? コラム M氏の深い世界 20190322:国際基督教大学図書館 ヘッダーをスキップ

風博士と共に去りぬ 2019-03-22

“ちまちまとした住宅街を抜けていくと、武蔵野の郊外の無秩序な高低をもった台地を占めて、キリスト教系のK大学の広大なキャンパスが広がっている。これといった特徴はないが外国人留学生の多い、ちょっと気取った大学として知られており、いかにもその種の学校らしく、よく手入れのゆきとどいた芝生をはさんで白い瀟洒な建物が並んでいる。”

総合誌や文芸誌に、ページの端の縦三分の一を割いて、本の広告が出ていることがあります(タテ1/3Pというらしい)。特に珍しくもないのですが、あれが単行本のページに載っているとなると話は別、見た人は少ないのではないか。池内紀『M博士 往来の思想』(青土社)26ページに実例があります。挿絵入りで「隠遁して古書店に糧を求める老学者M博士と現役学者の私とが、日常出会うささやかな事柄をきっかけに語り合う平易な思想。……」。『M博士』の広告です。四六判変型上製定価一六〇〇円。

東京の郊外、駅前の商店街が途絶える手前にある私鉄の踏切のかたわらに〈古書売買**書房〉がある。『古書店ガイド・マップ』には店の特徴として「歴史書、民俗学、文学(特に戦前物)多し。」と書いてあるそうです。店主は自分からは言いませんが、「私はふと目の高さの棚にある何冊かの本に気がついた。うすれかかった金文字の著者の名前は、この古書店の店主の前歴を伝えるものにちがいなかった」。M博士なる呼称はこれに由来します。「私」は博士の店で、デュ・ボア・レーモンの『宇宙の七つの謎』(b/401/D933uJ)やブレンターノの『天才・悪』(b/134.932/B725gJ)とかの拾いものをしたと書く。

冒頭の一節は、現役学者の「私」がM博士と誘い合わせて講演を聞きに行ったときのものです。大学本館わきの細い砂利道の向こうにある小ホールで、1900年(晩年)のオスカー・ワイルドについての話を聞いた。しかし、博士の関心は青年期のワイルドが肌身離さず携えていたステッキにあって、古代ギリシアのゼウスの笏から説き起こしてフックスの『風俗史』や映画『ムーラン・ルージュ』などに現れるステッキに至り、その頃のステッキは持ち主の趣味のほどを示す工芸品であって、身体を支えるものではなかったと、『白鯨』(b/A933/Me37mJy)のエイハブ船長にも言及して考察する。そして、一次大戦の後、ステッキは鞄に取って代わられた。さらに今、自動車の銘柄やカメラ、ハンドバッグなどに姿を変えたようだが、これらは芸術化しないだろうとM博士は結論づけます。「ひたすら現実の効用に忠実で、目的にがんじがらめに縛られており、無用の用の転換を知らない」。
あるいは、ソクラテスを長々と論じたあと、その彫像がドストエフスキーに似ていると、話題はこのロシアの作家に移っていく。万事がこんな調子で、ただの古書店主じゃないのは分かりますが、どうもアカデミック。サブタイトル「往来の思想」の往来って、道路や通りのことだと思っている不肖Mは、古書店ではなく古本屋向きにできております。で、ある通りで行き当ったのが、作・久住昌之、画・久住卓也の兄弟ユニットQ.B.B.による『古本屋台』(集英社)。

ヒゲを生やし中折れ帽をかぶった主人公が、「夜ふけになるとどこからともなく現れる幻のような古本屋台。白波お湯割り一杯100円。おひとり様一杯限り。珍本奇本あり?」に通う、見開き2ページの連作漫画です。毎回、作者名Q.B.B.をネタにした文言が記してあって、例えば〈休肝日・ビール飲んでる・バチ当たり〉。主人公はおしまいの方で二度ほど、丸いメガネをかけています。不肖Mにチョッと似てなくもない。10年前のパスポートの写真を見て、やっぱり少し若いなと感慨にふけり、「10年後……62歳!あっという間に?ヒイ~ッ」と思わず現実に戻る、そんな人物です。(どんな?)

