茅野友子さんインタビュー

2026年3月17日(火)14:00-15:00

<ICU入学まで>

司会1:

それでは、いくつかご質問をさせていただきます。2期生でいらっしゃいますよね?

茅野:

はい、そうです。

司会1:

2期生というと、1期生はもう既に入学していて、ご主人の(茅野)徹郎さんもいらした。2期生から見たその頃のICUの様子とていうのは、どんな感じでしたか?

茅野:

ICU建学の記事を、朝日新聞で拝見しまして、「あ、これはいい学校かな、自分の行く学校かもしれない」と思ったのです。というのは、1953年は、まだそんなに女性が大学に行かなかったし、行くとしたら女子大学で、東京女子大とか日本女子大とかお茶の水、それから津田塾。私の友達も、近いということもあって東京女子大に行く人がほとんどで、あとは短大に行くような感じだった。ところが、ICUのことが新聞に出て、それで父が「あ、これはお前の行く学校だよ」と言ったんですよ。それで、そのような気持ちになっていたところ、私の高校はキリスト教の学校なので推薦をしてくださるって話が学校に来て、私が選ばれたんです。ですから行く前にもう決まってしまったような感じでした。それで、12月の20日頃に一度見に行こうと三鷹から、多分バスで乗って行ったんだと思いますけれど、なんかこう茫漠とした荒野みたいなところに建物が一つ立ってて「あ、これはどういう学校かな」と思ったんですね。ところがそのバスの中で、ICUの1期生の方にお遭いしたんです。その方とお知り合いになって、それが北代(北代淳二)さんだった。

司会1:

そうですか。

茅野:

ええ。で、北代さんがいろいろ説明してくださって、「あ、これはいい学校だな」と思いました。あの方は0期からいらっしゃる方ですけど、素晴らしい上級生がいる学校だなという印象でしたね。

ですから2期生は、大学はもう始まっていて優秀な1期生の方がいらっしゃるところに入れていただいたっていう感じでした。そして特に女性が非常に丁重に扱われる学校で、それが大変うれしく思われました。

司会1:

ご出身は東京ですか?

茅野:

ええ、そうです。私は日本橋の生まれです。1945年3月10日の東京大空襲で家が全焼して中野に越してきました。それで山の手の方のICUを志望したわけですね。

司会1:

ICUの入試はどうでしたか、面接とかは?

茅野:

はい。推薦でも試験は受けたんです。今でもよく覚えておりますけど、英語の試験がございまして、後で考えるとそれは「リーダーズ・ダイジェスト」からだったと思います。バーター交換の何か経済関連の面白い記事で、それを非常に興味深く読み、どういう風に答えたか覚えてないんですけど、「あ、リーダーズ・ダイジェストってこういうものか」と思いました。普通の試験ではなくて、何ページもストーリーを読むような、そういう問題が出てきたのをよく覚えております。あとは何の試験があったでしょうか、面接はあったような気がするんですけど。

<先生方の想い出>

司会1:

それで、入学されてから思い出深い先生、どんな先生がいらっしゃいますか?

茅野:

そうですね。思い出深いというのは… そう、1学期、2学期、3学期ととにかくフレッシュマンの時は、フレッシュマン・イングリッシュって言ってましたよね。 もうほとんど朝から晩まで英語漬けで。で、ゲルハルト先生 という先生が発音学をなさってました。実際に私たちに本当に厳しく教えてくださったのは、女の先生でいらっしゃいまして。毎日小さな鏡を持っていって、それで口のところを見ながらやって。

司会2:

太田先生?

茅野:

太田先生ですね。私、太田フサエ先生になぜか大変にかわいがられて、夏休みは太田先生のお仕事のアルバイトをさせていただきました。1時間40円で。あの方が『プロナウンシング・ディクショナリー』というのをお作りになるということで、カードを一生懸命作りました。あれは出版されたかどうかわからないんですが。でも太田先生は厳しかった。本当に厳しかったんですけど、ありがたかったですね。やはりあの時にきちんと英語の発音を教えていただいたので、後であまり困ることがありませんでした。

それから、ジェネラル・エデュケーションっていうのがもう既に1年生の1学期から始まったような気がします。その時に美術をなさったムンスターバーグ先生(Hugo Munsterberg)という美術の先生がいらっしゃいまして、その方がヨーロッパの絵画史を講義なさったんですよ。私たちルノワールとかセザンヌは知ってましたけれどね、ボッシュとかブリューゲルなんて知らなかったのです。そういう画家の作品をスライドで見せてくださった。で、試験の時もスライドをパッパッパッと写して、それが何だ、ってことを書かなきゃならない。あれは非常に苦労しましたけど印象深い授業でしたね。 それから音楽もそうなんですが、フランシス・カサードというソプラノ歌手がいらっしゃって、その方が教えてくださったんです。今考えると「くるみ割り人形」だったと思うんですが、あれをずっと聞かせてくださって。「この楽器は何か」っていうのをやっぱり試験でも書かなければならず、あれも必死になりました。

司会2:

それはレコードで?

