私達と大学の起源 (1979年度国際基督教大学入学記念講演)

立川 明

新入生の皆さん、ICUへの入学オメデトウございます。私は今日ここで、皆さんがこれからそこで勉強を始める、少くとも生活を始める、大学とはどういう所なのか、そのことを少しお話しするつもりです。けれども私は、ICUはどのような特徴を持つ大学だとか、大学の図書館はどう使えば一番効率的だとか、或いは、これは特に大切なことですが、フレッシュマン・イングリッシュでDをとらない為にはどうすればよいか、そうした事柄をお伝えして大学とはどういう所なのかお話しするつもりはありません。こうしたことについては、このオリエンテーションのあちこちで、またこれから先輩或いは先生方から色々とお聞きになることでしょう。

私は今日、これとは全然別な仕方で、大学とはどんな所なのか、その一つの側面について述べてみたいと思います。そのために、今からはもう数百年もの昔、十二、十三世紀のヨーロッパへ戻ってみたい。現在私達の知っている大学の原型はそこで生まれたのです。そして、今日ここに居られる皆さんと同じような若者達がそこで経験したことを少し話してみたいのです。

ヨーロッパ中世での大学の起源を説明するにあたって、 どうして中世の若者達を取り上げるのか? それはこういうことです。 当時のヨーロッパの若者達はギリシャの哲学者アリストテレスを夢中になって読みふけるのですが、これは私達の世代の若者達がビートルズに熱狂するとか沢田研二に夢中になるとかいうのとは少しわけがちがう、と私には思えるのです。私はビートルズや沢田研二が特別好きというわけではありませんが、 それでも彼等の歌を聞きまたステージを見て楽しいし、 かなりよくわかります。だからビートルズや沢田研二が若い子達を熱狂させたからといって、特別不思議には思いません。隣りのミーちゃんが沢田研二に夢中なんだって、と聞けば、「やっぱりねえ」と思うわけです。ところがアリストテレスとなると話しは少しちがう。十二、十三世紀のヨーロッパの若者達がアリストテレスに熱中したという事実を初めて聞いた時、僕は驚いてしまった。何故かというと、アリストテレスの書き残したものはとにかくお世辞にも面白いとは云えないことを、身を持って知っていたからです。これはアリストテレスが古典だからではありません。大部分の古典は、プラトンにしても、トーマス・モアにしても、ウィリアム・ジェイムスにしても、 少くともビートルズ位は人間味もあり、結構楽しめるものだと思います。 ところがアリストテレスは例外です。 そのあまり面白くないアリストテレスに中世の若者達は熱狂したなどと聞いたので、僕は驚いてしまったのです。

こう断言してしまうと、お前は少し好き嫌いが激しいのではないか、ちょっと気にくわないとすぐ毛嫌いするたちなのではないか、逆に夏目雅子はちょっといいなどと耳にすると、日本へ戻ってテレビさえ見る前から年がいもなく熱をあげるような、そういう情緒不安定な人間ではないのか、と皆さんから反論されそうです。そうした一人よがりの予断と偏見とで見られたのでは、アリストテレスがかわいそうだ、もう少し他人への共感的理解力を持たねばいけないと忠告されそうだし、現にこの間中川学長先生からそのようにさとされたばかりです。

けれども、アリストテレスは余り面白くないというのは、僕一人が勝手に決め込んだ判断ではありません。アリストテレス研究者の多くもやはり同じような感想を持っているのです。例えば、ケンブリッジ大学の古典学者ロイドの書いた「アリストテレス―その思想の成長と構造」のはしがきを見てみましょう。ロイドはこう書いています。

『アリストテレスがとっつきのよくない哲学者であるということは、まず万人の認めるところであろう。その論文はたとえばプラトンの多くの対話編のように純粋に文学作品として読んでも十分楽しめるようなものではない。しかもその論文の背後にひかえている人物は、無味乾燥で、いっこうに人の琴線に触れるところのない、というよりはむしろ人間味をさえ欠いているような性格の持ち主だ、というのがもっぱらの評判である』

もう一人のアリストテレス研究者、このロイドの著書の訳者であり、ICUの一期生でもある川田殖先生が書いていることを引用してみましょう。

『アリストテレスを-たとえ邦訳ででも-一読したことのある読者ならすぐわかるように、アリストテレスという名前の巨大さにひかれて、 またその歴史的重要性のゆえに読まねばならぬ作家として、いささかの勇気と義務感とをもって読み出したとしても、通りいっぺんの忍耐をもってしまいまで読み通すことは容易なことではなく、またざっと目を通したとしても、その正確な理解にはほど遠い、 というのがまず大体の読者の実情ではないだろうか』