なんで屋台で古本を売る?あんな重いの。存在自体がミステリーだ、と主人公は首をひねりますが、しばらく見かけないと思ったら、奇特な人にトラックで浅間高原まで運んでもらって、木陰で午後いっぱい二週間営業してたり、電動アシスト付きの新車(?)になったりする。新車が坂道をスルスルスルと上る姿に、主人公は大喜びで「あと30年はできますね?」と口走り、屋台のオヤジに「ばかいいなさんな!」といなされます。オヤジの詳細は不明。ちょいヘタだがバイオリンで「埴生の宿」や「故郷の空」を弾く。若い時分にすこーし役者をやってたとは本人の弁。娘さんが二人いるらしいというのは、屋台の常連オカザキ氏が同じく常連のギョラちゃんから仕入れた情報です。

オカザキ氏とは、本や読書についての本をたくさん書いている岡崎武志です。『蔵書の苦しみ』(光文社新書)は、〈2万冊超の本に苦しみ続けている著者が、格闘の果てに至った蔵書の理想とは?〉を全十四話に綴っています。それぞれ教訓付きですが、第四話「本棚が書斎を堕落させる」の教訓「本棚は書斎を堕落させる。必要な本がすぐ手の届くところにあるのが理想」はまあそうかなと思いますが、第十一話「男は集める生き物」の「実生活とコレクターシップを両立させるためには規則正しい生活をすべし。家族の理解も得られる」には、そうかぁ?と疑問を禁じ得ない。
第十四話「蔵書処分の最終手段」には、「三鷹「上々堂」に貸し棚」を設けて蔵書を売ったと書いてあります。この店は、三鷹駅南口の商店街をずうっと行った右側に今も店を構えていますが、たしかに以前、入って右奥に、柱に隠れるように岡崎棚がありました。
ギョラちゃんは荻原魚雷。これは調べて分かりました。やはり読書関係の著作が多いようですが、手許にあったのは彼が編集・解説を担当した梅崎春生『怠惰の美徳』(中公文庫)のみ。タイトルに魅かれて買ったのですが、表題作で梅崎は、来世に人間以外の何かに生まれ変わるなら、動物なら貝類、植物なら蘚苔類、そして鉱物なら深山の滝に生まれ変わりたいと言う。とりわけ「私は滝になりたい」のである。ギョラちゃんは解説に書く。「欲は人を作る。世にいう怠け者は、怠けることに貪欲な人といってもいい」。話ガ逸レテシマッタ。

『古本屋台』の主人公(名前のないのが不便デス)は、ギョラちゃんから「工事のため、屋台は一本裏道に出ておりまする」とメールが来ると「情報感謝!行きます?もーオジサン行ったり来たり!」と電車を乗ったり降りたり。「雪の屋台もオツです」との着信には「行く?断固行きます?」と駆け出して「うわーやってるやってる!もはや拙者小走り?」。
フトンに入っているのに、「屋台、西口に出ているとの情報がありました」と知らされ、パジャマからまた着替えて中折れ帽をかぶり、オレはバカだろうか?バカだろう。バカかしら?と自問自答しながら自転車でシャーッと屋台に向かったりもする。「わーやってるう!古本提灯がまっ赤に灯っております?」。(家人から「なにしてるの?」「あまり飲みすぎないでね」の声あり。奥さんか母親か。家族の理解が得られているようで何より)

話に出て来る本はさまざまです。M博士が話題にしたドストエフスキー『罪と罰』を大島弓子が漫画化した『ロジオン ロマーヌイチ ラスコーリニコフ』、常連らしき女性ウザキさんに差し出したのは『おやすみなさいおつきさま』の原書“GOODNIGHT MOON”、早朝の閉店間際に、ジョギング中の作家重松清本人が買って走り去っていく『クリちゃん』。浩宮様(123ページに似顔絵あり。微妙)が最初に買った本も出てくる。話の中で扱われている本については、巻末の「登場文献一覧」で詳細を知ることができます。

