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野崎歓『翻訳教育』(810.7/N98)に「閉店のお知らせ」という一文があります。"つい先日、東京で古くから馴染みのあった一軒の書店が営業を停止した"というのです。それは"フランスで出た本のうち、文学関係を中心に哲学や映画や美術、そして世界文学の仏訳書まで、最新刊の情報をジャンルごとにリストアップしたコンパクトな"カタログを毎月、無料で送ってくれる素晴らしい書店なのでした。
実際には営業中止ではなく、店頭販売を中止し、カタログ「LIVRES DE FRANCE(リーヴル・ド・フランス)」はウェブサイトで提供するというお知らせだったのだが、長年このカタログを入浴の友にしていた野崎は衝撃を受け、"バスタブの中で仁王立ちになってしまうほどだった"という。
「コランはおめかしを終えるところだった。風呂からあがってパイル地の大きめのタオルに身を包み、そこから両脚と上半身だけがはみ出ている」
野崎訳のボリス・ヴィアン『うたかたの日々』(b/953/V663eJ)第1章の書き出しです。野崎よりちょっとだけお行儀がいいコランは物語の主人公。彼は、"とても長い黒の口ひげを生やし、体はグレーでほっそりとしていて、びっくりするほど光沢(つや)が"あるハツカネズミを撫でてやります。先へ行くと分かりますが、このネズミは人語を解する。それからコランは、新しく雇ったコックのニコラと話をします。そのうちに、友人のシックがやって来る。
伊東守男訳『うたかたの日々』(『ボリス・ヴィアン全集』(953/V663J)第3巻)のハヤカワepi文庫版解説に、"登場する人数は最小限に抑えられている。コランとクロエ、シックとアリーズ、ニコラとイジス。三組の若いカップル以外に重要な役目を果たすと言えば、あとはハツカネズミくらいなもの"と小川洋子が書いていますから、これで役者の半分が揃ったことになります。
クロエとはデューク・エリントンのレパートリー曲名ですが、耳にする機会は多くない。同じエリントンの曲で『うたかたの日々』の英訳タイトルに借用された"Mood Indigo"の方が、よく知られていると思います。エリントンはまた、まえがきにも引用されていますが、"ニューオーリンズの音楽、つまりデューク・エリントンの音楽"というのはどうも…。伊東訳では"ニュー・オルリンズかデューク・エリントンの音楽"となっていて、これなら分かる。『ボリス・ヴィアン全集』第3巻裏表紙には、ヴィアンとエリントンの写った写真が使われています。
『うたかたの日々』という書名について、野崎は訳者あとがきに"表題は、伊東守男訳の題をそのまま継承させていただくことにした。日本語として、これ以上ぴったりの表現は思いつかなかった"と説明しているが、実は『方丈記』のせいじゃないだろうか。
「ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし…」
鴨長明による引き締まった書き出しは、日本人が共通に知るところ。きっと、意識の底に沈んでいたはずです。野崎と伊東に先行する曾根元吉訳の表題は『日々の泡(あわ)』(新潮社)です。ずいぶんとイメージが違いますが、これも捨てがたい。シモーヌ・ド・ボーヴォワールの日記には、『日々のあぶく』として出てきます。
今さらですが、ボーヴォワールはフランスの作家、哲学者。同じく作家で哲学者のジャン=ポール・サルトルと「契約結婚」関係にあったことでも知られています。『うたかたの日々』でシックはコランに言う。
「…。ぼくは…ジャン=ソール・パルトル以外はあんまり読まないんでね」
シックはそれから、アリーズという姪がいるかとニコラに尋ね、「はい、おります」と答えるのを聞いたコランが「ぼくらはみんな身内も同然ですね。…」と引き取って、テーブルに着くよう促すところで第1章は終わるのですが、この章についてもう少し。
コランには働かずとも不自由しないほどの財産がありますが、シックはそうではない。"一週間おきに官庁に出かけて伯父に会い、お金を借りなければならなかった"。この部分、他の訳では週に一度だったり、叔父だったりします。
また、ニコラが様々な調理器具に繋がっている計器盤を見守っている場面がある。電気オーブンはローストターキー用に設定してあって、"メーターの針は「あと少し」と「ちょうどよし」のあいだを揺れていた"。伊東訳のメーター表示は「大体焼けた」と「具合よく焼けた」です。私のお気に入りは曾根訳で、「ほぼよろし」と「ちょうどよろし」。
