ICUのユニークさについて (1977年度国際基督教大学入学記念講演)

横田 洋三

 皆さん入学おめでとうございます。

 今日は、 皆さんが難しい入学試験を見事パスし、 希望に胸をふくらませて、 ICUでの学園生活の第一歩を踏みだしたたいへん記念すべき日です。そこで、ICUの卒業生のひとりとして、また、現在ICUで教鞭をとる教師のひとりとして、日頃ICUについて考えていることの一端をお話しして、皆さんがこれから4年間 (あるいは4年間で終わらない人もでてくるかもしれませんが) ICUで学び、 そして、 生活していくうえで指針となるようなものをつかんでいただくための参考にしていただけたらと思います。今日の私の講演主題は、「ICUのユニークさについて」です。

 日本には現在数百の四年制大学があるということは、 皆さんもよく知っていることでしょう。 受験関係の本をあけてみますと、本当にカタログ販売でパンフレットに商品がならんでいるように、たくさんの大学がならんでいて、 どの大学にはいったらよいかと、 おそらく皆さんもある時期、 そういうものをながめて迷った時があったのではないかと想像します。 このようにたくさんある日本の四年制大学の中で、皆さんがICUという大学を選んだ理由は、一体、何なのか、ということを私はまず考えてみたいと思います。

 小学校以来(最近では小学校ではなくて幼稚園以来というべきかもしれませんが) の長い教育課程のしめくくりの場として、皆さんは4年間の大学生活をどうしてICUで送ろうと決意したのでしょうか。皆さんの中には、恐らく、ICU以外の大学に入学を認められ、それにもかかわらず、ICUを選んで今日ここに来ている人も少なからずいるのではないかと思います。毎年ICUには、そのような人がいます。よその大学にも合格したけれども、どうしてもICUに来たいということで、ICUを選んでくる学生がかなりの数にのぼります。私自身もICUを十七年前に、選んではいって来ました。ICUの場合に、どうしてこのように、ICUを選んではいってくる人たちがたくさんいるのでしょうか。恐らく皆さん一人一人異った事情のもとで、ICUに入学を決意したと思いますが、そこにはひとつの自分なりの選択というものがあったように思います。 この選択の背後にある皆さん自身の考え方というものを、ここでもうすこしはっきりとさせてみる必要があるのではないかというふうに私は思います。

 非常に問題を単純化して考えれば、私自身が、皆さんが、そしてまたこれまでICUに学んだ数多くの卒業生が、ICUを選んできたのは、結局、数多い大学の中でICUが何か個性をもつ、あるいはほかの大学とちがった特色のある大学と考えていたからだと思われます。つまり「ICUにはユニークさがある」ということが、私をICUに惹きつけ、そして皆さんをICUに惹きつけ、これまでICUに学んだ人たちをICUに惹きつけてきたのだと思います。それでは、そのICUはユニークだ、あるいは特色のある大学だというふうにいわれるけれども、一体、具体的に何がユニークだから、ICUはそのように多くの人を惹きつける力をもっているのでしょうか。ICUにあってほかの大学にないユニークさとは一体何なのでしょうか。こういう問題を次に考えてみたいと思います。

