川田 殖 (かわだしげる) 先生(ICU第1期生)インタビュー
- 日時:2024年6月28日(金)
- 場所:佐久市 川田家
- 聴き手:富岡 徹郎
富岡:
おはようございます。今日は第1期生でいらっしゃる川田先生に、ICU創設期に経験された様々なことがらについてお話を聞かせていただきたいと思います。
川田:
最初の頃はね、いわゆる0期生のころから合宿していた仲間がいましたよ。「クニハウス」っていうところでね。
富岡:
クニハウスは知っています。今の野川公園の所にあった古い日本家屋で、初期の男子学生寮として使われていた建物ですよね。「0期生」は開学に先立って創設された語学研修所の学生たちのことですね。先生もクニハウスにいらっしゃったんですか?
川田:
いやいや、僕は落ちちゃったんですよ。入れてもらえなかったので友達に頼んで、武蔵境の家を探してもらってそこに1年間いました。そのあと第一男子寮ができたときに入れてもらいました。そのクニハウスにいた人たちが一番いろんなことをよく知っていると思うけど、もういなくなっちゃったんだな。松永希久夫、新保満、茅野徹郎… 大和田(康之)君もいたかな。?
富岡:
千葉先生もいらっしゃいましたね。
川田:
千葉杲弘(あきひろ)もいたね。クニハウスは、まあ言うなれば寮の前身みたいなもんですね。ただし30人ぐらいしか入れなかった。もちろん男子ばかりだったしね。女子はやっぱり東京から来ていた子たちが多かったんじゃないですかね。男子は、それは北海道から九州までいた。新保は九州だし、僕は北海道ですから。ちょうど真ん中ぐらいが名古屋の松永か。茅野君は山梨県の韮崎。丹波(望)君は秋田。それから、大和田君はたしか福島だったか。出身地方は様々に離れていましたね。
富岡:
丹波さんは先日の第1期生会に来られなかったんですけど、次の週にICUに来てくださってお会いしました。
川田:
そうですか。とにかくそういう仲間たちがクニハウスでもって一緒に住んでました。寮ができるまで私は別だったんですね。それに私は入学前に銀行に3年いましたのでね、言うなれば3浪なわけですよ、年齢的に。ですから年は一番ぐらい上だったかもしれませんね。
富岡:
お勤めだったんですか?
川田:
北海道拓殖銀行っていう銀行に勤めました。網走支店でしたね。親父は漁師でしたから、学問よりも魚を捕る方がむしろ大事という風で。よくふざけて「博士号持ってたからって魚は尊敬して入ってこないぞ」って。まあその通りだ。ただし「網を下ろすだけじゃどんなに偉くてもだめだ」って。
富岡:
じゃあ、お父様は本当にペテロたちみたいな漁師さんだったんですね。
川田:
いやペテロもパウロも知らないですからね、その頃僕は。魚屋っていうのは決して尊敬される職業じゃなかったですから。向かいに住んでるお医者さんの方が社会的にも経済的にもいろんな面でステータスが上だったから、その医者の名前を僕がもらった。中山さんというお医者さんで、「繁(しげる)」いう字だったんですけど。まあ、いかにうちに学問がなかったかってことですよ。子供の名前を他所の人からもらったんだから。
富岡:
いやいや。でも息子さんは人間を捕る漁師になったわけですね。
川田:
いや、ほんとうに不思議なことですけど、それはまず神田(盾夫 たてお)先生のおかげでしょうね。先生に最初にお会いしたのは入学試験の時です。0期生の時にも入学試験がありました。そこでとにかく、英語に面食らっちゃって。英語のテストの解答はほとんど何も書けなかった。これはとんでもないところに来たもんだと思いました。それで筆記試験で落ちれば二次はないと思ってたら、二次の面接試験までやるっていうんですよ。落ちるって決まってるのに「なんで行くんだ」ってこと言ったんだけど、友達が「毒食わば皿までって言葉があるから、まあ行ってこい」って言うんですよ。会場は東大の文学部だったですね。ノン・ジャパニーズが面接官ですから、受験者はみんな会場から青い顔して出てくるわけですよ。「上手くいかなかった」っていう感じで。