ハウ・ツー・レコード(後編)「思い出のゆくえ」 [2019-02-05]

★ハーイ、くくのっちです。「ハウ・ツー・レコード」後編でゴンス。「編」て漢字は、綴じた本の場合は「編」文章の場合は「篇」を使うのが従来用法だとか。コレは文章なので、正しくは後「篇」だぁね。前篇ではVHSやMDなど各種視聴覚メディアについて書いたけど、われらが資料室にはもちろん紙の文書や写真も山のようにあって、プチ・ジャングル状態なのでございます。ん。そういや最近プチトマトってあまり聞かないな。(司馬遼太郎風に)以下無用のことながら、我々が親しんでいるあの食卓や弁当を彩っているまことに小さな果物は、実は総称ミニトマトなのである。プチトマトはタキイ種苗(株)が販売していた品種名が定着したものといい、現在はタキイもこの名前を使ってはいない。エー、とにかく資料室には記録がいっぱいなンです。後篇ではこれら「記録」とその記録が守っている「記憶」(平たく言うと思い出ですナ)について、ヒトクサリしてみようかなーなんて思っとっとです。以下の内容は2016年に同窓会のセミナーでくくのっちが話した内容に手を加えたとです(ヒロシ風)。

★えーまず、「記憶」は三省堂国語辞典によれば「過去に経験したことの印象や一度意識に止めた事の内容が脳裏にとどめられ、随時再現出来る状態にあること、また、その内容」です。ハハァー、さすがサンコク。これは他の辞書にはないスンゴイ語釈ですなア。ほかの辞書だと記憶の対象として「ものごと」「こと」「事柄」のような曖昧な言葉を使っているところ、三国ではズバッと「印象」と「内容」。英語で言うとimpressions and contentsと具体的に述べているし、それをほかの辞書では「心にとどめる」「忘れずに覚えておく」とかいう文学的表現を使って説明するところ、サンコクでは「脳裏に」「随時再現」という科学的な説明をしている。でね、これは実は人間個人において知覚される現象だけじゃないんだよって、くくのっちが言いたいのはソコんとこサ。「印象と内容が随時再現できる」。これはずばしアーカイブズの機能である記録の保存と提供に通じるものだって言いたいのヨ。ね。だから、記録を保存するアーカイブズってのは、その共同体にとっての記憶だって事だよ。

★記録ってなんだ。英語でrecord(s)だ。心を表すcordにre-がついてるんだから「再び心」。つまりは思い出す、転じて覚えておくってことだ。そもそも人間が経験した全ての事象を完璧に間違いなく覚えておけるのであれば、記録はほぼ不要。忘れるから記録をするンだよね。アナタ、一昨日の夕飯は何食べましたか? たいがい忘れてるよね? ま、夕飯なんざ個人的な出来事の記憶だから、たいした重要事項じゃないけどサ。集団や組織の記憶って大切だと思わない? 「去年のPTA会計関係ファイル、次期担当者に引き継がなきゃ」とか「1937年に帝国陸軍は中国で何してたっけ?」とか、要は責任問題が生じるわけよネ。そして当時は誰もが当たり前のように共有していた集合記録 collective memory でさえも、記録がなければ変化・消滅して行くんだよぉ。たとえば「板垣死すとも自由は死せず」ってフレーズ、みんな知ってるよね? じゃ、「杉野はいずこ、杉野はいずや」ってのは? たぶんほとんどの人が知らないよね。コレは日露戦争で戦死した広瀬武夫を顕彰する『広瀬中佐』っていう歌の歌詞なんだよね。広瀬は部下を救おうとして被弾死亡した美談の主として、軍神として神社が作られるほどの国民的ヒーローになったワケよ。そんで都内交通の要衝である万世橋駅前には明治43年から昭和22年の間、実に37年もの間台座を含め高さ10mを超える銅像が立っとったんよ。加えて文部省唱歌としても30年間くらい教えられたの。ンもう日本国民がほとんど知ってる、今のハチ公以上に有名な存在だったし、先のフレーズもみんな知ってた。知ってたけどその後の歴史が広瀬という帝国日本のヒーローを忘れさせ、自由民権の旗手、板垣は記憶させたンだよ。良イ悪イじゃないヨ。それほどまでに常識と呼ばれる記憶でさえ時の流れの中で変わってしまうって言いたいのサ。