 もちろん何がユニークか、ということについては、ICUの場合もそうですし、あるいはほかのどんな事についてもいえることですが、一人一人によって意見の違いがあるものです。ICUについても、私の考えるユニークさと皆さんの考えるユニークさとは、当然、違いやずれがあるだろうと思います。しかしながら、多くの人々がある程度一致してICUに関してもっているイメージというものを、すこし箇条書的にならべてみることは、可能だろうと思います。たとえば、ICUについてよくいわれることは、少人数制の大学、あるいは教養学部重視の大学、一般教養重視の大学であるということ、あるいは今日こうやってみなさんをみてみましてもはっきりとわかりますけれども、男女比がほぼ同じです。多くの大学は、だいたい女子系の大学ですと女子が(女子系ですから全部女子ですけれども)、 それから男女共学の大学といわれているところも、 学部によって男子が圧倒的に多いか女子が圧倒的に多いというふうに性別による区分けができるような大学が多いわけです。ところがICUの場合には、 意図的に男女比を同じにしようということで、 それを一つの教育の方針としております。これはICU自身が一つの方針としてそういうものをもっていると同時に、それがICUの特色として、多くの人たちに認識されているといえると思います。外の大学からICUに教えにこられる先生、 非常勤だとか、 あるいはよその大学におられてからICUに専任でこられたような先生が、ICUについてまず語られることは、ここはたいへん女子学生の多い学校だということです。実際は決して多くはないのです(ここはだいたい半々なのです)が、それを多いと感じるのは、その先生がたがもともと男子の非常に多い大学におられて、女子がぽつぽつ全体の中で5%とか10%程度のところで教えておられたために、ICUにくると、非常に女子が多いという印象をもたれるわけです。これはICUのひとつの特色として、多くの人々にいわれていることだろうと思います。それからICUの国際性ということも、 一つの特色として、 多くの人々によって語られることです。 それから英語教育、特に使える英語教育という点では、ICUは特色があるというふうにいわれております。あるいは皆さんも、入学試験、2月に行なわれました入学試験をとおってきたわけですけれども、この試験のやり方がたいへん独特であったということは、みなさんも自ら体験したことだろうと思います。あるいは、大学院を重視する学校という点でも、ICUは特色があります。大学院大学というものを、日本の大学の中ではじめて目標としてめざして、 そのための大学院の充実をはかっている大学でもあります。あるいは、これはICUに来られたかたならどなたでも、まず、印象づけられることでしょうけれども、 この広いキャンバス、 恵まれた自然環境、 そしてたいへん充実した諸施設、 図書館一つをとりましても、たいへん充実した図書館で、恐らくこれだけの設備と、それから学生数に比例した場合の蔵書数というものを誇れる大学は、 日本の中で少ない、 恐らくないのではないかと思われます。また、このキャンパスの中に、寮が沢山あって、寮生がすみ、そしてまたファカルティーの家があって、そこに先生がたが住んで、 このキャンパスの中に、 ひとつのキャンパスライフというものが形成されている。これもまた、ICUの特色として指摘されることです。 あるいはキリスト教主義に基づく教育を行なっているということも、 一つの特色であります。 大学の名前そのものにキリスト教という名前がつけられていることも、そのICUのひとつの特色を象徴しているものです。最近では、ICUの卒業生がいろいろな職場で活躍しているということから、 一流企業への就職、 あるいは一流大学院への進学、というものがICUの特色として、指摘されるようにもなってきております。

 これらの特徴は、だいたい皆さんがこれまで耳にされてきたことでしょう。そしてまた、皆さん自身も、これらをICUの特徴だと考えてきたのではないでしょうか。私も第一義的には、これらの点がICUの特徴だと考えてよいと思います。ここで、これらの特徴について少し考えて見ましょう。これらの特徴はいずれもICUの良い面を表わすものとICU関係者は考えがちですが、実は、見る人によって、プラスにも、マイナスにも評価される側面をもっているということを、私はまず、指摘しておきたいと思います。たとえば、英語教育についても、 もちろんICUの卒業生ならば英語は心配ないだろうというように、社会がみてくれているということは、これはたいへんプラスの評価になると思います。そういうふうに世間がみてるわけですから、ひとつみなさん、一年生の英語の授業、しっかり勉強して、 そういう目でみられている期待に応えられるように、 卒業していっていただきたいと思いますけれども、しかし、この特色は、 別の側面からみますと、 ICUは英語だけを教える大学ではないか、英語というのは、これは大学で教えるものか、というような批判的な目にもとらえられる恐れのある、そういう側面をもっていると思います。あるいは教養学部重視の教育というものをとっても、人によりますと、それはこれからの市民にとって、 あるいは社会における指導者となる人にとって、人格的な教育を行なうことはたいへん大事なことだ、総合的な判断力を身につけることは、たいへん大事なことだということで、ICUの教育を高く評価する人もおりますけれども、別の面からみますと、いやしくも大学である以上、専門の教育というもので、勝負していかなければいけないのではないか、教養学部重視とか、あるいはキリスト教主義教育というようなことをいっているのは、実は専門の教育が十分でないことの、言い訳になっているのではないか。こういうふうな批判を、ICUに対してする人が、いないとはいえないと思うのです。広いキャンパスとか、あるいは女子学生が多いとかいうようなことについても、考えようによっては、全人口の半分を女性が占めているという事実から、 ICUのキャンパスに女性が半分いるということは、 決して不思議でもなんでもない。 それからこの広いキャンパス、 自然に囲まれた美しい環境というものも、 これが人間があたりまえに生活する最低条件ではないか、そういうふうに考えてみますと、確かにICUにとっては、 プラスの特色だといえると思うのですが、 別の面からみますと、 こういう環境の中ではきびしい学問はできないのではないか、という批判をする人もでてくるわけです。ICUでこういうことをいいますと、笑い話のようになってしまうのですが、ICU以外のところにいって、特に伝統のあるそれも、 私の分野でいいますと、 法学部というような、 非常に確立した学問体系をもったところにいきますと、学生のほとんどは男子学生で、しかも、建物も非常に古めかしく、コンクリートと石でできた建物の中で、 しかもかなりよごれた建物の中で勉強する、 そういう中で、手をこうあたためながらかじかみながら、本に目を近づけて、一所懸命勉強する、それが勉強だ、そういうきびしい条件の中で、はじめて勉強はできるんだ、こういうことをいわれると、私なども最初そういうところにはいりまして、 なるほどそういうものかなと思って、 ICUの環境はどうもあれは学問には害になるんじゃないかと、 一時思ったことがあります。 ですから、 そういう批判がICUに向けられるということは、 羨望の要素がないとはいえませんけれども、 しかし、 それもまた実感のこもった批判という感じも私にはするわけです。それから、皆さんも今日のこのオリエンテーションプログラムの最初から、感じられたと思いますけれども、ICUはたいへん学生に対する面倒みがいい大学だといえます。アドヴァイザー=アドヴァイジー=システムというものができておりまして、皆さんもいずれこの大学の専任の先生のどなたかに、アドヴァイザーとしてついて、もちろん、勉強していく上での相談をするのが第一義的な問題ですけれども、それ以外の個人的な問題についても、いつでも相談に行けるような態勢が作られているわけです。 これは、 学生一人一人を、 大事にする良い制度だと評価する人もおります。しかし、人によっては、大学というところは、まさか幼稚園ではあるまいし、学生一人一人、手とり足とり指導する必要はない、大学に来ようとする人は、そんな面倒をみなくても、自然に自分で自分のことを処理していくものだと、そういうふうないい方でもって、アドヴァイザー=アドヴァイジー=システムについて、 批判の目を向ける人もいないとはいえないと思います。