僕なんか始めから捨て鉢になって「俺、落ちるのにこんなもの受ける必要ない」そんな気持ちでいたんですけどね。たまたま、入口に面接官の名前が張り出してあるのを見たら「Dr. Yuasa and Dr. Kanda」って書いてあったんですよ。で、「湯浅」とか「神田」とかってアメリカ人の名前じゃあないよな。もしかしたら日本人かもしらんと思ったんですよね。で、入ってみたら二人とも日本人ですよ。ところが始まったら、まあその先生たちが英語で話すんだから、日本人のくせに。僕は北海道の田舎町の英語ですから、ジス、ジスっていうふうな発音を教えるような先生に教わったわけで全然わからない。ところが、湯浅先生だったかなあ、「When were you born?」って言ったの。これくらいは僕もいくらなんでもわかるから、得意になって、「I was born」までは言えたけど、「at」だか「in」だか「on」だか、前置詞をどう使っていいかわからないから、とにかく「January the 1st, 1930」と言ったわけ。そしたら湯浅先生がね、「Oh. Congratulations! Happy New Year.」って言ったのよ。ところが僕は実は1月11日生まれなんですよ。あがっていてね、「January the 1st」って言っちゃっていたわけ。もうそうなったら英語なんか出ませんよ、全然。「いや、しまった。初めから間違えちゃった」って日本語で言ったんですよ。彼らは日本語がわかるから、顔見合わせてハハハッて日本語で笑われましたよ。それからもう僕は英語はもう駄目ってわかってね、日本語で話してくれた。
富岡:
ああ、そうですか。
川田:
そのときに、神田先生が「お父さんの仕事は何なんだね?」って。今だったらそんなこと聞いちゃいけないんでしょうけど。僕は「北海道の漁師です」って言ったの。そしたら神田先生が「ああ。そうか。フィッシャーマン。いい仕事だねえ」とおっしゃったので、僕はもう肝を抜かれましたよ。生まれて今まで、親父の仕事が褒められたってことは一度もない。「いい仕事だ」って意味がわからなかったの。それでとにかく「この先生変わってるなあ」と思いましたよ。面接官が「いい仕事だな」なんて褒めるなんてことないですからね、普通は。それで、ロクな返事もできなかったんです。で、そのあとで湯浅先生が「君、三鷹に今作っている学校見てきた?」って聞いたんですよ。そしたら僕はグッと言葉に詰まって、「いや、僕は英語の試験もダメだったし、落第するってわかっているし、入りもしない学校の建物なんか見る興味ありません」と言ったの(笑)。 まあ、半分ヤケクソみたいになっていてね。それで、余計なこと言わなければよかったのに「それに大体、学校なんて建物じゃないじゃないですか」と言ったの。そしたら神田先生が「Surely!」と言ったんですよ。それでまた得意になってね。「僕、北海道から来ましたけど、昔北海道に札幌農学校という学校があって、その学校では生徒も一握りしかいなくて、先生兼小使いみたいな感じの人たちがいて、建物なんて吹けば飛ぶようなもんだったって聞いています。その中から新渡戸(稲造)とか内村(鑑三)とか宮部(金吾)なんていう卒業生が出たんだって聞いています。学校は建物じゃなくて人じゃないですか」と言ったんですよ。そしたら神田先生がまた「Surely!」と言ったの(笑)。
それで、「この学校でもし入るとしたら何を勉強したいの?」って聞かれたんですよ。僕は「私は信者っていうのにはなるつもりはありません。しかし、イエス・キリストがどんな人間かっていうのを知りたいと思っています。本当はイエス・キリストに会えれば一番いいと思うんだけど、2000年も昔の人だから、まあせめてイエス・キリストの心を持って生きている人といったものにお目にかかれないもんかと思っています」なんてこと言ったんですよ。そして「イエス・キリストの事をギリシャ語で丹念に読んでみたいと思うけど、この学校は英語の学校だからそれは無理でしょう。