茅野:

ええ、レコードでやりました。あと、あの頃はテープレコーダーというのも非常に早く導入されて。スピーチもそうですし、それからスライドを使って絵画。とにかく全てが実物でやって、単なるペーパーの知識じゃないっていうところが非常に印象的でしたね。それで、のちにヨーロッパ、特にオランダ、ベルギーに行った時に役立ちました。

司会1:

あとクライダー先生とかはどのような方でしたか。我々はあまり知らないのですけど。

茅野:

そうですか。クライダー先生という方はもう見かけから素晴らしいんです。なんか、すらっとしてらっしゃいましてね。それから声が良くって、それで講義がまた素晴らしかったんです。あの方には、ジェネラル・エデュケーションで1年生の1学期か2学期にエコノミックス(経済学)を取ることになってクラスに行ったんですけど、ずいぶん大きなクラスで100人近く入っていましたが、ちゃんとその日の講義をタイプしたのを皆様にくださったんですよ。それで、その第一声から「エコノミックスとは生産と消費の学問だ」と言われ、そこからもう頭にバッチリ入るような素晴らしい講義でした。今考えると、まだすごくお若くていらっしゃったんですけど。せいぜい30代ぐらいの感じだったかも分かりませんけれど。あの方がディーン(教養学部長)だったと思います。

司会1:

その頃は日本人の先生と、ノンジャパ(日本人以外)の先生との割合はどんな感じでしたか。

茅野:

あの頃はとてもノンジャパが多かったんですよ。で、もちろん神田(神田盾夫 かんだたてお)先生がいらして、ジェネラル・エデュケーションとかラテン語のクラスを取りました。やはり1年生か2年生の頃です。非常に惹かれたんですが、ラテン語はよくわからなかったですね。でも、すでに1期生の茅野徹郎や松永さん とが神田先生にお願いして、聖書クラスをしていただきました。学生が主導で先生をお呼びするっていう形でやってましたね。で、そのお礼に、主人が言ってましたけれど、カレーパーティーをやったそうです。テーブルクロスがないので、ミセス神田からシーツを借りてきて教室でカレーパーティーをやったとか。神田先生も大変お喜びになったそうです。それで、私もそのクラスに入れていただきましたが、それがだんだん全学的に広がったんです。あれは「聖書研究」っていう会だったんですよ。それを神田先生と豊留(とよとめ)先生 という牧師さんが主になり、夏期プログラムなど100名近くが参加するような形になりました。豊留先生は日系の方で素晴らしい方でらっしゃいました。

茅野:

神田先生は本当にいいお話をしてくださいましたし、ご自身の教員住宅は開放してくださいました。私がずっと指導していただいたブルーワー先生 は、3年生の時に日本にいらしたんですよね。それまでは齋藤勇(たけし)先生 がいらっしゃいまして。 私は最初語学科に入ってたんですけれど、人文科学の先生方のお話に非常に惹かれて人文科学科への転科を神田先生にお願いしたら「転科はいいけれど、私はあなたのアドバイザーにはなれない。しかし、あなたに相応しい先生を連れてきてあげるから待ってなさい」と言われました。それで新しくおいでになったのが、ブルーワー先生だったんです。

司会1:

ブルーワー先生。

茅野:

それでブルーワー先生のアドバイジー(指導学生)になったのが、4名なんです。山本俊樹さんって、2期で成蹊大学の教授や恵泉女学園の教授になられたりなさいましたけど。その山本さんは、後年ブルーワー先生のお宅の近くにマンションをお買いになって、夏は(イギリスに)行っていらしたぐらいで。

司会1:

そうですか。

茅野:

だからブルーワー先生とは、山本さんと私とで本当に最後の最後までお付き合いさせて頂きましたね。先生がケンブリッジ大学のエマニュエル・カレッジのマスターになられてから、私がたまたまイギリスにいた時に「会ってくださる」ということで訪ねて行って、お昼を教職員食堂でご一緒させていただいたりしました。最後の最後まで私の論文を読んでくださったり推薦状を出してくださったり。本当に亡くなるまでお世話になりました。