ところがこのようにとっつきのよくない、そして無味乾燥でわかりにくいアリストテレスは、十二、十三世紀のヨーロッパで若者達から大歓迎をうけます。中世史家のヘレン・ウィルスツォウスキーは書いています。

『どのようにきびしい禁止令や制限令を出した所で、アリストテレスとアヴェロエスが若い人々を引きつける力は止めようもないことを、教会の当局者達はどの道さとらざるを得なかった』

更に、中世大学史の最もすぐれた研究者と今でも見なされているイギリスのハスティングス・ラッシュドールは、十二世紀の大学生達に言及して、

『彼等の全関心は論理学とアリストテレスに集中された』

と書いています。こうして私達の問題をあらためてたててみましょう。万人にかくもとっつきの悪く、わかりにくいと云われるアリストテレスは、十二、十三世紀ヨーロッパの若者達を何故魅惑することになったのでしょうか? 一体どのような事情があって、当時の若者達は、現代の私達にとって、そして歴史上の多くの人達にとっても、 とっつきにくいアリストテレス、 しかもその中でも一番無味乾燥な論理学などに熱狂し、教会のきびしい弾圧にもかかわらず、これに読みふけったのでしょうか?

まず簡単にそれ以前の歴史をたどってみると、 キリスト教世界とアリストテレスが強い相互関連を持ったという事実は、少くとも十二世記あたりまでは、余り目につきません。これとは反対に、キリスト教世界とプラトン、 アリストテレスの先生のプラトンとのつながりには、 深いものがあります。例えば、四世紀から五世紀に生きたキリスト教思想家アウグスティヌスを見ると、このことがよくわかります。二十才の頃、アウグスティヌスはアリストテレスの「範疇論」という小冊子を読みましたが、これは全然役に立たないばかりか、彼の思考にとって有害でさえあった、とアウグスティヌスは「告白」の中で書いています。それから十年が経ち、三十才の頃、アウグスティヌスはキリスト教への決定的な回心を開始しますが、これと平行して起るのは、彼のプラトン的哲学への傾倒です。それまで自分の目で直接見慣れているものの他どんな実体も考えようとしなかったアウグスティヌスは、三十才頃から目立って形のない見えない真理を探究するようになります。ここで決定的な役割を果たすのがプラトン派です。アウグスティヌスは、この頃、新約聖書の使徒パウロの著作にふれて次のように書いています。

『プラトン派の書物のなかで読んだすべての真理が、ここではあなた(神)の恵みをたたえながら語られていることを知りました』

単純化していうと、アウグスティヌスの時代、つまり四世紀・五世紀から十二世紀頃までは、キリスト教とプラトンとは仲の良い兄弟で、そこにアリストテレスという人物の入り込むすき間はあまりありませんでした。では、十二、十三世紀になると、アリストテレスが大いにもてはやされ、同じ時期にプラトンの著作、例えばパイドン或いはメノンという当時ヨーロッパに知られていたプラトンの作品は、ほとんど無視されてしまうのは、一体どうしたわけなのでしょうか。

こうした問題意識をもって、十二、十三世紀のヨーロッパの歴史をみると、次の二つのことがわかります。

第一=この時代のヨーロッパでの哲学・神学上の一番大きな出来事は、普遍論争だったこと。これはどういう論争だったかというと、実在論者と唯名論者の対決でした。実在論者は、この世にある人間一人一人や犬の一ぴき一ぴきなどは影のようなもので、本当に存在するといえるのは人間という抽象的な概念、犬という概念だと主張した。これに対して、唯名論者は、いやそうではない、本当に存在するのは、沢田研二とか夏目稚子といった個々の人間、ポチとかラッシーとかいった個々の犬の方であって、人間一般とか犬というものとか云った抽象的な概念など、何ら実体のない言葉・記号にしかすぎない、 と主張したのです。 これが第一点です。