 こういうふうにICUの特徴とよくいわれるものについて、それはプラス、マイナスの両側面からの評価が可能だということを、 私はまず指摘しておきたいと思います。 そこでICUをよく知る人は、これをICUの特徴として評価するわけですけれども、ICUをよく知らない人は、結局ICUはそういう大学だということで、かえってネガティプに反応する人がいないとは、私はいえないように思うのです。いずれにしましても、私がさきほど列挙しましたような特徴というのは、 評価は分れるかもしれませんが、多くの人々が一様にICUの特徴として、認めているものだろうと思います。そして私自身も、そういうICUの特徴は、恐らくICUの姿をかなり正確に描き出しているように思います。

 ところで、それらの特徴に対しては、ICUの良い面とみてポジティブに評価するか、あるいは、ICUのマイナス面とみてネガティブに評価するか、これは一人一人の価値観の問題ですから、それについて、私が今ここで、こうでなくてはいけないというようなことを主張するつもりはありませんが、ICUとは要するにこういう学校ですね、といって、先に挙げたような特徴を指摘されると、ICUを選び、 そしてまた、 ICUに学び、 それからICUに働く者にとっては、 ちょっと違相感を感じるというのも、またこれは事実と思われます。ICUについて、ICUは英語教育のしっかりした大学ですねとか、あるいは女子学生の多い大学ですねとか、キャンパスのきれいな学校ですねとか、あるいは図書館の充実した学校ですねとか、あるいは教養学部制度だそうですね、とよくいわれます。これらの発言は決してICUに対して批判的なものではありません。むしろICUをポジティブに評価する発言であることも多いわけです。それにもかかわらず、ICUにかかわっている人にとって、そういうふうな言い方で、ICUというものを描さだされると、いやちょっとちがうのではないか、ICUはそういうものだと言いきられると、そうじゃないんじゃないかというふうな、一種の違和感を覚えるというのもまた、事実ではないかと思います。