それにブルーワー先生はご自分の家を開放されてましたね。ICUにいらしたのは多分2年ぐらいですけど、「プレイ・リーディング」っていう集まりをお作りになったんです。テネシー・ウィリアムズとか色々な劇をみんなが集まって読みまして。先生の家で月に1回ぐらいずつやっていました。そこにはICUの学生だけじゃなくて一橋大学(そこにミセス・ブルーワーが英語を教えに行っていらした)の学生さんも来てました。教員住宅に20〜30人集まってみんなで読んでました。実際の劇も、食堂で1回やりましたね、英語劇を。

司会1:

いいですね。

茅野:

ですからブルーワー先生は、本当に短いけれど大きな印象を残されたし、イギリスに帰られてからも、こちらがケンブリッジに行くとお世話してくださって。だからあちらでもICUの卒業生が沢山先生のお世話になっています。

司会1:

ご専門はシェイクスピアでしたか。

茅野:

はい、主にシェイクスピア。齊藤勇先生はキーツ、シェリー、ワーズワースなどの頃の文学がご専門なんですね。勿論、英文学史の大家でもいらっしゃいました。しっかり教えて頂きました。ですから私の学部の論文はワーズワースだったんですけど、どうも少し前の時代のものを知っていないと分からない。それで、だんだん遡り遡りして、シェイクスピアに行き、チョーサーに行き… ブルーワー先生は、チョーサーの大家だった。もう中世英語なんですよね。で、私はなかなかそこまではいけないけれど、とにかくワーズワースからチョーサーぐらいまで、もう本当にびっくりするぐらいよく指導してくださって。ICU(滞在が)短かったから先生のことをみなさんご存知ないかもしれないけれど、ICUにいらっしゃった時にお子さんも一人お生まれになったし。私、ブルーワー先生のことを、『ペディラヴィウム会』の雑誌に2回ほど書いております。 ブルーワー先生にケンブリッジでお会いしたとき「ICUだけでなく日本にお友達がたくさんできて本当に良い思い出を作った」って、そう言っていらっしゃいましたね。最後にお会いしたのは先生が亡くなる数年前です。山本さんは先生のお葬式のためにイギリスまで行ったんですよ。

司会1:

あと、トロイヤー先生についての思い出はいかがですか?

茅野:

あ、トロイヤー先生は確かサイコロジーがご専門だったと思うんです。ですから私、トロイヤー先生の授業は受けたことがなかったです。クライダーさんのようには関わりがなかったですね。トロイヤー先生は、副学長をやってらっしゃったと思います。それで湯浅先生をよく助けてらっしゃいまして。何て言うか、日本の大学とはすごく違う形で、特にアメリカのリベラルアーツカレッジというものを念頭に、それに従ってことをお進めになるので日本の(他の大学から来た)先生方とは、色々食い違うことがあったかもわかりません。でも、一人一人に本当によく声を掛けてくださった。声を掛けてくださるっていうのは湯浅先生もそうだったんですよ。 朝、バス停から歩いて本館の方に行きますでしょう? そうすると、あちらから八郎先生が歩いていらして、"Good morning!" なんておっしゃるんですよ。びっくりですよね。大体、英語で話されていたように思いますけど。 トロイヤー先生と言えば、実はミセス・トロイヤーとはご縁が深かったんですよ。というのは、教授会にもほとんど女性はいない時代です。ICUでも女性は1期生だったら2割ぐらい、2期になったら女性が3割ぐらいになったと思うんですが、まだそんなに多くなかったんですね。でもそんなこと関係なく、我々は伸び伸びやってましたけど。で、教授会などアメリカ人の方もみんな男性の先生ばかりだったんだけれど、その奥様方が活躍してらしたんですよ。特にミセス・トロイヤーはすごかったですね。あの方はICU教会の方をしっかりなさってて。確か「礼拝委員会」のチェアパーソンをやってらっしゃいました。

茅野:

私も、長年ずっとキリスト教の学校にいながら受洗しないでおりましたけれど、ICUに入って、豊留先生が本当に個人的に指導してくださったおかげで受洗したんです、ICU教会で。その一番の理由は、やっぱりICUがノン・ディノミネーショナル・チャーチ(超教派の教会)だったっていうことなんです。つまり聖公会とかカトリックとかそういう宗派を超えているというのが、一番の魅力だった。 その時、平塚保之(やすゆき)さんもご一緒でしたね。1期生で、アルバータ大学で森林研究をやってらっしゃった方で、そこの教授もしてらっしゃいましたけど。あの方もたいへん立派な功績を上げられて、カナダ政府から勲章をもらった方なんです。その平塚さんと私が1954年の7月に受洗しました。そうしたらもうすぐに、ICU教会の何かお仕事しなさいって言われて。ミセス・トロイヤーがやっている礼拝委員会に入りなさいというので、月に1回ぐらいはコミッティー(委員会)をやってたような気がします。大体トロイヤー先生のお宅でやったんですよ。10人ぐらい来てですね、ミセス・トロイヤーがプリザイダー(presider司会者)になっていろんなことをどんどん決めていくわけです。ああ、こういうふうに学校とか教会って運営するものかと感心いたしました。そしてまたお茶やお菓子が出てくる。本当にそういうことでは、もうミセスの方々がすごかったですね。