第二=この論争の中で、 プラトンは実在論の旗頭として持ち出され、 アリストテレスは唯名論のチャンピオンとしてかつぎ出されていることがわかります。

アウグスティヌスには全くおもしろくなく、有害でさえあったというアリストテレスの「範疇論」の一部を読んでみましょう。

『実体-それも最も本来的な意味で、そして第一に実体と言われ、また最も多く実体であると言われるものは、何か或る基体(Subject)について言われることもなければ、何か或る基体のうちにあることもないもののことである。例えばある特定の人間、あるいは或る特定の馬。そして第二実体と言われるのは、第一に実体と言われるものがそれのうちに属するところの種とそれらの種の類である、例えば或る特定の人間は種としての人間のうちに属し、そして動物がその種の類である…。

さらに色は物体のうちにある、だからまた或る特定の物体のうちにもある、何故ならもし個々のうちの何もののうちにもないならば、また物体一般のうちにないからである。したがって他のすべてのものは基体としての第一実体について言われる、あるいは基体としてのそれのうちにある。だから第一実体が存しないならば、その他のものどもの何一つとして存することを得ないということになる』

一体ここでアリストテレスは何を言いたいのでしょうか? 大体こういうことだと思います。私達はふつう、沢田研二は背が高い(低い?)といって、背の高い(低い)のは沢田研二だとは言いません。沢田研二という個人を主語として、 それに高いという形容詞をくっつけ、 彼についてある特徴を述べます。何故でしょうか? アリストテレスによれば、背の高さとか、色の白さとかは、具体的な人間、例えば沢田研二に属しているのであって、 そうした個々の人間、 個々のものなしには、 存在しないのです。まず沢田研二や夏目雅子などという個々の人間が居て、それではじめて彼は背が高い(低い)とか、彼女は色が白い(黒い?)とかいうことが成り立つのであって、背の高さとか色の白さとかは、それ自体では決して存在しない、 というわけなのです。 同じようにして、 沢田と夏目が共に属する人間という抽象的な概念は、沢田とか夏目という個々人なしには空しくなってしまうし、更に人間とか犬といった種があってはじめて成り立つ動物などという類に至れば、個々の人間、個々の犬が居なかった場合のその空しさは、議論の余地がないというわけです。

こうしたアリストテレスの主張を、十二世紀のヨーロッパ人はどのように理解したのでしようか? この時代の「典型的な学徒」といわれるソールズベリーのジョンは、彼のアリストテレス理解を『メタロギコン』という著書の中で次のように表わしています。

『……アリストテレスによれば、類は数として一つだと主張する者は普遍の独自の存在を主張しているのだ。形相つまりイデアの存在を想定する者はこうした主張をしているわけである。アリストテレスは機会があるごとにこうした考えと、 それを生み出したプラトンとに、 力を尽して反論した。確かに、アウグスティヌスのみならず我々の同時代の多くを含む数多くの哲学者達は、プラトンのイデア論を護っている。だが、普遍の本性の分析に関する限り、我々はプラトンを断じて受け容れはしない。この問題については、我々は逍遥学派のプリンス(学頭)アリストテレスを唯一の師と認めるのである』

こうしてソールズベリーのジョンは、本当に存在するのは概念、或いはイデアの方だとするプラトンの主張を、根本から否定するものとしてアリストテレスを受け取っています。そしてこの問題に関する限り、アリストテレスの方が正しいと云っているのです。

こうして、十二、十三世紀のヨーロッパの若者達は何故アリストテレスを熱狂的に歓迎したのか、この間について一層具体的な仮説を作ってみましょう。それは次のようです。古代ギリシアで、哲学者アリストテレスは自分の先生のプラトンのイデア論を批判して実体論という枠組を持ち出し、プラトンとは正反対に、個々のもの、個々の存在こそ、普遍的なものに比べて実在性が高いのだと主張しました。この主張はただ「範疇論」だけで見られるものではなく、アリストテレス哲学全体を貫いている基本的モティーフの一つです。アリストテレスは個々の実例の分析をどこまでも徹底的に行なう点で、しばしば帰納的方法の元祖と言われます。こうした彼の方法は、個々のもの、個々の存在こそ、本当に存在しているのだという彼の基本的なもののとらえ方の必然的な帰結であって、この問題に関する限りでは、アリストテレスはプラトンとは真向から対立しています。この対立が十二、十三世紀のヨーロッパで再びよみがえります。アウグスティヌス以来、どちらかといえば個々のものを軽視して普遍者を重んずるキリスト教のオーソドックスな立場が、めんめんと続いていました。こうした立場はプラトンの思想と深く結びついていました。このような状況の中で、十二、十三世紀のヨーロッパに、アリストテレスを強力に支持する若者達が出現し始めます。彼等はアリストテレスをかつぎ出して、アウグスティヌス以来十一世紀のアンセルムスまでプラトン哲学にたよりながら自分の立場を主張していたオーソドックスなキリスト教とその教会に対して、根本的な挑戦を始めます。アリストテレスはこうした若者達にかけがえのない武器を提供したのです。