それぞれの音符に酒やリキュールや香料を対応させ、高音域でトリルを弾くとソーダ水、ペダルを踏めば水や泡立てた卵が出て、演奏するとカクテルが出来上がる「カクテルピアノ」(伊東訳だけはピアノカクテルです)は、ジャズに造詣が深かったヴィアンの皮肉か。野崎の訳注には出て来ませんが、この言葉は、バーラウンジ等でカクテルを飲みながら聴くのに相応しい、甘口のピアノ演奏を指します。ジャズファンの間では見下した表現として使われており、決して褒め言葉ではありません。
カクテルピアノはどんな格好をしているのか。実は写真がある。1968年にフランスで映画化した時のものが、『WAVE』(WAVE)第36号に大きく掲載されています。また、「パリのジャズ物語り」を特集した『STUDIO VOICE』(インファス)1994年10月号は、この映画の小さいスチルを何枚も使用していて、いろいろな場面を見ることができる。
さらに、同誌で川勝正幸と対談している岡崎京子も、2003年に出した漫画版『うたかたの日々』(宝島社)の第1話にカクテルピアノを描いています。対談には岡崎の写真が添えてあります。
彼女はその2年足らず後の1996年5月に自動車にはねられて瀕死の重傷を負い、未だにリハビリを続けている。2015年に開催された「岡崎京子展」の図録『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』(平凡社)には、見開き一面に大きく「ありがとう、みんな。岡崎京子」と12文字のメッセージを寄せた。本人が自由のきかない身で、特別なコンピュータを視覚操作(!)して書き上げたものだと知れば、写真に写った笑顔を見る誰もが、複雑な思いにかられることだろう。
荒俣宏は伊東訳の解説に"『うたかたの日々』を指して「現代の恋愛小説中もっとも悲痛な作品である」と言ったのは、たしかレイモン・クノーだった"と述べています。全部で68の短い章からなるこの物語で、シックはパルトルへの傾倒がもとで、アリーズ共々悲惨な死を遂げる。クロエは肺に睡蓮が生える病気にかかり、「患者のまわりにはいつでも花を絶やしてはならない」という医者の言い付けを守るためにコランは花を買い続け、経済的に追い詰められていく。カクテルピアノも、骨董店主の言い値より安く手放してしまった。
先にちょっと触れた日記に、ボーヴォワールはこう書いている。
"スイス公使館で二時間待たされる。でも私はヴィアンの『日々のあぶく』を読んでいたので、この二時間は早く過ぎた。私はこの小説がたいへん気に入った。とくに肺の中に水蓮(注:睡蓮です)を咲かせて死ぬクロエの悲しい物語が好きだ。…最後の二頁は胸をしめつけられるようだ。…"(『或る戦後 上』(953/B315XJ/v.3-1)より)
ボーヴォワールの言う"最後の二頁"を含む最終章ではまず、クロエを亡くしたコランは岸辺にいて、時間になるたび板を渡って行き、真ん中で立ち止まっては水中を覗き込んでいます。何のためか。ハツカネズミは猫に説明する。
野崎訳「あの人は睡蓮が水面まできて自分を殺してくれるのを待っているの」
伊東訳「…相手が水面にのぼってくるのを殺そうと待っていたんだ」
曾根訳「…睡蓮をやっつけようとして浮かんでくるのを待っているのよ」
ハツカネズミは、コランの胸中を慮って、さらに言います。
野崎訳「心が痛いのよ。それがあたしには耐えられないの」
伊東訳「彼は不幸なんていうものじゃない。苦しくてしょうがないんだよ。おれにはそれが我慢できないんだ」
曾根訳「彼には苦しみがある、そのことがわたしには耐えきれないのよ」
ハツカネズミはこのあと、猫に自殺幇助を持ちかけます。自分は頭を猫の口の中に入れる(首筋に猫の犬歯!)。猫は尻尾を歩道に長く伸ばす。そして誰かがそれを踏んづけてくれるのを待つ、という算段です。猫はハツカネズミの説得を受け入れる。そして最後の一行、"使徒ジュール孤児院の盲目の少女たち十一人が、歌を歌いながら近づいてきた"。
『翻訳教育』に戻ります。"翻訳の第一稿を作る作業の最後まできたとき、その名場面に心ふるわせ、目に涙がにじむのを覚え、惨酷な甘美さに陶酔しながら、ぼくはふと我に返った"。上の台詞で気づいた方もあると思います。"このハツカネズミの性別はいったいどっちなんだ?"。
曾根訳は1970年刊で女の子、伊東訳は1979年刊で男の子だった。岡崎京子の漫画は伊東訳に拠っているので男の子。フランス語では女性名詞だが、実際にはオスメスがある。現にミッキーマウスは…。ああ、誰か鼠の雌雄を知らんや!