 この違和感というものは、いったいどういうところからくるのかということを、ここでもう少し考えてみたいと思います。今はこういうものがはやっているかどうかわかりませんが、私がまだ学生のころ、雑誌のクイズなどによく、あるものの、特定の部分を特定の角度から写真にとって、それが何のどういう写真であるかということを当てさせるクイズがありました。 みなさんも知っていると思います。あるいは、あるものの一部分を虫めがねか何かで拡大して、その写真をとって、これが何のどういう部分であるかということを当てさせる、そういうクイズがありました。これは、写真でとっているわけですから、 写真そのものには、 決してまちがいはありません。 事実をそのままに我々の目や、あるいは我々の手では描きだせないぐらい細かい点まで、克明に、描いているわけです。が、それにもかかわらず、それがクイズになりうるというのは、私たちがそれをみて、それが何のどの部分をとっているかということが、即座には判断できない、しかし非常に洞察力に富んでいる、あるいは観察力に富んでいる人ですと、それをみてパッと、あっ、これはこのこういう部分をこういう角度からとったのだということがわかる、それがクイズとしての要素になるわけなのです。もちろんこれはクイズですから、わざとなるべくわかりにくいように、写真をとるわけです。そこで、このクイズから、 私たちが学べる教訓は何かといいますと、 あるもののある部分をいかに適確に正確に描きだしたとしても、それはそのもの全体を、正確につかんでいることにはならないということだろうと思います。私たちがICUに関して、多くの人たちに、ICUは英語教育がしっかりしていていいですね、広いキャンパスがあっていいですね、あるいは少人数制でたいへん充実した教育が行なわれていていいですね、こういうふうにいわれる時に、違和感を覚えるというのは、実は、先のクイズの場合のように、 それらの人たちが、 ICUのある一部分、 それはまちがったことではありません、 それは事実なのですけれども、その部分だけをとりだして、それがICUだというふうに判断しているように思えるわけです。ところが私たちICUにいる者、そしてまたICUを選んできた者、その意味では皆さん一人一人がそうなのですけれども、にとっては、その部分だけをとりだして、そうですねといわれると、いやそうでもないというふうに、首をかしげたくなる、そういう要素があるわけです。そこで話を一歩進めて考えてみたいと思います。つまり、ICUに関してこうですねといわれるとき、それはICUの姿を部分的に描きだしている写真像のようなものだ。 だからICUについて、 ひとつひとつの特徴をいわれた時に、どうもICUとは違うというふうに、感じるのではないか。

 それでは、次に、一歩話を進めて、そういうICUに関する特徴というものを、なるべくたくさんならべて、ちょうど写真についていいますと、一部分の写真ではなくて、全ての部分をいろいろな角度からとった写真を全部つなぎあわせてみたら、 ICUの全体像がつかめるかどうか、 という点を考えてみたいと思います。そうしますと、ひとつのICU像というものができるわけです。私がさきほどいいましたようなICUの特徴、もしそれで足りなければ、もっとたくさんあげていってかまいません、そういうものを、 ずっとならべていって、これがICUだというふうにいわれた場合に、みなさんは、そう、なるほどそうですというふうに、納得できるでしょうか。私はどうも、それでもまだ、 ICUの実体を正確に描写しているように思えないのです。そういうふうに言われたときに、だからあなたはICUを選んだのですねといわれると、やはり首をかしげたくなる、どうもそうではない、この広いキャンバスに惹かれてきたのでもない。 あるいは、 ICUの少人数制に惹かれてきたのでもない。教養学部制といわれるものに、それだけに惹かれてきたのでもない。では、それ全部を総合したものに惹かれてきたのかというと、またそうだとも断定できない。こういう気持ちを、私は十七年前に持ったし、 今でもそういう気持ちを持っているわけです。 皆さんも恐らく、 ICUを選んできた以上、私と同じような気持ちを、今いだいているのではないかと想像します。

