『東京人』2007年12月号です。特集は「昭和30年代 テレビCMが見せた夢」。当時の映像写真満載の中、中野翠と鹿島茂が対談しています。
鹿島が言う。「ラジオから始まって、印象的なCMソングがたくさん生まれた時代ですよね。なかでも「明るいナショナル」(松下電器)「アスパラで生き抜こう」(田辺製薬)や「鉄人28号」のテーマなど、印象的な歌は、みんな三木鶏郎さんの作詞。…」。これらは、CD『三木鶏郎音楽作品集~トリロー・ソングス~』で聴くことができる。解説が伝える三木の経歴を簡単に紹介すると、
1914年1月生
1940年東京帝大法学部卒。軍務の傍ら、作曲を諸井三郎に師事
(マコトニオ・モンロイを自称した作曲家諸井誠は、三郎の次男です)
1951年日本初のCMソング「僕はアマチュアカメラマン」を発表
(CD収録のCMソングは他に「ワ・ワ・ワ・輪が三つ」、「ジンジン仁丹」、「くしゃみ3回ルル3錠」、「グリコアーモンドチョコレート」など)
1953年ディズニー映画「ダンボ」、「わんわん物語」の日本語版音楽監督
1960年以降、「トムとジェリー」、「ジャングル大帝」のテーマソング他
1994年10月没
ボーナストラックに「日曜娯楽版 冗談音楽」が収録されています。これは、昭和21年1月に始まり、GHQの一部局CIEの検閲に觝れて6ヶ月で打ち切られた「歌の新聞」の後身で、放送開始は昭和22年10月でした。鶏郎は「歌の新聞」に自ら売り込みに行き採用された。この時の音楽部副部長丸山鉄雄は、政治思想家丸山眞男の兄です。
新聞の売り子(って、私は知りませんよ、もちろん)の鈴が鳴り、「日曜娯楽版!にちようごらくばあん!」という三木のり平の呼び声で幕が開く。『放送80年:それはラジオからはじまった』(699.2/N77ha)に、左手に鈴を掲げてマイクに向かっているのり平の姿が載っています。特に人気があった「冗談音楽」コーナーのテーマソングは、「ロンドン橋落ちた」のメロディに、♪もしもし あのね あのね あのね これから始まる 冗談音楽 と歌詞を付けた替え歌でした。諷刺とユーモアで政治や世相を斬っていくスタイルで、鹿島茂「「冗談音楽」からCMソングへ」(『この人からはじまる』(新潮社)所収)によれば、"文字通り、日本で最高の人気番組となった"。
昭和22年1月、時の首相吉田茂は年頭の辞で、暗に労働組合を指して"不逞の輩"と発言した。組合側はこれに反発し、ゼネラル・ストライキの実施を宣言したが、最終的にGHQ最高司令官マッカーサーが出した中止令に屈した。これをからかったのが、
妻「あなた、新聞を見てごらんなさいな。汽車も止める、通信も止める、電車も止める、みんな止める。アラアラ、ストライキも止められちゃった」
以後、あたかも吉田茂内閣と足並みを揃えるかのような経過をたどることになるこの番組の歩みを、主に井上保『「日曜娯楽版」時代 ニッポン・ラジオ・デイズ』(699.69/In57n)を参考に見ていこう。(なお、以下のコントの中には、カットされたものもあります)
昭和23年10月 第二次吉田内閣成立
先生「今度の内閣の顔ぶれを、みんな言える人、手をあげて! はい、三木さん」
生徒「内閣総理大臣、吉田茂」
先生「はい、それから?」
生徒「その他、大ぜい」
昭和24年2月 第三次吉田内閣成立
声「一つ、政治家はユーモア諷刺のたぐいを断固排撃すべし。例えば冗談音楽のごときは耳にすべからず―」
昭和25年6月 第三次吉田第一次改造内閣成立
コント:評判探偵小説編『Yの悲劇』
A「このYというのは何者だろう?」
B「きっとヨシダさんのことさ」
昭和26年、マッカーサーは4月に帰米。5月に「日本人は12歳」と発言する。吉田はこれを擁護したが、「現住所・大磯、本籍地・ワシントン」とからかわれていた。
昭和27年4月、サンフランシスコ講和条約が発効し、占領が解かれる。
「あんまりけがらわしい国なので、近く日本から全軍撤退いたします。駐留軍総司令部」
GHQに引っかけて"Go Home Quickly!"なんて言い方もありました。
スタジオジブリ発行の『熱風 GHIBLI』2015年12月号は「麻生家の人々」を特集しています。麻生太郎の弟で麻生セメント社長の麻生泰が、インタビューに答えている。
「(吉田茂は)ケアンテリアという種類の犬の協会の会長をしていたけれど、名前をサンとフランとシスコと付けてましたね」
皮肉なことに、占領から解放されたとたん、束縛が始まった。"この番組に対する吉田自民党の敵意はなみなみならぬものがあった。「日曜娯楽版」は、社会風刺性を去勢され、「ユーモア劇場」と名前をかえて再出発することになる"(松田浩『ドキュメント 放送戦後史I』(699.21/Ma74h/v.1)より)。当時のことを鶏郎は、『昭和史探訪』第5巻(210.7/Sh972/v.5)でこう回想している。
「四月二十八日の講和発効で進駐軍もいなくなると、ここでわれわれの生殺与奪の権が日本の政府に返ってきたわけなんだ。いままでは中間にアメリカ軍が一つ入っていたから、「やめろ」というわけにはいかない。だけどこれからは、NHKというものがあるけれども、とにかく直通になるわけだよ。だってNHKは逓信省(注:当時の通信行政管轄省)の放送局だから」
同年6月15日、「ユーモア劇場」放送開始