ここで野崎は、翻訳を"多少のミスタッチがあってもハーモニーにさえ狂いがなければ、きっといい味にしあがるのだという"カクテルピアノになぞらえます。翻訳家は、"原作という音符への忠誠を誓いながら、とにかく美味なるハーモニーを心がけるのである"とも。
とすれば、私たちの前には三者三様のカクテルが出されている訳です。どれに(まず)手を伸ばすかは、あなた次第。
(M)
おまけ:
第40章で、クロエはコランとニコラに症状を訴えます。「あれが動くとき、とっても痛いのよ!!!」。訳者の野崎は「可哀想なクロエ、感嘆符が三個もつく痛みだなんて」と同情する。確かに、原文(953/V663/v.1)にも三個ついてます。相当なんでしょう。でも、他のモノで四個ついている例もあるんです、疑問符だけど。
それは、あるソプラノ歌手のCDタイトルで "The Glory (????) of the Human Voice"(邦題「人間の声の栄光????」)です。歌手の名前はフローレンス・フォスター・ジェンキンス。知ったのは学生時代のことでした。FMラジオで『魔笛』の「夜の女王のアリア」を聴いてビックリ仰天! 笑うのも忘れてしまうほど驚いた。とてつもないオンチなんです。『ドソプラノの栄光』というタイトルのCDも出ています。
手元にある輸入盤"Murder on the High Cs"の解説にはthe so-called Diva of Dinと書かれているこの女性歌手、1944年にはカーネギー・ホールでリサイタルを敢行しました。昨年、彼女をモデルにした映画『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』が公開されています。以下、パンフレットから。
若い時、声楽家を目指していたが父親の猛反対に遭う。遺産相続が重なる。当代随一の名ソプラノであるリリー・ポンスの歌を聴いて、往時の夢が揺り起こされます。レッスン開始。専属のピアニストも雇う。身内のコンサートを重ねるうち、カーネギー・ホールでのリサイタルを強く望むようになった。1944年10月25日のリサイタルのチケットは2時間で完売したそうです。客席にはリリー・ポンスや、有名な作詞・作曲家コール・ポーター等の姿もあった。
映画の主役のメリル・ストリープは、"一年かけてオペラの発声法を習い、そこから音をはずす練習を重ねたという"。幕開きでは、天使の羽を付けてワイヤーに吊られ"ずりずりと降りて"来ます。仕事とはいえタイヘン。本人曰く、
「「夜の女王のアリア」を週に2回以上オペラで歌う人なんていないわ。…私はそれを、1日に8回歌って、翌日にまたそれを歌って、それからもう2曲歌ったのよ」
マダム・フローレンスの笑撃の偉業は今も、カーネギーのアーカイブの1番人気だそう。"The Glory (????) of the Human Voice"はデヴィッド・ボウイが"生涯愛した名盤"とも伝わっています。ホールのステージに立った時、フローレンスは既に、病魔に侵されていた。1ヶ月後の11月26日、彼女は天に召されます。夫人は今、天使の歌声を聴いているのでしょうか、それとも、天使が歌声を聴いているのでしょうか?
"Murder on the High Cs"の解説はこう締め括られています。"Enjoy"