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35歳までにやっておくこと 2009-02-03

元日に神社に参拝した。清められたような気がしたが、休み明けには煩悩ばかりの日常が待っていた。田舎で満たされなかった書店のハシゴを再開する。買うアテはないが入るアテが十分あってやめられない。これ煩悩のしからしむるところか。解脱を願うばかり。

さて、さる書店で、「アスペクトのPR誌 0円 2009-1月 特集:神頼みと読書」を入手した。出版人と書店員と読者がそれぞれのジンクスを披露した特集で、いくらかオチャラケ系なのはやむを得まい。 出版者のものでは、「『これは売れる!』と思うと売れない。『これは売れないだろうなー』と思うと、やっぱり売れない」が、シミジミと…笑えた。

書店からは、「返品したとたん、その本の在庫を聞かれる」、「しかし、聞かれるんじゃないかと警戒して返本しなかった本は、聞かれない」、「というわけで、売れてほしい本を一度、返品ダンボールに詰めてみたりする」の三部作に(…「書店マーフィー」とも呼ばれています)の一人ツッコミが絶妙。

だが、驚嘆したのは、ある読者の「35歳をすぎると、家に同じ本が出現する」だった。これを読んで黙って本棚を見に行ったのは、もちろん、このジンクスを我が眼で確かめるためである。

ちなみに、ある作品を、初出誌・単行書・全集などで所蔵しているのは、同じ本とはいいませんよね(文庫までは買わないけど、単行書と別バージョンだったりする場合は、当然購入している)。また、外国人著者の作品を様々な翻訳で持っているのも、同じ本ではないことにします。

なるほど、あったあった。2冊、3冊と並んでいるのが何タイトルか。ジンクスおそるべき。 一度お祓いをしてもらうことにしよう。で、以下はそのうちの、丸谷才一「梨のつぶて」について。

初版は1966年晶文社刊。最初に買ったのは学生時代で、1973年刊行の二刷だった。今は田舎の書棚に眠っている。そのずっと後、今から3年ほど前に、同じ二刷を古本で見つけて懐かしくなり購入した。さらにその1年後に初版を発見して、これも買い求めた。つまり、同じ本を3冊持っていて、2冊が手元にある訳だが、実はまったく同じではない。

まず表紙。初版はジャケット無しなのですぐ分かったが、白っぽくて、背文字は(以下、表記は断りのない限り縦書き。また文字の大小は略)「文芸評論集 梨のつぶて 丸谷才一 晶文社」。二刷の方は、グレーで、背には「梨のつぶて 丸谷才一文芸評論集 晶文社」とあり、その下に出版社の犀のマークが入っている。加えて、おもて表紙中央には枠入りで大きく[梨のつぶて]。その下に「丸谷才一文芸評論集」と続き、左下隅に犀のマーク、その右となりに、これは横書きで出版社名。

そして表題紙は、初版は背文字と同じで、ただし「梨のつぶて」のみ朱色。二刷は、おもて表紙同様に、枠付きの[梨のつぶて]で、「丸谷才一文芸評論集」とあってさらに「晶文社」犀のマークと続いている。

7年を閲すると変わるものよ、と奥付を見るに(ここも少しく違いがあるが、それは略して)装幀とブックデザインで異同があるが、担当は一貫して平野甲賀である。

こうなると、初版のジャケットが見たいところ。ひょっとして、と本棚の「丸谷才一 群像日本の作家25」に手を伸ばす。写真があった。なんと、黒っぽい箱入りだ。おもて上右に「文芸評論集」、中央に「梨のつぶて」、左に「丸谷才一」とあり、中央下に「晶文社」、と記されている。箱背の文字もこの順。刊行当時に吉田健一が読売新聞に寄せた書評の再録に付されている。そういえば、この人の本も箱入りが多い。小説「金沢」の箱が、青を基調に赤と緑をあしらってとりわけ見事だったのを思い出した。

さて、箱入りが4冊目となるかどうか。先のことは不明だが、大儀は我にあり。なんたって、35歳はとっくにすぎているし、田舎の家には1冊しか出現していませんからな。

よいこの皆さんはけっして真似をしないでください。しだいにお金も置き場もなくなります。時間と友達はすでにありません。家族親兄弟にも疎まれて、待っているのは処分売却散逸消失ばかり。正道を踏み外さないためには、どうぞ図書館に詣でることをお勧めいたします。

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