「旅情」について考えた。旅情というと、旅や旅行という行為と不可分な感情と思われがちだが、突き詰めればそうとも言い切れない部分がある。いや、むしろ旅のないところにこそ本当の旅情があると言えるのではないか。以下拙稿。
まず旅や旅行の種類について考えてみた。「旅行」と一口に言っても目的や性質においてそのありようは様々だろう。敢えてこれを三種類に分類してみると、観光型・親睦型・放浪型となろうか。
観光型は風光明媚な場所や史跡・有名スポット・名物料理・行事を訪れる事を主たる目的とするものである。写真や本、ビデオで見聞きした名勝の現物本物に接したい、特産品や名物を購買飲食したいという、消費欲求の充足を目的とした経済活動と見ることができる。親睦型は道行を共にする者との親睦を深めるためのもの。いわゆる思い出作りである。家族旅行、社員旅行、結婚記念旅行、修学旅行(本来は修学が目的だが実態はご存知のとおり)など。常日頃生活や行動をともにしている者たち、あるいは懇意にしている者たちとの関係を場所を変えて再現する。俗に言えば、酒の席で飲み屋から飲み屋へと「河岸を変える」ことと大した相違はない。親に内緒で恋人と温泉へ行くのはこの種の旅の典型的パターンといえよう。観光型と親睦型は容易にオーバーラップする。むしろ全くオーバーラップしない方が珍しい。自分が前から行きたいと思っていた観光地に行くのだが、どうせなら家族全員で行ったほうが楽しい。または、友達同士で旅行に行く事が決まっているが、出来るだけ観光できるような場所に行きたいなど。だから、観光と親睦のどちらが主かによっていずれかのタイプと称しているだけである。
これに対し放浪型は他の二つの型からはかなり距離を置いている。足の向くまま気の向くままに行動する放浪型は基本的に一人旅であるので親睦型にはなりえない(たとえ二人旅またはそれ以上であっても、それはたまたま個々人が行動をともにしているだけで、いつまた別行動をとるかもしれない程度の連帯)。また、訪問地をいわゆる観光地に決めたからといって、元々そこにそれほどの思い込みはないので、有名な何かに接することによって得られる感動も期待していない。夏目漱石の『草枕』は、放浪型旅行へのオマージュ(讃歌)である。住みにくいこの世から逃避して非人情の桃源郷に分け入った主人公の体験が、色彩豊かに描き出される。「非人情」とは人間社会の利害関係を離れたところから自分とその周りの世界を見つめなおす所に発生する妙。ここにおいて初めて詩と音楽が生まれるとされる。
放浪型旅行の目的は何か?「自己変革への期待」「自身の限界への挑戦」「心のふるさと探し」「日常生活からの脱走」「社会的義務からの逃避」など。真の放浪は我々の生活基盤を危うくするものであるが、その危機を楽しみの範囲にコントロールすることで成り立っているのが放浪型旅行であるといえよう。しかし、「旅情」は未知の場所を訪れなければ得られないものではない。たとえば、かつて自分が住んでいた町を訪れる時に湧き上がってくる名状しがたい浮遊感。青空に沸きあがる入道雲の一点を見つめている時にやってくる自分が果てしなく小さくなってゆく錯覚。特定の場所を訪れなくとも「いまここ」という日常に置かれた肉体から無自覚のうちに精神だけが「いつかどこか」へと乖離する、白昼夢(覚醒型幽体離脱現象)にこそ純粋な意味での旅情が潜んでいるのではないか。
その本質を鋭く見出したのが梶井基次郎だ。視覚・聴覚ほか五感から得られた情報を、鋭敏かつ清冽な感性で一気に形而上へテレポートさせる手法は、トリップ系文学と呼称してもよい側面を持っている。彼の執筆活動は、一つにはある対象と個人の間で起こる感覚と感情の共鳴現象を文章化する挑戦だった。
自我と対象との一体化、自分も対象も全てが宇宙と歴史の中に溶け込む瞬間を切り取ってキャンバスに定着させる梶井文学の真骨頂がここにある。
例年になく暑い夏が山を越えて、金木犀の香りが町に漂いはじめた。毎年、この季節になって金木犀の香りを浴びると、自分の頭の中が初めて東京に来た頃に「フラッシュバック」する事がある(セプテンです)。そんな時、無性に旅に出たくなる。日常が窮屈に感じられて、逃避したいのか? いや人生これ遊びだった平安の貴族たちも、野辺の風景においた自らの身にさすらいの風情を感じているではないか。やはり放浪は本能、それも男性に顕著なものではないのかと思う今日この頃である。
『梶井基次郎全集』(筑摩書房 1999)[913.6/Ka22/1999]