先ほど紹介したウィルスツォウスキー、ラッシュドール、更にはチャールズ・ホーマー・ハスキンズといった歴史家達は、十二、十三世紀に於けるアリストテレスの盛況・大もてぶりを、アリストテレスの再発見という形で説明しています。 つまりそれまでヨーロッパ人の眼に入らなかったアリストテレスの著作の多く、例えば「自然学」「形而上学」「ニコマコス倫理学」等が、アラビア語を経てこの時代ヨーロッパにもたらされたことが、アリストテレスの人気急上昇の原因だとしているのです。私達がこれまで見た所からすると、 こうした解釈にはかなり根本的な欠陥がありそうです。現に、私達の引用した「範疇論」は早くも六世紀にはボエティウスによってラテン訳され、九世紀の始め頃、カール大帝の時代には、 テキストとしてかなり広く用いられていました。 その他の著作で早くからラテン訳されていたものもあります。更に、万人の認めるアリストテレスのとっつきにくさを考えに入れる時、アリストテレスの著作が大量に入って来たからそれで彼の人気が急上昇したというだけの説明では、あまり納得が行きません。歴史家達は事実を述べているという点では正しいのですが、しかし事実の半分、 半面しか伝えていないという意味では誤っていると思います。 中世ヨーロッパの若者達によるアリストテレスの発見或いは再発見には、 アラビア語を通じての彼の著作の流入の他に、 もう一つの、そして恐らくは一層重要な意味があるのだと思います。それはアリストテレスが中世の若者達の心を強くとらえるようになるという意味での発見、彼等にアリストテレスを読みたくてたまらなくするような動機の発見であって、 彼等をしてアリストテレスの思想に応答し、 共鳴なさしめるような事態が、十二、十三世紀ヨーロッパのただ中に現れてきたという意味での、アリストテレスの発見のことなのです。ではこの発見とは何だったのでしょうか? 中世の若者達は彼等の廻りに、そして彼等自身の中に一体何を見つけたのでしょうか?

十世紀から十二世紀までのヨーロッパは封建制度の確立した時期にあたります。 量の比較的限られた土地から農業によって富を生み出さねばならなかったこの時代に、 封建領主、 騎士達は上下の身分をしっかりと立てて、ヨーロッパに広く安定して農耕の行なえる土地を確保するネットワークを造り出しました。彼等は農民達から年貢を取りたてるかわりに、農民達の土地の安全をまもってやったわけです。こうした階層をなす身分体制の中では、地方領主、伯爵、国王と位が上るにしたがって、一個一個の肉体としての人間よりも、身分・地位・或いは名前が一層ものを言わなくてはならなかった、例えば国王という地位は、高貴で確実で普遍的でなければならなかった。そうでなければ、広い地域にわたって、 こうした支配を正当化するために、中世のキリスト教会も一役買っていました。それを示すかのように、九世紀から十一世紀までの代表的な神学者達、 エリウゲナからアンセルムスに至る神学者達の多くは、アウグスティヌスを引き継いだ実在論者、普遍者の方が個々のものより実在性が高いと主張する人達です。

ところで封建制が確立して安定した農耕が確保され、農業生産が安定すると何が起こったでしょうか? 農民達は余剰な生産品をたくわえ、これまでに買えなかった道具その他を買えるようになり、そうしたものを造る人達、運んでくる人達を養えるようになります。そして事実十二、十三世紀のヨーロッパには、こうした商工業階級を中心とする中世都市が急激に立ち現われてきます。農民とはちがい、封建支配者に土地をまもってもらう必要のない新しい階級が、しっかりと根を下し始めたのです。彼等は都市に共同して住み、封建勢力に対抗して都市の自由をまもり、広範なコミューン運動を展開したのです。