★で、ICUの記憶つてヤツを考えてみませうよ。学生さん、卒業生さんたちはそれぞれ思い出がありますよね。そういう個人レベルの思い出もさることながら、大学全体の集合的記憶って考えてみたときにネ、大学って学校法人です。法人ってのは法により(本来なら人間しか持たない)権利と義務を付与された団体なんだよね。団体でありながら人格がある。身体はないが有機的集合体である。つまり大雑把に言ってICUという人である。じゃ、ICUという人の記憶はどこにあるんスか? そりゃもう、アーカイブズ以外にありえないでしょうってえことヨ。今の歴史資料室には現行の行政文書ほか資料を収集する組織アーカイブズの機能がない。歴史的な貴重資料の保存と展示が主たる業務。どちらかというと記念館や博物館に近い。アーカイブズがないって事は、つまり自らのアイデンティティの裏づけがないってことでしょ。いわばICUという「人」が記憶喪失状態って事じゃないですか。大学創立に至る苦難の道のりや、人生をかけて募金活動に驀進したファウンダーたちのストーリーにはホントに感動するよ。でも、歴史ってそれだけじゃないんでない? 大学運営のさまざまな意思決定の過程はもとより教学内容、キャンパス生活、文化活動、個別事由への対処内容、財務関係ほかの資料も含む広い範囲長期間にわたる記録が収集整理されていつでも利用できる環境がないといけないんじゃないスか。ショウケースの中の宝物を拝見するのではなく、資料が常に利用され、語られ、さらに再利用されるという「記録と人間のインタラクティブな場の継続」こそが歴史の本来のあり方なんじゃないスか。

★お宝としてではなく、記憶の真性を保証する証拠としての記録というコンセプトがなかなか理解してもらえないのはアーカイブズにとって大きな障壁だけど、もっと強敵が居るんだよね。たとえば火事洪水ほかの災害、生物的脅威のネズミさんや害虫とカビ、それから化学変化として酸性紙問題などなど。でも、目下最大の脅威はそれらじゃなくって情報の「デジタル化・オンライン化・クラウド化」なんス。1990年代にワープロ・PCが本格的に個人宅や事務の現場に導入されてから、それまで手書き・和文タイプで紙面上に作られていた文書がディスプレイ上で作成されるようになった。その後インターネットが発達して、メールでテキストや画像データを印刷せずにやり取りできるようになった。そしてクラウドサービスの発達により、多くの情報がオンライン上で作成、保存、閲覧されるようになった。これはアーカイブズにとって本当にユユシキ事態なり。

★みんなあんまり意識してないと思うけど、日本は「アーカイブズの重要性がこれほど軽視されている国はない」って言っていいような国なんだヨ。皇居北の丸にある国立公文書館の職員が50人に満たない(アメリカ公文書館は2,400人)、アーカイブズの専門職であるアーキビストを要請する大学院課程が数えるほどしかない(中国では全土3,000館以上の公立アーカイブズで働くアーキビスト養成のための大学院が30以上ある)。NHKの日本現代史ドキュメンタリーのネタの多くは米国公文書館で入手したものだし。国だけじゃなくって、自治体、企業、学校なんかのアリトアラユル団体活動において、記録こそが集合的記憶のよりどころとなるという思想が「乍残念」この国には根付いてないんデス。でそんなもんだから、アーカイブズの資料の多くは、チト情けない事だけど捨てられようとしていた文書が事情により救い出せたという僥倖の結果であることが多いのサ。

「部長、キャビネットが足りなくて、もう書類の保存スペースがないッス」
「えー、廊下にあるヤツも一杯になっちゃった?」
「ハイ」
「そっかー。思ったより早く一杯になったなあ…」
「古いところ、捨てちゃいますか」
「うーん、いや、それならアーカイブズが欲しがるかもネ、電話してみようか」