司会1:

なるほど。また、ブルンナー先生とも同じ時期にいらしてますか。

茅野:

ええ、ブルンナー先生は私の入った時にはもう来てらっしゃいました。前の年にいらしてたんだと思います。そうですね、先生が特別のクラスをお作りになると。「レイマン・エヴァンジェリズム(layman evangelism 信徒伝道)」というのを考えられたんですね。つまり牧師でなくて普通の社会人が一般信徒としてキリスト教を広めなさいという活動。それを募集するというのが、壁に貼ってあったのを覚えてるんです。でも私は受洗してわりにすぐだったので、決心がつかないでいていましたが、主人なんかは前の年からもう入ってますから。ずっと前にクリチャンになってますので、入れていただいて。

その年のクリスマスは、ブルンナー先生が自分の家でクリスマスのパーティーをなさいました。行きたい人が行ったのかと思うんですけど、30人ぐらいが集まったんですよ。ミセス(ブルンナー)とか、それからイリスという息子さんの婚約者ですね、あの方々に、お世話になりましたね。本当にイリスはよくやってくださいましたね。

<学友・キャンパスライフ>

司会1:

たしか寮にお住まいでしたか?

茅野:

はい。ですけれど、私の家は中野で近いもので、最初は入れていただけませんでした。私どもが入学したときにはまだ寮はなかったです。私の友達も鵠沼(くげぬま)など、結構遠いところから通っていらっしゃる方がいました。途中から第一女子寮・男子寮ができたんですけど、私たち都内のものは入れていただけませんでした。新聞には、ICUの広告に「全寮制」って書いてあったんですよね。で、それに憧れたこともあったのに寮に入れていただけないのかしらと思っていたところ、私が3年生の秋にやっと第二女子寮が建てられたので、私どももそれから卒業までは入ることができた。だから1期生の方も最後の3学期は入れていただいたと思います。近い方でも。それで、その時第一女子寮はちゃんと寮母さんと教授ご夫妻が学生の監督のためにいらしたんですよね。なんか、お母さんのような、竹内(竹内瓊江たけのうちたまえ)さんという方がおいでになって。それから、教授のご夫妻がそこにお泊まりになって。ところが、第二女子寮には誰もいなかったんですよ。

司会1:

ああ、そうですか。

茅野:

ですから、私ども学生同士で勝手にいろんな係を作って仕事を分担してました。私も寮長をさせていただいたんですが、一番印象に残ってるのは、アルバイトが大体あの頃は一時間40円だったんですけど。寮の中のお仕事もみんなでやるわけですね。トイレのお掃除から、お風呂を沸かすっていうのがありまして。でお風呂を沸かすのをやる人がいないんですね。もし、学生がやらないとなれば外部の人を入れることになって。なので私がお風呂沸かしをやってました。当時は一部屋に4人で、一部屋4人のうちの1人は香港からの学生。それから、別のときにはまたメアリー・ショーという、カリフォルニア大学からいらした方かな、その方がいらして。非常に狭い部屋で一緒に住んでて、本当に貴重な経験をしましたね。

司会1:

当時は、1学年何人くらいでしたか。2期生は百数十人くらいいましたか?

茅野:

そうです。規定は150名ですけど、卒業したのは120から130名ですね。

司会2:

2期生にはこんな方々がいらっしゃいます(リスト見せる)。

茅野:

ああ。

司会1:

藤本さんもご一緒?

茅野:

そうです、藤本篤子さんですね。L.A.滞在時代はご一緒によく活動しました。旧姓は小野篤子さんとおっしゃって、我々は「おのあつ」って呼んでました。あと、上野田鶴子さんもご一緒で、それから湯浅裕子さん。あの方と、私、一番仲良かったんです。旧姓は西村裕子さんとおっしゃって。

司会2:

久世礼子(くぜれいこ 旧姓横山礼子)さんも。

茅野:

そうです。久世さんもいらっしゃいました。久世さんは特に、セクションもご一緒でしたね。

司会2:

久世さんはお父様からレバノンスギ をいただいたんです。

茅野:

ええ、そうです、そうです。

司会2:

レバノンスギはいまでもあります。

茅野:

久世さんともずいぶん仲良くしていて、卒業旅行も二人で行ったりしましたね。

司会1:

アジア学院に行った方が、栃木で久世さんにお会いしたってお聞きしました。

茅野:

あ、そうですか。ええ。

司会1:

学生生活では、何かサークル活動とかに参加していたことは。

茅野:

あ、私は、グリークラブに入ってたんです。

司会1:

グリーですか。

茅野:

私が入学したときに、もうすでにもういくつかのクラブがありました。本当に1期の方達ってすごいと思うんですよ。それで勧誘して回ってたんですよ。 ESS(English Speaking Society)なんかにも入りませんか?って言ってくださって。そのESSの中でも、ディベートをするのと、それからドラマをするのと、分かれてるって。私は音楽の方に興味があってグリークラブに入りました。 その時、長谷川朝雄さん とか金澤正剛(まさかた)さん がいらしたんですけど。金沢さんは1期と言ってもあとの1期で、長谷川さんの方が0期なんですね。ですから、長谷川さんが主になって、グリークラブの指揮をやってらっしゃいましたね。 それで、ヤマハホールで演奏会をしたりであまりに忙しくなってきて、私は自分の勉強の方でいっぱいで、もうグリークラブは続けられないと思って3年の時に退部してしまったんです。ええ。でもその後、長谷川さんも金澤さんもICU出てから留学されて音楽で博士号お取りになりましたよね。

司会1:

ご主人の徹郎さんとはどういう感じでお出会いになられましたか。

茅野:

本当に不思議なんですけれどね、都留春夫先生 が「ビッグ・ブラザーズ・シスターズ」っていうシステムをお作りになったんですよ。それで、新入生の各セクションに一組ずつ、上級生のビッグブラザー・シスターを割り当てるっていう仕組みで。それをお作りになったら、彼(徹郎さん)と私が同じセクションに割り当てられたんですよ。それで一緒にやることになった。

司会1:

ああ、そうですか。

茅野:

ええ。不思議ですよね。その頃もう徹郎は4年生になってたと思うんですけど。で、その時入ってきた1年生(4期生だったと思うんですけど)と徹郎と私で、「一粒(ひとつぶ)の会」っていうのを作ったんです。だからその方達とも随分仲良くなりました。 それとクラブではないけれども、クラブよりも強い「聖書研究」 っていう会がありまして、それが夏と春に聖書研究の合宿をやったんですね。榛名山とか、公民館を借りたりしてやったんですけど、本当にたくさん人が集まりました。そうするとその、一期生の方々(今考えるとすごかったと思うんですけど)まだ大学の2、3年生なのになぜあんなによくできたかと思うような説教をしてらしたんですよ。後で牧師になられた松永さんとか、竹前さんとか森田さん、みんな日本キリスト教団の重鎮になった方々です。私ども二期生はそれをお手伝いしてたんです。私は会計を担当してたんですけれども。あんまりたくさんの学生が来るので、夏季の集会など二回に分けてやってましたね。で、秋田先生とかいろんな方にもまた来ていただきました。もちろん神田先生は来てくださるし、そのほかに豊留先生もよくやってくださいましたしね。ええ、本当に熱を帯びた会でしたね。 あの頃はみんな行くところがなかったのか、まだ戦後ですからですね。主人も書いてるんですけど「若い人はキリスト教か、あるいは共産主義のどちらか」っていうのが多かったんですね。だから、東京神学大学もすごい左傾化してた時代がありました。ICUに来た学生たちはやはりすごく求める気持ちが強かった。水曜日の礼拝の時は、食堂も図書室も閉まってて行き場もないってこともあるんですけど、本館からチャペルまでね、野の道ができちゃったんです。今、バカ山ができて花道がありますけど、昔は、本館からチャペルへのまっすぐな道があったんですよ。それで、もうほとんど全員が教会に行きましたね。

司会1:

それはチャペルアワーですか?

茅野:

そうそう、チャペルアワーですね。チャペルアワーのほかにコンボケーションっていうのもありまして、確か私の入る前かしら、ルーズベルト夫人 がいらしたりとかね。それから私のいた時にはトインビーさん がいらっしゃいました。それから蝋山政道 先生もいらっしゃいましたね。あの方もすごくいいお話をされました。あの時代にはいろんな大きな事件も起きていましたけど、あの方が言ったので今でも覚えてるのはね、「暗くなれば星が光る」。それがよく覚えてる言葉ですね。

司会1:

なるほど、でも4年間を振り返ると非常に充実していましたね。

茅野:

ものすごい刺激的な、ええ、すごいことでしたね。

<卒業後・茅野徹郎氏とともに>

司会1:

それで卒業された直後はどうされてました?