 では、そういう気持ちは、どこからでてくるのかといいますと、私がさきほど並べたようなICUに関する特徴というもの、 これは世間でよく言われることですし、 私がいいましたように、 そのとおり事実なのですけれども、しかし、どうもそれは、ICUの外面をただ写真にとったにすぎないもの、つまりICUの外づら、みえるところ、それだけをつかんで、これがICUですねといわれたものだから、どうもそうじゃない、ICUにはもっとその奥底に何かがあるんだというふうに、いいたくなるような気持ちをいだくのではないかと思えるわけです。 つまりICUに関して、 いろいろ言われることは、実は、外から見た時に一番よくわかる部分、人についていいますと、お化粧したり、着飾ったり、あるいは家について言いますと、家をいろいろ飾って、門がまえをりっぱにしたりして、そういう外見を整えるわけです。 私は外見を整えることを悪いという意味でいっているわけでは全然ありません。皆さん一人一人、私も今日こういう服装してきているのは、実は、外見を整えたわけなのです。けれども、それは、最低限皆さんがやることですし、私自身もやることです。しかし、だから、あなたはそういう人ですねといわれると、いや、ちょっとそれはちがうんじゃないかという気持ちをもつ。私は、今日はこういう服装ですが、普段、比較的、紺色の洋服を着るのですけれども、そうすると、私を、紺色の背広を着た人ですねといわれると、私は、そうだといいたくないんですね。そしてその次の日は、紺色の洋服を着たくなくなるわけです。あるいは、あの人はめがねをかけてこういうタイプの人ですね、髪の毛を七三にわけた人ですね、と言われると、どうも、翌日から、七三ではなくて、もうちょっと違った分け方をしようとか、めがねはコンタクトレンズにしようかとかいった気持ちになるわけです。 そのめがねをかけるかどうか、 確かに私はめがねをかけているのです。確かに私はこういう髪の毛をしてますけれども、これは、私のどうも本質的なところに関係がないという気が私自身するわけです。みなさんもそういうふうに言われてみると、そうだろうなあという気持ちをもつのではないかと思います。 それは、みなさん自身についてよく考えてみるとわかりますね。しかも、それは、ある一時期についてもそうですけれども、長い人生をとってみますと、ますますそうなのです。皆さんが今、十代の後半という非常に若い世代に属しております、あなたたちはこうですねと言われたとき、同時に、今から二十年後のあなたがたを想像してみてください。決してそういわれた自分と、二十年後のみなさんとは、同じと考えないでしょう。ところが、みなさんは、今の皆さんと二十年後の皆さんと、同じ私だというふうに思うと思うのですね。つまり、どういうことかといいますと、 ICUに関してよくいわれる特徴というもの、 これは確かに事実です。 事実ではあるけれども、 これは実はICUのある一時期における外面的なものを、 ほかの人が見て、 ただ、 それをデスクライプしているにすぎない。しかも、その外面的というのは、単に外面的ではなくて、きわめて可変的な、つまり変化する要素をもった、そういう外面だけを見て、ICUはそういう特徴があるから、だからいい大学だ、あるいはよくない大学だと、こういうふうな評価をするのは、私は実は、ICUに関しての本質をつかんだ議論とはいえないような気が致します。 私が思いますのは、 そういうふうにICUの外形の、しかもその一部分をとりだして、ICUはこうだと断定するのは、実はICUを適確につかんでいない。だから、私が、ICUについていろいろ言われると、そうではないのではないかというふうな気持ちをもってしまうわけです。つまりICUのユニークさというのは、極論するならば、実は、英語教育にあるのでもない、男女共学にあるのでもない、あるいは広いキャンパスにあるのでもない、教養学部制にあるのでもない、そうではなくて、実は、もっと大きな根本的なところに、ICUのユニークさ、そして、存在意義というものがあるように思えます。そこのところをとらえなくては、ICUの特殊性、ユニークさといったものを正確につかむことはできないように思います。それでは、ICUのユニークさとは、より根本的にはどのようなものと考えるべきでしょうか。

 私はこう思います。戦後の混乱した日本の教育状況、そして現在ますますその混乱状況を深めている、 その日本の教育の現状において、 ICUが今普通に語られているような特徴を誤解や偏見を恐れずにうちだして存在している、という一点に意義がある、それがICUの特徴だということです。つまりICUは、 英語教育が特色なのではなくて、 日本の現在の教育の状況の中で、 なぜ英語教育をしなければならないのか、しかも使える英語教育をしなければならないかということを、よく考えて、そういうものを一つのICUの教育のやり方としてうちだしているというところに、ICUの特徴があるように思います。つまり、ICUの特徴を捜そうと思ったら、実はさきほど私が列挙したようなひとつひとつの特色が大事なのではなくて、そういう特色全体をICU自身が何の理念に基づいてうちだしてきたのか、そして現在うちだそうとしているのか、その根本的な理念が大切だということを、私はまずいいたいわけです。

 私は、教育学、あるいは日本の近代史というものの専門家ではありません。さきほど御紹介いただきましたように、 分野は国際法というたいへん限られた分野の、 専門研究をしているものです。 したがって、本当は、教育の問題、あるいは日本の近代史といったようなことについて、皆さんに講演をするような資格はありません。しかしながら、現在ICUという、ある意味でたいへんコントロバーシアルな大学で、教育と研究に従事している者として、近代日本の形成において、教育というものが果たした役割について、 特にその頂点にある大学というものがはたした役割について、 私なりのみかた、考え方というものを、ここで述べさせてもらうことは、許されると思います。そこで、あえて私が門外漢であるにもかかわらず、私なりの問題意識の中で、簡単に、日本の教育というものが、過去一世紀ぐらいにわたって、どのような役割を果たし、どのような問題をかかえてきたかということをごく大ざっぱに、お話してみたいと思います。その中でICUの存在意義、ICUのユニークさというものが位置づけられるように、私は思うからです。

 結論的な言い方をしますと、明治以来の日本の教育制度というのは、形式的に言いますと、成功しました。つまり、どういうことかといいますと、文盲率をほとんどゼロに下げました。それから、たいへん優秀な技能労働者、あるいは官僚、そういうものを育てあげることに成功しました。このように知識と技術を教えるという点では、日本の教育は、明治以来、恐らく世界でも例をみないほど、大成功をおさめたといえると思います。私の聞くところによりますと、ユネスコでは日本の教育は、プロプレム・フリーつまり全く問題のない国だと言われているそうです。 皆さん、 そういうふうにきくと、ちょっとそうかなあと疑問を感じるでしょう。なぜ、プロブレム・フリーの国だといわれるのかといいますと、文盲率の面から言っても、それから技能者の教育レベルという点からいっても、日本は、世界の超一流の国であるからなのです。だからといって、問題がないといわれるとまた、私もそれについて、意見を少し述べたくなるわけです。つまり、明治以来の日本の教育は、技術的な教育、知識を教えるという面では、成功してきていますが、技術教育、知識の普遍化というものが、どういう方向をめざしていたのかということを考えなければいけません。