「いよいよヤシダさんから鳩山さんに政権が引き渡されるという噂だねぇ」
この予想は当たらなかった。同年8月、吉田は「抜き打ち解散」を断行する。
「お答え致します。予の辞書には、総辞職という字は絶対にないのであります」
同年9月、吉田首相は、しつこく撮影するカメラマンにコップの水を浴びせる。
「まったくカメラマンは不愉快じゃ―ワンマン」
「こっちも不愉快です―カメラマン」
同年10月 第四次吉田内閣成立
党員A「吉田総裁、公約の件はいかが相成りましたでしょうか」
吉田「公約はワシの胸三寸にある。心配せんでよろしい」
党員A「それをうかがいまして安心しました。党員諸君、公約は総裁の胸三寸にあるとよ」
B「公約も三寸とは小さくなったもんだね」
C「だんだん小さくなるんだよ」
昭和28年2月、吉田の「バカヤロー」発言で衆議院解散
「バカヤローと言ったものの、ついにはあやまらなければならなかった首相の気持、よく分かりますよ。―亭主一同」
この時の実際の音源が残っている。質問に立ったのは社会党の西村栄一議員で、「何が無礼だ。質問しているのが何が無礼だ、君の言うことの方が無礼じゃないか。どこが無礼だ…」と、かなり興奮してます。机をやたらにドンドン叩く音もする。そして「何がバカヤローだ。何がバカヤローだ。委員長、バカヤローとは何だ…」となるのですが、肝心の発言は聞こえません。
同年5月 第5次吉田内閣成立
A「やはり最大党になったわけですが、政局を安定させる方針としては?」
B「な~に、最後の切り札は取ってある」
A「と申しますと?」
B「バカヤローじゃ」
A「第五次吉田内閣の次は何だろう」
B「第六次吉田内閣さ」
昭和29年1月、造船業界を巡る贈収賄事件「造船疑獄」で逮捕者が出る。自由党幹事長佐藤栄作(のち首相)にも逮捕の手が及んだが、犬養法相は4月、「指揮権発動」によってこれに待ったをかけ、その翌日辞任した。
A「飼犬さんが辞めたネェ」
B「えっ、誰だって?」
A「法務大臣だよ」
B「バカ、名前がさかさまだ」
「黒いサトウにいろいろ加工すれば、白ザトウができる」自由セイトウ株式会社
同年3月、塚田郵政相が記者会見で、「最近のNHKの放送は「国会と政府をからかっている」という意見が閣僚間の話でよく出る。…」と述べる。
A「政府をからかっているなんて、とんでもない」
B「政府にからかわれているようなものです。―ユーモア劇場」
猪瀬直樹は『欲望のメディア』(081.8/In56/v.7)に、こう書いている。「NHKラジオの『日曜娯楽版』は国民的番組に成長し、聴取率が八十パーセント近いこともあった。したがってその風刺コントの対象とされた政府はNHKに圧力をかけた。昭和二十七年六月、『日曜娯楽版』はNHKの自主規制路線で『ユーモア劇場』へ衣替えとなった。その『ユーモア劇場』も無事ではすまない」
昭和29年5月30日、「ニワトリ頑張れ、スープになるな」などの声援も空しく、『ユーモア劇場』終了決定。6月13日が最終回となった。
同年8月、文化放送で「みんなでやろう冗談音楽」始まる。スポンサーは文藝春秋。
同年12月、第5次吉田内閣総辞職
「みなさま、ただいま吉田内閣総辞職のニュースが入ってきました。長い間待ちに待った瞬間です。万々歳です。法相の指揮権発動以来続けてきたこの番組の意地も通りました。大団円です。というわけで、私はここにこの番組『みんなでやろう冗談音楽』の終了を宣言いたします」(武田徹『NHK問題』(699.21/Ta59n)より)
昭和30年1月、文藝春秋緊急増刊『戦後最大の政變』刊行される。鶏郎は「吉田さんよ有難う」なる一文を寄せた。
鹿島茂は、「いまにして思えば、「日曜娯楽版」は、GHQという超越的権力のもとに咲いた非日本的笑いの徒花だったのである」(『この人からはじまる』より)と総括しますが、川﨑泰資『NHKと政治』(朝日文庫)は第4章の一部を「消された冗談音楽」に割き、武田徹『NHK問題』は第3章全部を「三木鶏郎と諷刺のワナ」に充てている。
昭和36年、鶏郎はCMソングの功績を認められて民放賞を受賞した。
「しかしNHKであれほどヒットした「冗談音楽」では賞ひとつ貰った覚えはなく、しかもNHKの歴史から抹殺されているのとくらべると、片手間に書いたCMソングがこんな華々しい受賞をするとは、何とも皮肉なことだと感じました。世の中とはこんなものかも知れません」(『私の愛する糖尿病』(ちくま文庫)より)
長々と書きましたが、過去の話で片付けるつもりはありません。"電波停止"なんて声も聞こえる今、改めて「日曜娯楽版」昭和24年のコントをご紹介します。
"………
一つ国政は国民に由来する。
………
一つ戦争はもうこりごりだ。
………
一つ思想と良心は自由である。
以上は憲法ダイジェスト。時々読み直さないと忘れちゃいそうだ、今の世の中では。"(M)
注:タイトルは三木鶏郎のポリシーでした。
おまけ:吉田茂 警視庁捜査1課の警部補。海渡英祐の短篇『動きまわる死体(ホトケ)』(1971発表)に初登場。実在したワンマンで知られる首相とおなじ名前だが、そのイメージをカリカチュアライズしたユーモア本格推理の探偵役。頑固そうな面構え、無愛想、皮肉屋、新聞記者嫌い、捕物帳好きといったところは共通している。…(権田萬治、新保博久監修『日本ミステリー事典』(080.1/Sh/G63n)より)