茅野:

私はまだ勉強が足らないっていう気がして。特に英語ですね、それで留学しようと思ったんですよ。で、いろんな先生が来てICUで教えてくださった中で、今考えるとあれ非常勤の方ですけど、スミス・カレッジ を卒業して、それこそ「フレッシュ・フロム・ジ・オーブン」って言うんですか、オーブンから出来立てのパイのような形でICUにいらした若い女の先生がいらっしゃいました。その方の授業があまりに面白くて、私はスミス・カレッジに行きたいと思ったんですよ。それで卒業したらそちらに行きたいという事で願書を出したんですね。そうしたら残念ながら我々のところにはマスターコースがありませんって。あの頃はスミス・カレッジのような一流女子大学にマスターコースがなかったんですね。例えばハーバード大学なんかも、ラドクリフ女子大からじゃないと入れてもらえなかった。そういう時代だったんです。それでとうとうスミスには入れなくて、それでゴタゴタしてる間に、私の出身校である立教女学院の先生が、自分は留学するからあなたが私の代わりやってくれない?っていう話が来まして、卒業した次の年からそちらの専任になりました。それで高等学校の受け持ちになって3年間そこで教えておりましたけれども、やっぱりもう少し勉強したいというので、受け持った高校3年生を卒業させる、その時に私も一緒に「卒業」してICUの大学院に行こうと思いました。秋にはその試験を受けて、もう大学院に入ることを決めていたんです。 ところが、その間に結婚したら、4月から主人が新潟に転勤になっちゃった。それで私は入学と同時に退学したんです。1年間新潟に行って、主人よりもちょっと先に帰ってきてまた復学したんですが、そうしたら2年の時にまた主人がヨーロッパ(ベルギー)に転勤になっちゃった。それでまた退学して、オランダ、ベルギー、イングランドと行って、帰ってきて、そしてまたICUに戻って修士論文を出しました。それからは東京女子大などで非常勤講師をさせていただいてました。それで7、8年経ったらば、今度はアメリカに転勤になって。アメリカは長くて、ほとんど10年ぐらい行ってました。

司会1:

アメリカはどちらに?

茅野:

ロサンゼルスです。ロサンゼルスからちょっと南の方ですかね。ガーデナっていうところで。だから、ロサンゼルスのダウンタウンよりはちょっと南の方で、ずっと行けば今度はサンディエゴに行っちゃうようなところなんですよ。で、そこでの私の目標は仕事でも生活でもアメリカ社会に溶け込むことでした。そのうち娘も18歳になってやっと私も自分の時間ができたので、そこから車で一番近いところで、カリフォルニア大学のアーバイン校というカリフォルニア大学の中でも割に新しくてICUみたいな学校の博士課程に入りましたら、今度は主人がまた本社に帰らなきゃならなくなったんですけど、私だけ残ってPhDを終わって帰ってきた。そうしたらその時に、ICUで日本語教育やってらした小出詞子(ふみこ)先生に、獨協大学の理事会が関西に大学を作るから来ないかっていうので、あなたも来ないかって言われて。私はカリフォルニア大学でも日本語を教えていて、カリフォルニア州の委員会で、日本語教育を教えてもいいというサーティフィケート(修了証明書)を出していただいていたので、姫路獨協大学で教えることにし、とにかく新幹線通勤することになりました。

司会1:

あー、そうですか。姫路まで。

茅野:

ええ。だから55歳から70歳まで新幹線通勤してたのですよ。本当に楽しいことさせていただいて。

司会2:

随分あちこちに移られてますね。

茅野:

ええ。随分いろんなところに動かされましたけど、それがすごく刺激的で楽しかったんですよ。あっちこっちに行かせていただいて、いろんな国に住まわせていただいて、本当に幸せでしたね。

司会1:

徹郎さんは、会社を辞められてからすぐにICUの常務理事になられたのですか。

茅野:

いいえ。また卒業後にすぐにホンダに入ったわけでもないんです。第1期生でしょう? まだ就職部がやっとできた時で。大体キリスト教大学の卒業生は牧師になるんじゃないかと思われてましたから普通の会社で雇ってもらえるかどうかも分からないような状況でした。阪田商会という関西のクリスチャンで大変に著名な方の会社が、教文館に東京オフィスを持ってらしたんですよ。その会社に入れて頂きました。多分阪田さんはICUの理事か何かもしてらしたような気がするんですよね、理事か評議員 。だから教文館のところ(銀座4丁目)に3年ほど勤めさせていただいて、阪田商会に行ってたんですよ。あの頃はアメリカのテープとか、そういうものを輸入する会社だったような気がするんです。それで、ある日新聞を見たら、本田技研が海外用の人材を取るって書いてあったのを見てじゃあ受けようかと受けてみたら入れていただけたんです。 ホンダはヨーロッパとかアメリカにどんどん進出するというので、そういった人手が足りなかったわけです。それで入れていただいてから1年は、日本国内の状態がよく分かるようにと新潟に行かされたけど、その次からもずっとヨーロッパとかアメリカとか、海外ばっかり。それで、49歳ぐらいの時に役員にさせていただいたんです。それから59歳の時に、主人は10年間役員やったからもうこれでいい、これからはまた違うことしたいと言って監査などのお仕事を3年ほどやってたと思います。そうしたらICUの1期生の方が、日米協会の専務理事をやってくれないかとおっしゃったんです。アメリカでもいろんな仕事してきたのでちょうどいいようなお仕事で、それでそちらをさせていただくことになったんです。日米協会っていうのはノンプロフィット・オーガニゼーション(NPO)ですけれど、そこで色々させていただいてとても良かったです。そんな時に、たぶんICUからお声が掛かったんじゃないかと思うんですね。実際には本当に61、2歳ぐらいから20年はノンプロフィット・オーガニゼーションばかりやっていましたね。

司会1:

なるほど。

茅野:

YMCAとか。YMCAも赤字になって大変だった時に頼まれるわけで、本当にトラブルシューター。あっちこっちの立て直しをやって。高田馬場のYMCA学生寮も上手くいかなくて。ハンガーストライキなんかを学生たちがして、それが大きく新聞なんかに出て、その頃に頼まれて入って、あれを立て直しました。

司会1:

ICUはもう学生紛争は終わった後でしょうか?

茅野:

そうですね。あれは私が大学院に入った時が、学生紛争が始まった頃だったんですよ。それで私が長清子先生の日本のキリスト教の歴史のクラスで論文を出すという時だったんですけれど、もうそこにいる学生たちが浮足立ってクラスに来なくなったり、レポートをきちんと出さなかったりしてましたね。私は早く単位を取らないと困るものですから、一人で出しに行ったりしてたんですけど。あれは確か最初は授業料の値上げ反対だったと思うんですね。それから2年後ぐらいに、あのアチーブメントテスト導入反対の問題だったですね。そのアチーブメントテストを日本に導入するっていう考え方を一生懸命やってらっしゃったのが、一期生の方だったんですけど。で、その方が、私たちが丁度ロンドンに転勤した時にうちにいらしたんですよ。それでICUで今どういうことが起きてるかって話をずっとしてくださってね。それを聞いてびっくりしました。

司会2:

それは何年ぐらいのことですかね?

茅野:

あれは1967年頃かと思います。

司会2:

能研テスト導入反対運動のとき ですね。

茅野:

そうです、能研のころですね。主人が最初に海外に行ったのはちょうど東京オリンピックの年だったから、1964年ですが、私が渡英する前の1965年ごろはディッフェンドルファー記念館のラウンジにテレビが一つあって、あれは浅間山荘事件の時ですね、みんな学生はあそこに行っちゃって、授業に出てこなかったんです 。そんな時代です。その後は日本を離れたので、ICUはどうなっちゃったか全然分からない状態でした。

司会1:

茅野さんが常務理事で戻られた時は、もう割と平和な時代というか。

茅野:

そうだったですね。財政立て直しとクリスチャン・コード作成が印象に残っています。

司会1:

じゃ、ちょうど1時間、ちょうどいただいたお時間となりました。

茅野:

あ、そうですか。

<キャンパス素描・こぼれ話>

司会1:

あの何かお聞きしたいことあります?

司会2:

一期生、二期生の方には、例の桜の話を。

茅野:

あ、桜。あの滑走路というか、入り口のね。

司会2:

そうです。あれをみなさんで植えたって話は聞くんですけども。実際のところ、結構な数、80本ぐらいあるので、みんなで植えたってことはないんじゃないかと僕は思ってて。で、実際になんかご存知のことがあれば。桜はもう最初からありました?