 明治以来の日本の教育は、少くとも戦前は、富国強兵、つまり日本の国を富ませ、そして日本の国を強くする、そのために、教育を充実しなければいけない、そのためにみんなしっかり勉強しなければいけない、こういう教育理念のもとで、その知識、技術というものが教え込まれてきたように思います。つまり、日本だけが強くなればよい、そして、日本だけが豊かになればよい、そのために役だつ人材を育てるのが教育だ、こういうのがごく簡単ないい方をしますと、戦前の教育の特色であったと思います。そうして、国のためにやりなさいというだけでは、もちろん、一人一人の人間はそう簡単に動くものではありませんので、教育に熱心にかかわるための動機づけとして、一つは、修身というものに代表される、国家思想のたたきこみということが行なわれ、そしてまた、立身出世主義というものによって、勉強すればこういう大成功がみなさんの目前にありますよということで、ひたすら勉強させた。そういう側面があったのではないかと、私は思います。

 ところで、こういう教育制度が、敗戦によって挫折したということは、みなさんも、歴史で学んだことだと思います。それが挫折した理由は、そういう教育では、軍国主義を否定することはできなかった。植民地主義を否定することはできなかった。あるいは国内の貧困を撲滅することができなかった。そしてまた、 政治に広くみられた汚職というものをなくすことができなかった。 いくら知識の面で、 技術の面で、 教育が成功したとしても、 それでは本当に社会が必要とする教育は達成できないのだ、ということを、戦前の教育の失敗例から、私たちは学んだはずなのです。そこで戦後、占領軍の指導のもとに民主主義というものが打ち出され民主憲法の指針のもとに、 新しい教育制度、 民主主義教育制度というものがうちたてられたわけです。

 それでは、戦後の教育は、まちがった戦前の教育の否定に成りたったものとして、はたして成功したといえるでしょうか。現実は、皆さんが御存知のとおり、日本の現在の教育の状況というのは、きわめて混乱しております。 きわめて矛盾に満ちております。 それはなぜかといいますと、 戦後の改革において、戦前の教育に対する批判が、制度の面にのみ向けられたというところに問題があったように思うわけです。つまりどういうことかといいますと、戦後の教育制度というのは、民主主義というものを誤解して、ただ国家のわくをはずして、みんなが自由に競争すれば、いわゆるレッセ・フェール(自由放任主義)のもとにおいておけば、教育はおのずとうまくいくものだというような、非常に楽観的な議論に支配されまして、ただ、戦前にあった悪いものはなにか、それは修身の教育だ、それは国家主義の教育だ、そういうものを除いて、個々人が自ら教育を考え、個々人が自ら教育にぶつかっていけば、自然に社会の教育制度はよくなっていくという、こういう考え方、楽観的な考えかたに基づいて、戦後の教育改革が行なわれたような気がいたします。その結果、戦後の教育はどういうものになったかといいますと、戦前にまちがった形で与えられていた教育の理念、教育の指針、つまり軍国主義、 富国強兵、 修身、というようなものが、 全面的に否定されました。 そして残されたものはなにかといいますと、戦前にもあった知識・技術の獲得を通じての立身出世主義です。 個々人が自主的な判断のもとでもって教育を行なっていけばよいという、まちがった民主主義まちがった自由放任主義が、そこで制度化されたというふうにいえると思います。その結果はどういうことになったかといいますと、全ての人が大学までいって、いい大学を卒業すれば、社会のリーダーとなれる、あるいは金持ちになれる、 あるいは社会から尊敬される人になれるというふうな、 まちがった考え方をもって、大学へむけて受験競争が激化したということがいえるかと思います。戦後の教育の制度というのは、そういったまちがった考え方に基づいて、人を選抜し、そしてその選抜の結果勝ちぬいた人に対して、地位とそれから金と名誉とを、ごほうびの形で与えるという、そういう役割を果たす制度に化してしまったように、思えます。ただ、競争のための競争をあおる制度になってしまったというふうに思えるのです。 現在の深刻化した受験競争、 あるいは塾の繁栄、 不正入学、 こういった人間不在の教育の実体というものは、その戦後の教育改革が中途半ぱで、真の改革にならなかった、大切なものを一本欠いていた、というところに原因があったように思われるわけです。こういう状況は、実は、現在はじめて知られたことではなくて、 戦後の教育改革を行なっている段階においてすでにいわれていたことです。つまり、ICUがつくられた 1950年代のはじめ、あるいはそのことが議論されていた1940年代の終わりごろ、すでに日本の教育界は、実は混乱していたのです。

