先日、オンラインビジネスでトップを走るアマゾン社が、特定の出版者の出版物に関して書籍の全文が検索できるサービスを開始した。検索の結果、その書籍の2ページ分を読めるというオマケつきだ。しかも今までデジタル化されていなかった過去の膨大な出版物を本から文字認識スキャナでデジタルテキスト化しているという。まあ、技術的にはやれば出来る事だから驚くようなニュースではないのだけど、書店においてある本の中身まで検索できるようになった(しかも部分的にはタダで読める)事が新しい。インターネット元年と言われた1996年から7年ほどの間に発受信されるデジタル情報の量は飛躍的に伸びたが、ここ最近特に顕著なのは、各デジタル産業企業が今までのサービス内容の枠を越えたサービスを始める傾向だ。たとえばYahooなどのサーチエンジンはもともとはウェブ上の情報を検索するツールだったのが、いまや総合生活支援ページの様相を呈しているし、学術論文検索のためのオンラインデータベースも記事・論文の所在情報を調べるだけのツールだったのが、今は検索結果から出版社の該当論文のフルテキスト(全文)へのリンクを始めた。
このところICU図書館のトップページの構成を再検討しなければならないと感じている。OPAC・オンラインデータベース・リンク集という分類のメニューはもはや妥当でない。かつて新刊書は本屋に探しに行き、過去の出版物なら図書館へ行った。それもその図書館まで実際に足を運ばないと存在の確認さえできなかった。雑誌記事に至っては雑誌記事索引で(今考えると)気の遠くなるような手間と時間をかけて必要な記事・論文を探していた。さらに、本なら本、雑誌は雑誌、新聞は新聞と探すためのツールも違えば、置いてある場所もそれぞれに分れていた。不便な時代ではあったが、分り易い時代だった。「図書なのか雑誌なのか新聞なのか」「出版情報誌を探すのか図書館目録で探すのか」「学内にあるのか学外にあるのか・国内にあるのか海外にしかないのか」 これら情報の種別・情報の所在がはっきりと住み分けされていた事(または入手できる情報の量が少なかった事)が情報の把握を容易にしていた。
ところがインターネットは、情報の種別と所在の壁を破壊してありとあらゆる情報を混沌の中に叩き込んだ。我々に残された探索道具はサーチエンジンによるテキスト検索だけしかない。テキスト・イメージ・サウンド・ムービーを一度に扱えるのがマルチメディアなら、この状態はさしずめカオスメディアと呼んでもいいのではないだろうか。 Internet is multimedia, and is chaosmedia. 人間にとって、情報のカテゴライズ(分類)は認識・記憶に重要なプロセスだと思う。メディア種別・内容の聖俗・所在の遠近などによってあらかじめ情報がカテゴライズされていた状態で提供されていた頃には容易だった事が今はかえって困難になっている。全ての情報が等価値に投げ出された現在の状態は「リアル」(状態の真実)なのかもしれない。しかし、それと引き換えに人間は、このリアルな状態についていけるかどうかが問われているような気がする。
このような時代に情報探索法を教える事の難しさよ。「aにはBからでもCからでもたどり着けるが、やはりAから行くのが一番早いです」「ですが、bにはBからではなくAからC経由で行くのが一番早いです。cにはbからリンクされていますので、Cはあまり必要ありません」「しかもこれらの関係性がいつ変わるか分りません」みたいな説明をしなければならないのだ。「A→a」「B→b」「C→c」のように分り易く説明したくても出来ない世の中になったのである。図書館オリエンテーションで、オンラインデータベースの説明をしても「Googleで事足りてます」という意見をもらう事がある。それは、自分は「A→a」だけでいいと言っているのに等しい。ちょっと大げさかもしれないが、そういう人は、現実を見ること・現実に自分を晒すことを予め拒否することで、自分の可能性の中で満足を得ようとしている旧世代タイプの人間と言えよう。