茅野:

いえ、なかったです。あの道は今の正門からチャペルまで石ころの道で、マクリーン通りという名も勿論なくて、道にあちこち大きな穴が開いてたんですよ。その穴を避けながらずっと歩いてましたね。それでそんなに木も植わってなかったような気がするんです。確か金沢さんが、苗木が来たから植えに行かれたと何かに書いていらっしゃいますが、二期生の私には全然覚えがありません。ただその、穴を埋める工事とか、それからあの道の両側にその溝を作る、側溝って言うんですか。それで、私の同期の人がその仕事をずっとやってたのはよく覚えてるんです。その方はほかにも建物の廊下を機械でみがくしごともしてらっしゃいました。

司会2:

テラゾー(人工大理石)床ですね。

茅野:

それです。彼は毎日のようにその仕事をやってたので、ジャニター(janitor)というあだ名がつきました。

司会2:

ああ、ジャニター。

茅野:

ジャニターさんは本当は私たち同期の学生だったんです。一期も二期もですけど割合いにお仕事をしてたけれど辞めて、ICUに入ってきた人も多かったので、お歳がバラバラだったんですね。そういう方がいらっしゃいました。実際に桜を植えたっていう記憶はありません。

司会2:

ご卒業する頃までに植わっていたのを見た記憶は?

茅野:

なんだか桜のこと全然覚えてないんですよ。だから私が卒業の1958年、桜が咲いていたかどうかも覚えてないんですね。でもチャペルが今と違うったのはよく覚えています。とっても素敵な教会堂でした。1960年以降にレイモンド(アントニン・レイモンド)に建て直しをされて、あのレイモンド形式というか、サッとしたようなスタイルの建物になりました。

司会1:

シーベリー・チャペルはありましたか?

茅野:

シーベリー・チャペルはまだありませんでした。シーベリー・チャペルは、ずっと後になってから、だいぶもう手を入れなきゃならないような状態になった時に中を使わせていただいたことがあります。

司会2:

あと、あのハンガーっていう巨大な格納庫みたいなものがありましよね。

茅野:

ええ、そうそう。ハンガーはね、私共が入学した時にありましたね。 だからあのあたりを何に使ったのかな。

司会2:

本館の裏に体育の授業やクラブで使っていたフィールドがありましたよね。 あのサッカーとかラグビーを皆さんがやっている写真があります。

茅野:

そう。それからテニスをやる人たちがテニスクラブを作って、テニスのコートもありましたね。

司会2:

それ、今もあるシーベリーの裏ですね。

茅野:

あのころのラケットはものすごく重い木製で。あまりに重くて1回行ったんですけど、やめにしちゃいましたの。でも、あの正門からのあのマクリーン通り、あそこがデコボコしてるんだけれど、一部綺麗にして、そこで私たち体育の授業を受けたんです。あそこからここまで100メートルを何秒で走るかって皆で走ったりしたんですよ。

司会1:

へえ、じゃあ今のグラウンドとかがあるところは野原だったんですかね。

茅野:

多分そうですね。

司会2:

あれは何年くらいに整備したんだったかな、グラウンド。でも、その本館の裏がなくなったと同時にこっちにしたんだと思うんで、わりと早い時点で、1960年代の初めくらいには今の場所に移動したかもですね。

司会1:

農場とかも行かれたりしました?

茅野:

私は農場の方までは行かなかったんですけど、わさび畑の方には行きましたよ。授業の合間に友達と泰山荘のあたりからずっと下の方に降りて。わさびが生えてたのを覚えてるんですけどね。それから、泰山荘が火事になる前も知ってます。あれはちょうど主人が電話の交換手アルバイトをやってる時に確か火事になって、皆さんにお知らせを出したとか。それからもう一人は、校医だった日野原(重明)先生ですね。1週間に1日は医務室にいらしてたと思いますが、私は医務室に行く機会がなくてそれは覚えてないんです。ただ、1週間に1回必修の保健のクラスがあったんです 。それを日野原先生がやってらしたんですけど、あの頃はあまり面白くなくて、印象に残ってないんですね。ところが1970年の日航機・よど号ハイジャック事件以来先生のご活躍は目覚ましく、私共も大きな刺激を受けました。先生とは主人もいろいろご一緒に活動させていただきました。ICUの方も評議員をしておられたし。それから清里の清泉寮 にもずっとご一緒させていただいて。よく中央線でご一緒になりましたけど、先生は、指定席に座られると、ちょっと失礼っておっしゃって、もう執筆してらっしゃる。すごい方でしたね。今は清泉寮も立て直され、立派になっています。

司会1:

キープ協会も。

茅野:

はい、キープです。だからキープにしてもYMCAにしても、運営が大変なところばかりでしたね。あと日米協会。日米協会は、やはり時代が変わってきて、今は海外の方といろんなところでお会いできる場があるじゃないですか。 あの頃は日米協会しかなかったんですね。ですから、当時は大きな役目をはたせた、と主人は言っておりました。

司会1:

非常に様々な全体的なことをお伺いできて、すごく参考になりました。 ありがとうございました。

茅野:

いえ、とんでもございません。こちらこそありがとうございました。

司会1:富岡 徹郎 司会2:松山 龍彦