 そういう中で、ICUは、ひとつのはっきりとした主張をもって、ひとつの理念を設定し、その理念をめざして大学教育を行なおうという、 そういう大学として出発しました。 具体的に申しますと、皆さんがICUのパンフレットその他でもってすでにご存じの、「神と人とに奉仕する国際的な人材を育成する」という、そういう言葉で表現されているICUのひとつの教育理念、あるいは大学としてのひとつの指針であります。 ICUは他の大学と異なり、 大学における教育の方針というものを、 たからかに掲げて、それに従った大学をつくろうというふうに決意し、そしてこれまで努めてきました。美しいキャンパス、あるいはりっぱな設備、こういうものは、実はICUの初期にはなかったものなのです。 ICUができた当時、 この三鷹は、 三鷹村とはいえませんけれども、 それからそれほどかけ離れてはいないところでした。皆さんには想像もできないことだと思いますけれども、今から、三十年前のこの辺は、すすきと雑木林と畑の、全くの田舎だったのです。こんな辺ぴなところに大学をつくって、 一体、 誰が行くのだろうと、 みんなはけげんに思ったほどです。 その当時は、 交通通信網も今ほど発達していず何ごとにつけ都心にいませんと、物事が処理できない時代だったのです。三鷹というのは、 大へんな田舎で、 そんな辺鄙なところに大学をつくってどうするのか、 しかも建物も十分にない、 設備も十分にない、 そういう物理的な環境の中で、 実はICUはつくられたのです。 ですから、ICUは設備のいい大学だというのは、決してICUの初期からの特徴ではなかったということを、ここで考えていただきたいと思います。そこで、初期のICU生たちは、大学というのは、設備ではない、建物ではない、便利さではない、理想と誠実さとそして実行力をもった学生と先生の集団、その集団の中での知的な交流が行なわれる、 それが大学を形成するものだと、 つまり、 大学の基本は人間であって、物ではない、大学の基本はその内実、実質にあるのであって、外形ではないということを、ICUは最初から意識し、そしてそれを実行してきた大学だといえます。そういうふうに考えてみますと、実は、ICUの特徴といわれるものの多くは、実は、初期においては、ICUの特徴でもなんでもなかった。こういうものが、徐々にICUの理想を実現するひとつの手段として、取入れられてきたということがいえると思います。

 ICUは、 戦後において、 教育が社会で果たす役割というものを真剣に考え、 そしてそれに基づく理念を掲げて、研究と教育に誠実に従事してきた大学だといえます。ICUのユニークさの本質というのは、実は、こういうことにあったと、私は考えるのです。考えてみますと、きわめて簡単な、そしてごくあたりまえなことですけれども、それが、ほかの大学においては、必ずしも実現されていないというところに、ICUのユニークさがあると同時に、ICUの存在意義があるというふうに、私は考えます。

 さきほど、 私は、 ICUの特徴は可変的であるということをいいました。 ICUについてよくいわれる特徴は、実はこれは外形的なものであるということを、私はいいました。その証拠というものが、現在でてきております。つまりどういうことかといいますと、ICUのこれまでの三十年間のひとつの実績というものをみて、 ICUのあとにできた大学、 あるいはそれよりも前にできた大学であっても、新しい方向をうちだそうとする大学が、実はICUのやってることをまねようとしてきているわけです。私は、このまねるということを決して悪いといっているのではないのですけれども、実際は、たとえば使える英語教育、ラボを使った、話せる英語教育、それから少数精鋭教育、それから美しい環境のもとで勉強しようというようなことも、これは、よその大学が、次第に、ICUのある部分を取入れてきているといえると思います。大学の中には、都心にあったのが環境が悪くなったということで、ICUよりもさらに都心から離れた八王子のほうに山を買って、そこに大学を移転させ、美しい環境の中で勉強しようというような決意をしている大学もあります。そうなってきますと、ICUの特色というのは、次第にうすれてきます。ほかにもICUの特徴といわれてきたものをもつ大学ができているからです。私は、そういうふうになったとしても、ICUのユニークさは、残るというふうに、考えております。それをここで主張したいと思うのです。つまり、ICUの特徴というのは、そういう個々の細かいひとつひとつの側面にあるのではなくて、そういう側面をこれまで、日本の教育界において、うちだしてきたという、その根本的なところに、ICUの特色があるというふうに思えるからです。したがって、そういう基本的なものを、ICUが持ち続けるかぎり、外形的には、ICUに似た大学がでてきたとしても、それは、ICUのユニークさにとって、少しも変化をもたらすものではない、ICUのユニークさというのは、依然として生き続けるであろうというふうに、私は考えます。そして、そういうユニークさがICUにあるかぎり、ICUを選んで入ってくる学生、ICUを選んで先生になる、あるいは職員になる、という人々があとをたたないだろうと、私は思うのです。そういう人たちによって、またICUのユニークさというものは、生命力を与えられ、支えられていくものだろうと思います。

