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注1

長女ノブが日永初太郎氏と結婚するに際して与えられたもの。「東京角筈に於て父内村鑑三より別れにのぞんでこれを書き与えられる 昭和三十八年十月十三日 日永ノブ」という箱書きがあるが、これはノブ夫人自身の筆によるものである。本文庫に寄贈されるまでは、額に入れて居室に掲げて朝夕心の糧とされていた。

注2

大正10年の揮毫。「内村鑑三先生が新潟県大鹿の愛弟子木村孝三郎氏に書き与えられ、木村氏令嬢ムツ子姉が関口友吉氏に贈られたものを関口氏が政池を通して本文庫に寄贈された 政池仁 記」という箱書きがある。関口氏は北海道美唄炭鉱で労働に従事しており、帰潟の際に贈与されたのだった。

注3

アマスト大学在学中のノートで、一字一句の抹消もなく、その勉学態度をしのぶにたるといえよう。

注4

アマスト大学在学中の学課成績品の一つと推定される。いずれにも J. K. Uchimura の署名がある。関矢貞吉の所蔵であったが、斎藤宗次郎を通じて本文庫に寄贈された。由来書き(斎藤宗次郎)がある。

注5

美濃白紙に毛筆で書かれている。

注6

原稿用紙にペン書きされたものを主とする。

注7

以下の資料を含む。 「米国の排日問題に対する意見」(対米協議会委員会に提出して採択されなかったもの)「無教会に関する意見」(生前未発表、「内村鑑三追憶文集」1931、に収録)「大宗教家」(生前未発表)「カルビン主義」(生前未発表)「パウロ」(生前未発表)「神の人」(未発表と推定)「聖書之研究354号編集要項」「石原兵永氏の協力に対する覚書き」書簡草稿(住谷天来 寺尾熊三 長尾半平 星野喜助 佐伯民子宛)「若き伝道師に告ぐ」(牧野実枝冶宛 複製)付「内村鑑三先生の思い出」(牧野実枝冶「聖書の日本」1962年9月号掲載)「聖書研究集会メモその他」「山本泰次郎・中島活子結婚式司式の辞」

注8

1992年に本図書館が古書店から入手した。

注9

長女ノブ、日永初太郎宛の書簡を主とするが、ほかに浅田ヨネ(義母)宛で「アメリカ国経由イギリス国行」の決意を伝えた注目すべき葉書がある。また浅田信芳(義兄)宛の書簡などを含む。

注10

布施常松宛書簡を主とする。同氏はメキシコにおける日本人移民による開拓事業の功労者で、内村鑑三は同氏に対して変らぬ激励を送っていた。収めた書簡は、同氏女婿竹村四郎氏(在メキシコ)の寄贈による。

注11

太田十三男氏(のち海軍少将)宛書簡は、日露開戦直前、非戦論者内村鑑三が、若き海軍士官  として軍籍にある同信の子弟を訓し慰めたもので、本文庫設置に当って初めて公開されたもの  である。

注12

1905(明治38)年4月28日に新潟県新津大鹿で開かれる予定の集会が、はなはだしい妨害によ  り開けなかったため、同志を励ますために書かれた置手紙である。

注13

9冊に製本された形で、1991年12月に山本黎子氏、田村真生子氏が斎藤宗次郎遺族の代表として来学し、本文庫に寄贈された。

注14

木村清松牧師とパーメリーの往復書簡および内村から木村への書簡をも同収している。これらを含めすべての書簡は武田清子編「内村鑑三の未公開書簡」として「アジア文化研究 6」(国際基督教大学 1972年12月)に掲載されている。

注15

原瀬半次郎および原瀬与五郎連名宛をも含む。1993年6月に原瀬万次郎氏(原瀬半次郎子息)から本文庫に寄贈された。

注16

1913年5月24日付け書簡。1992年に本図書館が古書店から入手した。

注17

桜井宣隆氏による注記を付してある。「内村鑑三著作集」(鈴木俊郎編)第21巻604ページ、「内村鑑三信仰著作全集」(山本泰次郎編)第25巻24ページ参照。

注18

署名、宛名のみ自筆。本文は永井久録の代筆と思われる。なお、宛名は「井口君」とあるが、井口喜源治と推定される。

注19

斎藤宗次郎が苦心して編集作成したもので、内村鑑三の生涯を通覧することができる。各葉につき解説が加えてある。すべて原写真から新たに同一形に複写したものである。

注20

大小あわせて39葉の写真で、「写真帳Ⅰ―Ⅲ」(斎藤宗次郎作成)の原写真を含む。

注21

B005 およびB006 は、1993年6月原瀬万次郎氏寄贈。

注22

編者が、大正7年7月に内村鑑三、祐之父子の北海道旅行に随行したときの写真を、コロタイプのアルバムにしたものである。編者は京都の便利堂書店の主人で、内村鑑三が京都において著述に従事していたときの家主であった。(写真帳Ⅱ 参照)

