園丁 宮澤吉春 [2018-12-04]

図書館前の東側スロープを降りたところの植え込みの中、アカマツの根元に「平和記念 1952」と彫ってある小さな石碑があるのを知ってますか? これはサンフランシスコ講和条約にともない太平洋戦争の終了および日本国の主権回復を記念して植樹および除幕されたものです。

石碑の裏側には秩父宮雍仁親王妃勢津子様、東ヶ崎潔ICU理事長、湯浅八郎初代ICU学長と並んで、「園丁 宮澤吉春」の名前が刻まれています。宮澤さんは大学創立初期の職員で、キャンパス内の樹木管理をしていました。なぜ宮澤さんの名前がここに刻まれているのでしょうか? 

記録によれば宮澤さんは1901(明治34)年、20世紀が始まって数ヶ月のちに三人兄弟の末っ子として現長野県小県郡青木村に生まれました。19歳の時、海軍に入団志願し、舞鶴海兵団に入っています。このころから品行方正で人々から信頼される人徳があったのでしょう。翌年、大正10年には20歳という若さで、紆余曲折の後実現した皇太子(のちの昭和天皇)欧州巡啓のお供艦に乗組員として乗船し半年間の航海を体験しています。ICUで長年管財の仕事に携わった細木盛枝さんの語るところによれば宮澤さんは「航海中、インド洋で暴風雨により他2船員とともに甲板より落水したが、唯一救助され生還した」とのこと。

帰国後の大正11年、当時東洋一の航空基地と言われた霞ヶ浦海軍航空基地の航空隊に入隊します。このころ、1年に入隊する練習生は30名程度。宮澤さんがエリートであったことは間違いありません。先の細木盛枝さんによれば当時の航空隊長(のちの聯合艦隊司令長官)山本五十六の従卒にもなったとのこと。しかし航空隊の年齢規定でもあったのでしょうか? 4年後の大正15年(昭和元年)には退籍しています。この航空隊時代にのちのICUとの接点が生まれた可能性があります。というのは、今の土浦にあたるこのあたりに、航空機メーカーの先駆的存在である中島飛行機が若栗工場を持っており、同社が量産メーカーとして飛躍し始めた時期にあたるのです。社長の中島知久平との接点がここにあったに違いありません。ご存知のようにICUはこの中島飛行機の三鷹研究所の敷地跡に誕生するのです。

海軍を去った宮澤さんは群馬県警察署に勤務します。伊勢崎市、太田市、前橋市と転籍しましたが、これらの町にはいずれも中島飛行機の工場がありました。そして昭和13年11月、(細木さんの記事によれば航空隊時代の上官の推薦で)中島飛行機株式会社に入社し中島知久平の警護係として東京都市ヶ谷と麹町で勤務したのち、園丁として名を残す三鷹市上石原2153番地(今の泰山荘)に転居し、警護および山林土地管理業務に従事。中島知久平の三鷹での世話係になるのです。

昭和24(1949)年、10月29日、中島知久平は脳溢血で亡くなります。終戦後、A級戦犯に指定されながら病気を理由に泰山荘に蟄居し続けた末のことでした。この時点で、中島飛行機三鷹研究所の用地はすでにICUに払い下げされることが決まっており、大学創立関係者による視察も行われていました。この土地のことを隅々まで熟知している宮澤さんに何のコンタクトもないはずがありません。ICUには昭和25(1950)年5月5日付けで宮澤さんの履歴書が提出されています。同年6月1日付けで中島飛行機を退職しICUに入職。園丁 宮澤吉春が誕生しました。

宮澤さんの実直な性格は当時の教職員に良く知られていました。毎日必ず5時に(時計がなくとも)起床。夏は5時に芝刈りを始め、涼しいうちに大半の仕事を終えてしまう。肉や魚が嫌いで、一切食べない。構内の空き地を耕して自分で大根、ホウレン草、ネギなどを作って食べる。華やかな経歴とは対極の謙虚さを持っていたらしく、過去の大学文書を探しても本人が書いた文章や記事・写真など一切残していない。明治生まれの一本芯の通った気骨のある人物。どこまでもストイックに献身的に働き、誰の賞賛も期待せず、脚光を浴びる舞台には決して昇らない。このいじらしいまでの謙虚さを思う時、ICUの歴史の中にもう一人思い当たる人物がいます。それは初代総長(学長)湯浅八郎です。武田(長)清子もと名誉教授による『湯浅八郎と二十世紀』は、湯浅の人となりを知る上で貴重な著作ですが、これを読めば読むほど、独立した人格の持ち主で神以外の何かに仕えることをよしとしない人だったことが分かります。同著では「湯浅はローナー(loner)」だったという元同志社宣教師オーティス・ケリーの言葉を引用しています。「ロンリー(lonely)」即ち寂しいというのではなくて、一人でいても寂しくない人であると。そして顕彰や功名は敢えて避けていたように受け取られます。そんな湯浅にとって語らず奢らず黙々と日々の労働で人生を全うしようとする宮澤はリスペクトの的だったのです。

湯浅八郎が古希記念に配布した文章「ICU私見」からの文章を抜粋します

私が如何なる心構えで人間尊重の根源的主張を実践しようとしたかは、私がICUに残した唯一の石碑がこれを物語るかと思います。それは一九五二年、新しい国際政治の転機となった日米平和条約締結を記念し、当時のICU責任者として名誉評議員秩父宮妃殿下、理事長東ヶ崎潔博士、評議員会議長鵜沢総明博士、総長私とが一本の松を校庭に移植しましたが(図書館正面に現存)、その下に建てた記念碑です。その碑にはもう一人の名前が刻まれていますが、それは園丁、宮沢吉春氏です。宮沢さんはICU創立当初から長逝されるまで、一日も休まず、四十万坪の校庭にある一木一草を愛護して自主的に終生誠実一途に献身奉仕された模範的人間であられました。総長としての私など、その点宮沢さんの靴の紐を解くにも価いしない者でしょう。宮沢さんこそICUが念願する人間育成の模範です。ですからこの記念碑を建てる時、万一石面の都合か何かで名前を省く必要がある場合には総長湯浅を第一に落とせ、最後の一人という場合には宮沢さんを残せ、そうして字の大きさや字格は全部同じにするように注文しました。幸に原案通りに実現しましたが、日本の何処の大学でこのような実例がありうるでしょうか、これはICUが世俗の慣習にとらわれず、地位や肩書に煩わされず、人間を人間として尊重している実例の一つです。

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