 ICUは大学ですから、高度の学問研究と専門教育の充実をめざして、日々努力していることはいうまでもありません。しかし、これまでの私の話から、おわかり頂けると思いますが、ICUは、その研究および教育の成果を、 一個人の立身出世の道具とすることを否定しております。 それは、 「と人とに奉仕するため」 の知識であり、 「神と人とに奉仕するため」 の専門教育であり、 専門研究だと考えています。ICUのめざす教育というのは、さきほど申しました根本的な理念に基づいて、三つの方向性を、 私はもっていると思います。 一つは、 今申しました立身出世主義の否定、 そして社会への奉仕の精神です。 第二は、 国家主義の否定と、 国際主義指向ということです。 そして第三の方向は、 技術中心主義というものを克服して、 人間本位の科学を確立するという、 そういう方向だと思います。 いろいろ細かくいわれるICUの特徴というのは、 いずれもこういう方向に向かうICUが、必要な手段として、とりいれてきた制度であります。いずれ状況がかわり、時代が変化しますと、そういう特徴は、恐らくICUから失なわれていく部分があるだろうと思います。また、同時に、よその大学で、そういうものを取入れる大学がでてくるだろうと思います。その部分については、ICUの特徴というのは変わっていきますし、また、それまで特色であったものが、特色でなくなることもありえようと思います。しかしながら、今私が申しましたICUの根本的な理念、そして三つの基本的な方針というもの、これは変わらず、ICUに生き続けるであろうと、私は思います。

 ICUは、 こういう大学ですから、 皆さん一人一人のICUとのかかわり方が、 大へん重要な意味をもってきます。この大学で教えられること、そしてこの大学で学ぶことというのは、単に、皆さん一人一人の個人的な利得のためのものではありません。 単に、 皆さん一人一人の将来の成功を約束するための特急券ではありません。 皆さんが、 ICUで学ぶということは、 大切なことですが、 この学んだことは、どういう形でもって、社会に返していくかということを真剣に考え、そういうことに裏付けられた学問でなければいけないと、思えるのです。私たちは、すでにICUに身をおいて、何年かたっております。ここに、非常にフレッシュなエネルギーと、能力に満ちた皆さんを迎えるということを、たいへんうれしく、喜びに思います。私は、みなさんといっしょになって、規模はたいへん小さい大学です、学生総数二千人そこそこの小さい大学ですけれども、この高い理想を掲げて、真に社会に役だつ教育と研究を行なおうとしている大学、 ICUを、 さらに将来育てていくという、 大きな事業をおし進めていきたいと思います。

 みなさんのこの記念すべき入学式の日にあたって、私はこういうことを日頃考えておりますということをお話しして、今後みなさんがICUで生活を送るうえでの、参考にしていただきたいと思いました。どうも、御静聴ありがとうございました。

横田洋三 1940年生 国際基督教大学卒 東京大学大学院卒法学修士法学博士(国際法) 国際基督教大学準教授 国際法学会会員 日本国際法協会会員 American Society of International Law会員 International Law Association 会員 主要論文-「国際金融機関の組織法上の特色-国際公社論の試み(一),仁)」(国際法外交雑誌,70巻1,3号,1971) 「低開発国開発における国際公社の役割」(社会科学ジャーナル,12号,1974) "Japan's Participation in International Organizations" (Proceedings of the69th Annual Meeting of the American Society of International Law,1975) 「米国投資保証に関する仲栽事件の紹介と解説」(JACジャーナル,232,233号,1977) 「国際組織が締結する条約の効力と強制力-世界銀行の貸付協定の場合を中心として」(「国際法学の再構策(上)」東大出版会,1977) 訳書-ボールディング『社会動学入門』(竹内書店,1971)

 

「ICUのユニークさについて」1977年9月1日発行 著者:横田洋三 発行人:東京都三鷹市大沢3-10-2 国際基督教大学学生部 丹羽芳雄 印刷所:株式会社中央企画 東京都日野市栄町5-7-17 電話0425-84-6276番