注23

明治10年、内村鑑三が札幌農学校に入学するに際して提出した書類の写真複製で、原本は北海道大学附属図書館に保存されている。複製を本文庫に加えるに際し、同大学のご好意を得た。このうち、誓約書第二条には身分上と戸籍上の制約が設けてあり、これによって明治16年2月19日付の札幌、藤田九三郎宛書面のこと、同年4月22日付の札幌、太田稲造宛書面のこと、また明治15年5月に鑑三が札幌に籍を移した理由も理解できる。

注24

巻頭に「内村鑑三先生が祈って自ら選定し聖書講演に際して会衆とともに歌われし讃美歌の一部」とある。斎藤宗次郎が記録編成したもので、あわせて岩手県花巻町の集会および同氏のみた臨終の際の内村鑑三を記録している。

注25

会員名簿、会員証、大正8年柏木兄弟団名による日曜講演会(於東京基督教青年会)の中止、および東京聖書講演会(於大日本私立衛生会講堂)の発足通知、内村聖書研究会(大正10年)関係通知、聖書研究会解散広告など。ほかに内村鑑三の葬儀次第、逝去に関する新聞切抜(昭和5年3月29日)を含む。

注26

The Japan Christian Intelligencer 第1号を持地ゑい子が哲学者Dr. Hans Euckenに送ったのに対する博士の返信で、斎藤宗次郎を通じ本文庫に収録。訳文は山田幸三郎氏による。

注27

昭和11年3月、内村鑑三伝刊行会より「内村鑑三伝 信仰思想篇」付録として出されたもので 同会が新たに企画していた「群集の目に映じたる内村鑑三」への寄稿を求めた人々の名簿で、巻頭に「無教会者に従ふ人々」とある。

注28

内村鑑三全集の編輯委員の一人で、その実務に献身的努力を傾注した斎藤宗次郎が、全集発行者岩波茂雄氏の懇請により編輯の経緯を詳細に記述した肉筆の手記。全集と同一装釘となっている。

注29

越後タイムス(1954年5月23日―8月22日)掲載の記事切抜きである。内村鑑三を中心に信州上 田の畔上、品川家などのことを詳しく興味深く述べ、師を追憶した文献である。

注30

アメリカにおいては大正10年頃から排日問題が激しくなったが(大正10年 移民割当法、大正13年 ジョンソン法公布)、この問題に関する「太平洋を中にして」(徳富健次郎編 文化生活研究会刊 1924 主として内村鑑三と徳富健次郎が執筆)を1冊とし、この本を刊行するについて徳富から内村に送った手紙、徳富の英文原稿に内村が加筆したもの、両氏についての斎藤宗次郎の感想などを1冊にまとめたもの。

注31

新聞・雑誌の切抜きおよび複製のほか、製本困難な少数枚数の資料も収めてある。

注32

切手は1951年3月23日発行。文化貢献者シリーズの一つで、額面は8円。

注33

1900年9月18日から1903年10月12日までの「万朝報」から内村鑑三執筆の記事を集めたものであるが、堺利彦・幸徳秋水の「退社の辞」、黒岩涙香の「内村、幸徳、堺、三君の退社に就て」を含む。山岸壬五氏の手になるもので、同氏養女山岸セツリ氏から本文庫に寄贈された。

注34

聖句、内村鑑三の詩(2編)訳詩(11編)およびレンブラントの挿画よりなる壁掛け。

注35, 36, 37

 1993年6月、原瀬万次郎氏寄贈。

注38

1961年3月19日から、4月9日まで4回にわたって、内村鑑三生誕百年記念番組とし「ラジオ関東」 から放送されたものの録音。談話者は政池仁、藤本武平二、八木一男、山桝雅信の各氏。原テープは兵頭謙三氏寄贈。

注39

手書き(毛筆)の目録で、編者から鈴木俊郎氏に献呈されたもの。鈴木氏のご遺族から本文庫に寄贈された。

注40

「藤本君夫婦に贈る 千九百十二年七月五日 内村鑑三 仝シズ」と記されている。

注41

内村鑑三がアマスト大学で勉学中に使用したもので、多数の書き込みがあり貴重な資料である。

注42

内村鑑三が明治42年「櫟林集」に「詩人ワルト・ホヰットマン=評伝」を載せたさい、その文想の源泉となった図書で、多くの書き込みがある。この評伝は大正3年に「平民詩人」(畔上賢造と共著)に再録された。

