空から見るICU

三鷹キャンパスの航空写真です。1949年から1990年代まで。

キャンパス中心部 (1949)

中島飛行機株式会社から土地の買取が決定したころのものです。キャンパス東側から。中心に見えるのは板金工場。その左手にはのちに大学本館となる研究(設計)本館。奥にある巨大な建物は格納庫(ハンガー)です。その奥に拡がる森のように見えるのが多摩霊園です。

大学本館 (1949)

中島飛行機株式会社から土地の買取が決定したころのものです。改修前の大学本館には4階部分はありません。後ろは板金工場。のちのバカ山は中島飛行機の撤退後に戻ってきた農家の人たちが畑として利用していました。

キャンパス中心部 (1956)

キャンパス東南側から。バカ山にはまだ山がありません。図書館もまだありません。左手前は1954年に建てられたメリル・ヴォーリズ設計の初代チャペルです。奥に見える格納庫(ハンガー)はまだ手付かずで残っています。

キャンパス中心部 (1956)

キャンパス南側から。手前に並んでいるのは左から楓林荘(メープルグローブアパートメント)、第1女子寮、食堂、第1男子寮です。

キャンパス遠景 (1956)

キャンパス南側から。手前には野川と水田が映っています。右下の周りを囲まれた部分はワサビ田でしょうか。奥に見える住宅群はのちに三鷹井口アパートになりました。

キャンパス遠景 (1957)

キャンパス南側から。手前の建物群にフラットトップの3階建て、第2女子寮(最左)と第2男子寮(最右)が加わりました。右奥では格納庫(ハンガー)の解体が始まっています。

ロータリーとチャペル (1957)

キャンパス東側から。旧ロータリーは中島飛行機時代に作られたものを大学が継承しています。X型の植え込みはICUになってからのものと思われます。チャペルの後ろに翌年ディッフェンドルファー記念館が建てられ、食堂も左右に拡張されます。

キャンパス中心部 (1959)

キャンパス南側から。第3女子寮(左端)、ディッフェンドルファー記念館(中央手前)、シーベリー記念礼拝堂(正三角形の建物)が完成。礼拝堂とテニスコートの間には花壇ができています。食堂(中央最手前)も左右に拡張されました。背景にはかつてあった西武多摩川線の引込線跡がカーブを描いています。のちのICU高校の敷地の東端まで敷設されていたことが分かります。

キャンパス中心部 (1959)

キャンパス東南側から。初代チャペルは2代目主任建築家アントニン・レーモンドによって、ほぼ解体されて生まれ変わりつつあります。建設中の図書館敷地を掘り出した土がバカ山に変身しつつあります。格納庫(ハンガー)は解体中です。本館の右側、のちに教育研究棟が建てられる場所に一本だけ木があるのが見えますか? 1951年9月6日、サンフランシスコ平和条約の調印を記念して植樹された松の木でこの後図書館正面左側に移植されます。

キャンパス中心部 (1964)

キャンパス北東側から。この年、農場は閉鎖されてゴルフコースが開場しました。現在の野川公園だけではなく、のちのICU高校の敷地までコースであったことが分かります。チャペルは1960年に改装が完了しています。右奥に見えているのは、前年に目黒から移転してきたアメリカンスクールです。この翌年にバカ山に梅の木が植えられます。図書館前の左側スロープ下に、本館横から移植されたサンフランシスコ平和条約の調印を記念して植樹された松の木が見えます。

キャンパス中心部 (1970)

キャンパス北西側から。1966年に完成した理学館が手前に見えます。道路沿いに植えられたヒマラヤスギはトロイヤー記念アーツサイエンス館の建築に伴って伐採されました。1965年の12月に植えられたバカ山の梅の木がまだ若々しいです。今の東半分しかない図書館はこのあとすぐに西側の増築工事が行われます。三角形のシーベリー記念礼拝堂とテニスコートの間の道は花壇跡を迂回するよう湾曲していますが、このあと直線道路になります。

キャンパス中心部 (1983)

キャンパス東南側から。1978年に開学した、ICU高校とそのグランドが右奥に見えます。同じ年に完成した本部棟も右側に映っています。本部棟の陰に隠れるように覗いている三角の屋根は中島飛行機時代の倉庫を住宅に改装した東林荘(イーストグローブハウス)で、1987年まではこの場所にありました。野川以南のゴルフ場は1975年に東京都に売却されてこのときはすでに野川公園になっています。左奥に3番4番ホールのフェアウェイの跡が見えます。周回道路と駐車場はまだなく、教会目ロータリーから高校へいたる道が駐車場として使われていました。