こうした状況の中から、アウグスティヌスに始まるオーソドックスなキリスト教的実在論に挑戦する新しいエネルギーが生れてきたとしても、不思議ではありません。事実十二世紀には、ロスケリヌス、アベラール、ソールズペリーのジョンのように個々のものの実在の方が高いのだと主張する立場をとる者達、そして彼らに群れをなして従う若者達が続々と登場するのです。

個々のもの、個々の出来事、個々の人間への強調は今日の私達にはあたりまえとも思えることです。けれども十二、十三世紀ヨーロッパの若者達、普遍的なものを重んずる封建制とキリスト教との時代に、それとは全く違った都市の体制の出現を目のあたりにした若者達にとって、個々のもの、個々の出来事、個々の人間への強調は新鮮な考え、新しい発見、わき出るようなフレッシュな経験であったにちがいありません。私達の多くにとってかくもとっつきにくいアリストテレスの著作は、封建体制に反旗をひるがえした当時の若者達には、強いよりどころ、同時にかけがえのない武器となったのだと思います。

十三世紀、危機に直面したキリスト教会を救おうとするドミニコ会士のトマス・アクイナスは、何故アリストテレス哲学を正面から取りあげて研究し尽し、ある意味でそれを克服しようとしたのでしようか? トマスは何故死ぬまでアリストテレスの註解を続けたのでしょうか? その答はすでに出ていると思います。トマスにとっての真の相手はアリストテレスでもアラビア哲学でもなかった。そうではなくて、十二、十三世紀のヨーロッパに現われてそれまでのオーソドックスなキリスト教体制の根抵をゆるがし始めた新しい要素、中世社会のただ中に現われ、伝統的な体制に反旗をひるがえし始めた若者達こそ、トマスの対決した真の相手だったのです。アリストテレスを手本にとって中世教会体制の根本的な原理を否定しようとした若者達の手から、 アウグスティヌス以来のオーソドックスな信仰の核心をまもりぬき、 若者達の批判を浴びてもぐらつかないような形に伝統的な信仰をおきかえる使命がトマスに課せられたのです。それができなければ、中世のキリスト教体制は崩壊しかねない危機にさらされていることをトマスは身をもって知っていたのだと思います。 中世社会の内部から起こりそれ自体の根本原理を否定しようとする内部の敵に立ち向かい、これを征圧するために、トマスはアリストテレスという外部の相手と格闘せざるを得なかったのです。

現在の大学の原型をなす中世大学、 少くともパリ大学を中心とする中世大学は、 世界の見方についてのこうした根本的な対立、しのぎを削る闘いの中に生まれ、そして育まれました。もちろん大学はその初めから職業訓練の場でもありました。にもかかわらず、根本的なそして論理的な検討を経ずしてはどのような意見も安易に肯定したり否定したりしないという精神を確立することによって、中世大学はそれ以前の教会学校とははっきりとした一線を画したのです。チャールズ・ホーマー・ハスキンズは、中世大学と近代の大学との連続面を歴史制度上の点に見ています。学者や学生の組合ウニヴェルシタス、そして貧しい学生用の宿舎カレッジとして始った中世大学は、その後の様々な変容にもかかわらず、 いぜん私達の時代の大学の原型をなしています。 けれども今日私達がアリストテレスとの関連で見たように、中世大学と現代の大学とは、もう一つの事実を共有していると思います。それは彼等も私達も共に、 益々巨大化する社会組織の中で、 個々の人間が個々の事柄について益々強く自己主張するという、運動の同一線上におかれている、ということです。こうした運動の一つの始まりは十二、十三世紀のヨーロッパに見られ、中世大学はそうした状況の中に生まれてきたのです。このような意味に於いても、中世大学はいぜん私達の中に生き続けているのだと思います。

では皆さんのICUでの四年間、 或いは五年間が、 みのり豊かなものとなるように祈りながら、 私の話を終りたいと思います。どうもありがとうございました。

立川 明 1947年東京に生まれる 1970年国際基督教大学教育学科卒 1978年ウィスコンシン大学大学院博士課程卒 現職 国際基督教大学専任講師(教育学) 主な論文 The Two Sciences and Religion in Ante-bellum New England: The Founding of the Museum of Comparative Zoology and the Massachusetts Institute of Technology (University Microfilms, Order No.7823089,300pp.).

 

「私達と大学の起源」1979年9月1日発行 著者:立川明 発行人:東京都三鷹市大沢3-10-2 国際基督教大学学生部 星野 命 印刷:株式会社三幸印刷