注43

内村鑑三がアマスト大学在学中に、Miss A.T.Cambyなる婦人から5ドルのプレゼントを受けた際、その厚志を記念して購入したむねの、自筆扉書きがある。

注44

内村鑑三、同静の名で「奉仕に対する感謝の徴」として、三谷民子に贈られたもの。川西進氏を通じて本文庫に寄贈された。

注45

書名表記は表紙による。巻頭には「但以理書の研究」とある。

注46

内村鑑三の著述のうち、教科書・課外テキストなどに最も多く採録されたもので、文章は平明、青少年の啓発に資するところが大きかった。中村弥左衛門氏(注22参照)のすすめで刊行されたもので、初版の発行者は同氏弟の中村弥二郎となっている。

注47

1953年4月から配本。収録量においては全集に及ばないが、編者の企画構想に従って選択・分類・配列している。文章は原文に忠実であるが、英文の著作は編者の訳文で収録されている。

注48, 49, 50

 編者の構想により、全著作を3全集に分けて収録した。かなづかいは現代かなづかいに改められ、また漢字の書きかえもおこなわれている。「信仰著作全集」第25巻の総索引は、3全集を通ずる索引で、武藤陽一氏の労作である。

注51

1932年3月から配本。全著作を網羅する方針であったが、完結後発見された資料も若干ある。文章は原文に忠実に採録され、英文で記述された論文・書簡などもそのまま掲載してある。本全集編集の経過は、斎藤宗次郎の編輯日記(本文庫所蔵。注28参照)にくわしい。

注52

この全集は第1巻のみが刊行された時点で、内村鑑三が出版社に刊行中止を申し入れたため、第1巻だけで中絶した。申し入れを行なった理由は、警醒社書店刊行の富永徳磨著「基督再臨説を排す」の広告文中に、内村の基督再臨説を誹謗することばがあったことである。内容は「基督信徒の慰」「求安録」「宗教座談」「伝道之精神」

注53, 54, 55, 56

 いずれもドイツのグンデルト博士から山田幸三郎を通じてはるばる寄贈されたものである。博士は内村鑑三の信仰を慕って明治39年に来日し、三十数年にわたり日本にあって、伝道のかたわら語学教育に尽し、昭和11年に帰国された。その後ハンブルグ大学の教授、総長を歴任、これらの図書を寄贈された当時は80歳をこえる高齢をもって、「碧巌録」の翻訳に寧日ないようすであったといわれる。山田氏は博士の肉身も及ばぬほどの愛と支援を受け、文通を絶やされなかったが、博士は1971年8月3日、91歳をもって逝去された。博士は日本文化の大恩人の一人である。

注57

本文庫所蔵のものは、7-10、12号のみ完本。他は複製で、1、5号は第1ページのみ、2-4、6号は第1、2ページ、第11号は表紙のみ。

注58

Marius Jansen, ed."Changing Japanese Attitudes toward Modernization"の抜刷。

注59

35ページに「内村鑑三氏のこと」の文がある。黒岩四方之進(黒岩涙香の実兄で、札幌農学校1期生)の懇請により、内村鑑三が涙香の主宰する「万朝報社」に入った経緯を知ることができる。このことは、鑑三の生涯の一転機となった。

注60

『佐伯好郎遺稿並伝』よりの抜刷。

注61

クラーク博士を通じて信仰に入った札幌農学校1、2期生によって創められた聖書研究集会は、札幌市内の同信の士を加えて成長し、札幌独立基督教会の基礎となった。その中心となって活動したのが大島正健、内村鑑三、伊藤一隆らであったが、ことに米国メソジスト派教会からの資金援助にまつわる紛糾の解決に努力した内村鑑三らにとっては、この集会は、既成の教会から離れて、無教会基督教の確立に進む機縁となった。この記念誌の文章はよくその間の経緯をつくしている。主として有島武郎の筆になる。宮部金吾から牧野実枝治に贈られ、牧野氏から本文庫に寄贈された。

注62

内村鑑三の入信については、アマスト大学シーリー総長の感化によるところが大きかったが、シーリーの信仰は彼のドイツ留学中にチンチェンドルフ伯ら敬虔派の人々から感銘を受けて得たもので、アメリカ社会一般のキリスト教とは異質のものであった。このことを内村自身は後年に至って悟ったのであるが、この論文はその間の事情を明らかにしている。

注63

1998年および2000年に樋口てう氏ご遺族から本文庫に寄贈されたもの。

注64

落合一治氏が所有されていたものを2005年に知人の方を通じて本文庫に寄贈された。

注65

2005年徳山近子氏寄贈。

注66

2009年押切重洋氏寄贈。

注67

2016年に上作(加藤)常子氏ご子息の上作哲朗氏から寄贈

注68

「内村先生 1922年1月5日 藤井武」とある。

注69

「大正11年5月 賢造 先生に呈す」とある。

注70

「千九百拾年クリスマスを祝して」とある。寄贈者の上作氏によると、内村鑑三が妻、静に進呈した聖書を加藤常子に贈ったとのこと。

注71

内村の署名あり

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