みたいな。でもこれは紙資料だから起こりうることで、最初から電子的に作られる情報は紙を介さずにやり取りされるから、救いようがないのよ。アーカイブズが口を挟もうにも何がどこで作られて保存されているかも見えないし、担当者の退職や異動、プロジェクトの終了、部局の分離合併なんかでもう記録がどこにどういうフォルダ・ファイル名で整理分類保存されているのか、みんな分からなくなっちゃう。

★最近ではクラウドサービスっていうこれまた厄介なヤツが出てきちゃって、みんなで共有したい情報はクラウド上にアップしちゃうもんだから、文書だけじゃなくて写真も録音も情報はモノとして存在しなくなっちゃったでしょ。これはなんていうか記憶のパラダイムシフトだよねェ。従来押し入れの中からアルバムやDVDを出してきて見ていた写真やビデオがどこからでもアクセスできるようになっちゃって、自分の子供のころの写真にいつでもアクセスできるなんて、こりゃもう「思い出」ではないんでないの? 写真に映った自分も含め、印画紙やアルバムが年取って色あせて朽ち果ててゆくのを確認することで過ぎ去った時間をいとおしむ、なんて切ない思いはなくなるんだねぇー♪(セカオワ風)。便利さと引き換えに感動が薄れた気がするのはくくのっちだけか? 古い写真やビデオが物理的にアーカイブズに寄贈されることもなくなっちゃうナンテ、くまっちゃうナ♥(山本リンダ風)。

★そんで、もうちょっと考えるとサ、クラウドにアップされた情報はみんなが自由にアクセスできるんだけど、その情報を発信したユーザに紐づいているよネ。てことは、ユーザが何らかの理由でアカウントを閉じれば情報が消え去るという流動的な情報の存在の仕方がスタンダードになっている。いまこの瞬間存在しているあらゆる種類の情報にアクセスはできても、100年あとには何も残らない。別にいいジャン。っていう極めて刹那的な世界観が構築されつつあるというワケ。でもその一方でオンジアザーヘンド、デジタル情報の蓄積場所であるメモリがほぼ無尽蔵のサイズになったことで情報を取捨選択して整理・廃棄する必要がなくなっちゃった。もうアルバムやキャビネットの収納能力なんか気にしなくてOK。情報量が野放図に無限にとどまることなく拡大していくとなると、行き着く先は世界規模のデジタル情報ゴミ屋敷か。くくのっちはイテモタッテモ居られない気になりますナ。なんてったってくくのっちを含め Yesterdayland の人たちの寿命は3,000年くらいあるからネ、100年足らずで「離籍」される一般ピープルのように将来に対して無責任でいられないのデス。

★思い出は、それが個人的記憶でも集合的記憶でもそのまま放っておくと必ず変性、減少、消滅します。世の中には自分の考えや歩んできた人生について、孫や曾孫にまで伝えたいとは思わない人がいます。

「いろいろ残したって、どうせ忘れられちゃうんだし」
「まあそうだけど」
「自分がそんな大した人間だとは思ってないし」
「まあそうかもしれないけど… いや、じゃフツーの人の記録には大した価値はないと?」
「ないでしょ」
「そうかなあ。でも、記録は記憶だし、記憶は人間そのものじゃない。それ言っちゃったら人生が無価値てことじゃん」
「そんな大した価値なんかないって、私の人生に」

みたいな人がいるが、間違っちょる。何か立派なことを成し遂げなくてもこの世の中に参加しただけでそれだけの価値は出ちゃうんデス。記録が残せればさらに価値も出る。たとえ一市民が綴り続けた日記であっても50年後、100年後には当時の生活、出来事や世相を知る重要な記録になるんだし。武田百合子の『富士日記』は文学的才能のなせる技ではあっても、内容は別荘での生活オンリー。読者はそれを読み込むことで当時の生活を肌感覚で追体験できるところがこの作品の価値の少なくない部分を占めてるのサ。だからみんなブログでも自撮りでもどんどん自分を残してネ。そしてちょっとでもアーカイブズに理解のある方は、ぜひクラウドじゃなくてHDDに保存してください。捨てるのはいつだってできます。捨てるかどうかは「離籍」する直前にご決断ください! アッリーヴェデルチ!(了)

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