラムの偶像崇拝観は非常にはっきりしております。私どもは現代の偶像に対して戦わなければなりません。そうでなければ学問の世界で本当の自由と本当の生命は発展というものは期待できないでしょう。そういう問題をキリスト教は投げかけているということです。私はこういうようないろいろな問題について諸君が深く考えてくださることを期待しているわけであります。
諸君はこれから勉強をはじめるといろいろなむずかしいカリキュラムがあるかもしれません。しかし大体において大学生の生活というものには暇があると思います。高等学校にいて入学試験の勉強をしていた時代から考えますと暇があると思います。問題はこの暇をどういうふうに使うかということです。よくいわれることですけれども英語のスクールという言葉は語源をさかのぼってみると、ラテン語のスコラ、ギリシヤ語のスコレー、すなわち暇という字からきています。学校は暇があるというより暇がなければほんとうの学問はできない。暇を使って勉強する。先程申しましたように、これから我々が作り出している学問は、我々がどういうふうに自由な時間を使い開拓していくかということです。諸君一人一人が自由にできる時間をどう使うかということはまったく諸君一人一人の責任ですね。これほど明確なことはない。我々一人一人どういうふうに将来に向かって歩いて行くか、自分自身を作っていくかという分かれ目は、自由な時間を、あっちに使うか、こっちに使うか、ということですべてが決まるといってもいいわけでしょう。諸君はきょう入学式を終えて、いわばスタートラインの一線上に立って、これから行動を始めようとしているわけです。諸君の中には非常な秀才、才媛がいるかもしれないし、そうでない凡才がいるかもしれません。生まれつきはいろいろちがう、教育がちがう、 家庭の状況がちがう。その他いろんな条件がちがいまして、ここにいる現在諸君は一人一人まったくちがう人間であります。それが同時にスタートされるわけです。私は私のある友達の外国でほめられた話を一つ思い出すんです。私の友人のその大学の先生は外国語が不得手だった。外国に留学したんですけれども、言葉がしゃべれない、わからない。そこで語学の学校に入ったわけです。数ヵ月たって少しはわかるようにはなったけれども、とうていむずかしくてよくわからない。本当に困っていた時に、その学校の先生が私の友人をつかまえてこういうことをいった。「あなたは実にいい生徒です。ここの学校に入ってから、今日までにこんなに進歩した人はありません。」その人の努力と能力を、ことに努力を高く評価したわけです。その人は数ヵ月たっても決して語学のよくできる人ではなかったけれども、 初めからみると大きな進歩をしたわけであります。 諸君一人一人はこのICUの生活を送る間にいろんな進歩をされるだろう。私が期待しているのは、諸君が現在どういう能力を持ち、どういう状態にあるかということではなくて、諸君が同じようにきょうスタートして、そしてこのICUで生活する間に、どれだけ学問的にまた人格形成の上で進歩するかということです。私の諸君に対する期待は、諸君がここで進歩することにあるわけです。大学というものはすべて動いていてとどまることを知りません。私ども大学の人々がすべて進歩していかなければなりません。諸君に対して進歩を求めるということは、 私ども自身がみんな一緒に進歩しようということです。 諸君と一緒に進歩しなければ、大学は、生命のないもの、生命の失われたものになる危険が大きいのです。私は諸君の進歩を期待すると同時にまた大学の進歩を期待してこのお話を終りたいと思います。長い間、聞いて下さってありがとうございました。
山本達郎 1910年生 東京帝国大学卒文学博士(アジア史) 国際基督教大学教授 東京大学名誉教授 日本学士院会員 国際学士院連合副会長 国際オリエント・アジア研究連合副会長 著書:安南史研究(一)(山川出版社1950) 歴史の見方(三省堂1957) デリー諸王朝時代の建造物の研究(共著) (東京大学東洋文化研究所1967~70)
「ICUの学生に期待するもの」 1974年6月30日第一刷 著者:山本達郎 発行人:東京都三鷹市大沢3-10-2国際基督教大学学生部 大内 謙一 印刷:一誠社綜合印刷株式会社