『ヨーロッパ退屈日記』(ポケット文春)です。笹公人(ささ・きみひと)という歌人が、もう一人と巻いた歌仙『連句遊戯』(白水社)のあとがきに、"角川春樹先生には、二〇〇八年の冬以降、俳句のご指導をいただいています"、"塚本邦雄先生は「百人の作家は百人とも処女歌集を憎むもの」という至言を吐いています"と書いている。で、もう一人というのは、まえがきで、"二〇〇三年のある日、『念力家族』という本が、著者から送られてきました。著者は笹公人という名の未知の人でした"という和田誠です。
解説対談篇で笹が、「和田さん、横尾さんたちの青春時代は『銀座界隈ドキドキの日々』(文春文庫)に詳しいです」と発言しているが、横尾さんとは横尾忠則。『銀座界隈ドキドキの日々』は、和田が武蔵野美術大学を卒業して、西銀座にあるデザイン会社ライト・パブリシティーに入社してからフリーになるまでの約9年間の思い出を綴った本なのだが、これが内容テンコ盛りでオソロシく面白い。例えば、和田と横尾が相知ったのは田中一光の紹介によるなど、人名索引があったならと思う人も多いだろう。しかし、読んでいるうちに、そんなことは忘れてしまうに違いありません。
で、この本に一回だけ名前が出て来るのが「イタミイチゾウ」です。伊丹十三といえばお分かりでしょう。(今回は、紹介する本の著者にたどり着くまでが長かった。"黄金餅"の志ん生なら、「あたいもくたびれた」と言うところですな)
なんでも、マイナスをプラスに替えるとかで改名したらしい。離婚した翌年の1967年ごろのことで、写真の2冊は"十三"になっているが、初版は1965年だから"一三"だったと思われる。
1967年の映画『日本春歌考』(DVD/778.21/O77)には伊丹一三で出ています。この映画、ICUのキャンパスで撮影した部分があり、14分30秒ころから約1分間、当時の本館やD館、図書館などを観ることができる。2年後に再婚する宮本信子も出演者の一人です。
第三エッセイ集『再び女たちよ!』(文藝春秋)の、ジャケットのおもて右下に佇むイラストの女性は宮本がモデル。裏の右上には黒猫の顔が描いてあるが、この本の「猫」の項に、伊丹の飼い猫が登場します。名前はコガネ丸で、"一九六五年に当歳であったから今年で七歳になるだろう"。
1979年の『女たちよ!男たちよ!こどもたちよ!』(文藝春秋)にはこう書いている。
「コガ(注:コガネ丸のこと)が死んだ。去年の秋のことである。…やってきた時は仔猫であった。以来十四年。コガは、私と前の妻が別れるのも見てきたし、別れたあと、私の女出入りが激しくなるのも眺めてきた。新しい家へ私と共に引っ越し、新しい女房を私と共に迎えた」。
立原正秋の「ながい午後」(『立原正秋全集』(913.6/Ta13)第7巻所収)は、"私と前の妻が別れる"までを題材にした小説です。主人公静江は、俳優でテレビ司会者の荻須達也と3年前に結婚した。静江の父浄明寺矩方は、欧州映画を輸入し、日本の映画をヨーロッパに紹介する会社を経営している。達也の亡父は著名な映画監督で、かつて、静江の父母とは面識があった。そして、「古典的な若い妻静江は俳優兼テレビ司会者の夫荻須達也のアプレゲール的ディレッタンティズムについていけなくなる」。(解題より)
静江は達也のことを、"あれもやりこれもやりして、ひとつとして、この人でなければ出来ない、というようなものを身につけておらず、まるで軸のない生きかたをしている"と見るようになっている。また、矩方は達也をこう評する。「彼は、いろいろな意味で、ヨーロッパというものを身につけてしまった」。その達也は終章で、すでに別の道を歩き始めた静江と偶会し、「俺に、ヨーロッパ旅行記を書かないか、というもの好きな出版社が出てきてね、…」と言い残す。
立原は、"談話の活字化においては日本一(注:ここまで傍点)の定評ある著者が昭和文壇を震駭せしめたる名筆記録"である、伊丹の著書『小説より奇なり』(文藝春秋)に登場する。キムチ作りのウンチクを披露しているのだが、この本が"文壇を震駭せしめたる"所以は別にあって、えーとその、いわゆる頭髪の不自由具合について、文壇の諸氏にインタビューし、その回答を、顔写真入りで連載しているのです。ピカイチは野坂昭如か(注:光っているのは回答ですゾ)。
第四弾なぞ"毛を捨てて天に則れ!!"と漱石もどきですが、それでも飽き足らず、第五弾は"成功せる職業婦人四人が語る(注:ここまで傍点)夫の脱毛(ハズのぬけげ)!!"。宮本信子が電話インタビューする3人の相手は、石立鉄男氏夫人吉村実子嬢、細川俊之氏夫人小川真由美嬢、そして、篠田正浩氏夫人岩下志麻嬢で、やはり3組とも顔写真入り。訊かれた各夫人の開口一番は、どれが誰かは言いませんが、「凄いワヨ」、「非道いねえ、其れ」、「宅は豊かだから(注:全部傍点)(笑)」でした。
上述した『女たちよ!男たちよ!こどもたちよ!』は、育児とは何か、が大きなテーマになっていて、第4部には岸田秀との対談を収録し、巻末の謝辞で、「わたしの育児論を岸田秀さんの唯幻論の光によって照らし出してみたものであり、私にとっての育児原論であるといえる」と述べています。伊丹はこの頃、岸田の『ものぐさ精神分析』(146/Ki57m)と出会い、共著(というよりは、"Lecture Books"というシリーズ名が示すように、対談による講義)『哺育器の中の大人』(146/Ki57h)を上梓していた。
岸田理論に傾倒した伊丹は1981年7月、毎号の表紙に"伊丹十三責任編集"と明記した精神分析月刊誌(?)『mon oncle』〈モノンクル=ボクのおじさん〉を創刊するに至る。版元は『哺育器の中の大人』と同じ朝日出版社でした。が、早くも半年後の12月号に、
"「内容とイレモノがあっていない」という無理が次第に強くなってきました。「モノンクル」は理論的な雑誌ですから、どうしても読む雑誌にならざるをえない。それをパラパラと見て楽しむためのイレモノにいれたのがどうも失敗であった。じっくり読みたい人とパラパラ見たい人と両方に異和感を与えてしまった。ヨシ、それでは思いきってイレモノを変えてみよう、というので次号から「モノンクル」は「読む雑誌」というイレモノの中で花を咲かせてみることにします。新しいイレモノ第一号のテーマは「笑い」 どうぞおたのしみに。"
という編集長からのお知らせを残して休刊することになった。岸田に言わせれば、「理由のひとつには、べらぼうに高い原稿料があったんじゃないかな」(『伊丹十三の本』(新潮社)より)ということです。
ご承知のように、伊丹は1997年師走に自殺しました。残された宮本は、5年後の命日に開いた「感謝の会」劈頭の挨拶中、「…私を残して一人でさっさと行ってしまって。本人が決めたことですから仕方がないですけれども、…」と述べているが、上に引用した岸田のインタビューには、伊丹に関する興味深い発言がある。
「決断する人ではあったけど、相談する人じゃなかった」
岸田はこの会に出席していただろうか。
『ヨーロッパ退屈日記』について? もういいでしょう。山口瞳が裏表紙につけた解説をお読みください。「あたいもくたびれた」。
おまけ:
冒頭に紹介した『連句遊戯』ですが、タイトルだけではもったいないので、その一部を。
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