オカザキ氏は言います。「電子書籍も良し悪しですな」。ハナっから電子書籍で出すと「古本」になりようがないと。古本好きの思いが伝わってきませんか。また別の日にはこう口にする。「本は捨てられませんわ」。主人公は引っ越しで段ボール4箱分処分したと明かす。若い頃ほとんど見栄で買った本で、例えば『澁澤龍彦全集』アハハわかるぅ、ブルトンの『ナジャ』そうそうそうそう、トリュフォー『ヒッチコック映画術』え、あれは読み返すでしょう、云々と話してばかりの二人は、オヤジから「あんたらたまにはウチでドンと買うかイイ本持って来てくれる?」と突っ込まれるのですが、実はオカザキ氏、2011年秋に身を削るような思いで蔵書を処分した。『蔵書の苦しみ』はその産物であります。

第二話「蔵書は健全で賢明でなければならない」の教訓は「自分のその時点での鮮度を失った本は、一度手放すべし」。男性版コンマリか。手に取ってときめくモノだけ残すことを説いた近藤麻理恵のベストセラー『人生がときめく片づけの魔法』(597.5/Ko73j)は、いつか読むつもりの本はいつまでも読まない、出合ったその瞬間が読むべき「時」なのですとアドバイスする。『人生がときめく片づけの魔法』そのものですらときめかなければ迷わず捨ててほしいとまで書く近藤が所有する本は、常時30冊くらいに収まっているそうです(!)。『蔵書の苦しみ』第十話では「理想は五百冊」。その教訓は「三度、四度と読み返せる本を一冊でも多く持っている人が真の読書家」だとか。
ベルクソンは「美しいのは、奪われることでも捨てることでもなく、失うことを気にしないことである」と言ったらしい。けれども、本を奪われたり捨てたり失ったりすることなど、『古本屋台』の登場人物たちにとっては以ての外でありましょう。50ページに掲載されているQ.B.B.のもじりは〈急に・ベルクソンを・ぶっとばしたくなった〉です。

M博士は、本を読むと生きていく上で必要な知恵なり知識なりが身につくのでしょうかと問い、「古本屋稼業として自信をもって言えますが」と前置きして、少しでも実用に堪えるのはせいぜい食生活と性生活に関することにとどまる、と述べ、ではなぜ人は本を読むのか?と続けて、読書がその人に欠けているものを補ってくれるからではないか、と考えます。「かつては何を読んでいるかによって人となりがわかったものですが、……現代は何を読んでいるかによって、その人に欠乏しているものがよくわかる」と。

なるほど、多く読む人は何かが大きく欠けているのですね。認めたくはないけど、そうかも知れません。でもまあ、役に立たない本ばかり読んできたと自分では思っていましたが、考えてみれば、これまでのコラムは皆、ムダな読書から生まれたものばかり。その意味では、M博士の言うところとは違うけれども実用に堪えた訳です。ムダじゃなかったことを喜びたい。 (M)

終わりに: 「私」の足が二ヶ月あまり遠のいているうちに、M博士はさびしい葬式を出した後、建物一切を売り払って失踪していました。「私」の脳裏をある小説の一節がかすめます。坂口安吾の「風博士」(『桜の森の満開の下・白痴 他十二篇』(b/913.6/Sa28sa)所収)です。物語の終わり近く、博士の姿は突然消え失せる。
「諸君、偉大なる博士は風となったのである。果たして風となったか? 然り、風となったのである。何となればその姿が消え失せたではないか。姿見えざるは之即ち風である乎? 然り、之即ち風である。……」

文庫で10ページのこの短篇は、解説によれば「満二十四歳の時、同人誌に発表したファルス「風博士」が大いに話題を呼んで、一足飛びに文壇の仲間入りを果たした」というもの。安吾にとってファルスとは「凡そ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャムニャであれ、何から何まで肯定しようとするものである」(「FARCEについて」(『全集第1巻』所収))のだそうですが、そんなに構えずとも、この作品はただただナンセンスで可笑しい。不肖Mのお気に入りです。3月15日付『朝日新聞』の天声人語に、「風博士」は笑えるのだ、との文言を見つけて意を強くした次第。

さて、不肖MはM博士同様、風博士にあおられて姿を消すことになりました。これまでのご愛読に心より感謝いたします。なお、2014年6月3日から2015年4月24日までの「同じ本が2冊」と2015年7月21日から2017年4月15日までの「古い雑誌から」の二つのシリーズは、『M氏の深い世界』(020.4/Mi71)に収録いたしました。こちらも(もう一度)お楽しみいただければ幸いです。

<< 前のコラム |