あと、ソクラテスという人物にも関心を持っていて、彼の言葉もできればギリシャ語で読んでみたいです。まあ、それはこの学校の仕事じゃないと思うけど」って言ったんですよ。「そのほかに何かあるか?」「いや、何もありません。さようなら」って帰ってきたんですよ。当然落第すると思っていましたけどね。そしたらなんと1週間後に合格通知が届いたんですよ。いや、「変な学校だな」と思いましたよ。俺みたいなできない奴が入るとは、よっぽどできない奴ばっかり入ったのかなと最初思っていたけど、入ったら新保満なんかもう最初から英語できましたからね。大和田(康之)もそうだったし、同窓生の中にはもう英語の先生みたいな人がいました。
富岡:
しかし、面接では神田先生の心に刺さるアピールをされましたね。ギリシャ語もあるし、哲学もあるし。
川田:
いや、そんなこと全然知らないからね、神田って誰だなんて全然知りませんから。だからまあ、偶然と言えば偶然だね。
富岡:
いや、でもその「学校は建物ではない」っていうのも湯浅先生には相当響いたでしょうね。
川田:
それが入学式の日にね、建物の2階の角から、「川田君!」って呼んでいる人がいるでしょ。「え、俺の名前なんか知っている人いるんだ」って見たら、例のその背の低い先生なんですよ。それが湯浅八郎先生だった。で、窓からこうやって、こうやって手を振ってたんですよ。それで「上がってこい」という意味かと思って上がっていったら「学長室」って書いてあるじゃないですか(笑)。ええー、俺は学長って人に何てこと言ったんだと思いましたよ、その時に。もうだいぶこう、ぞんざいに喋っていましたからね、ヤケクソで。そしたら先生が出てきて、握手してね。「川田君おめでとう。僕、君の来るの待っていたんだよ。君の言う通り、学校は人だ。教師と生徒だ。これから一緒になっていい学校作ろう」って言われたんですよ。
富岡:
素晴らしいですね。それで、湯浅学長は、一言で言うとどんな方だったんですか?
川田:
いや、とにかく日本人の常識を超えた人ですよ。日本人の常識だったら、あんなひどいこと言った奴をね、握手してね、「君が来るのを待ってたよ」なんて言わないですよ。もう反対でね。胸を広げて「待ってた」って感じじゃないですか。いやあ、とんだところに入ったなと(笑)。俺も、これはそう言った以上はね。やっぱりふざけてはいられないなと思いましたよ。
富岡:
で、神田先生の方は……
川田:
神田先生はね、入学試験ではお会いしましたけど、初め僕らはフレッシュマン・イングリッシュばかりですから、先生の授業は取ってない。ところがね、しばらくしたころ、なんとそのドクター神田から声をかけられまして。「君、君、君」って僕に言うんですよ。 「君が面接で言ったこと、僕はちゃんと覚えているよ」っておっしゃった。それで後で知ったんですけど、なんとその先生、ギリシャ語の先生だったじゃないですか(笑)。いやあ、これはもう逃げられなくなったと思いましたね(笑)。
富岡:
いやあ、運命ですねえ。
川田:
だから、今どんな入学試験やってるか分からんけれども、今だったら絶対僕は落ちてましたね。
富岡:
かなりたくさんの人たちが受けたって聞いてますけどね。
川田:
いや、僕はそんなの知らないけどね。30倍とかって聞いてたね。
富岡:
語学研修所時代に、他に印象的だった先生はいらっしゃいましたか?
川田:
いや、なにしろ僕は外人っていうのを知らないところで育ってましたからね。だから、見るもの聞くもの新しいことばっかりですよ。ゲアハートっていう先生がいらっしゃいました。仙台にいた先生ですね、元々は。英語科の学科長。まあ、プロナンシエーションを鍛えられました。僕は「ジス」とか「ザット」とか、そういう発音ですから一番叱られて。僕が発音すると「ブルルルッ」とかってやるんですよ。「そんなのは英語じゃない」って。それで、耳引っ張られたりとか色々されて嫌だったですね。 だけど、実はすごくユーモアのある先生なんですよ。偉い先生なのに全然威張ったところが無い。僕は大学の教授っていうのは神様に近いような人だと思ってましたから。湯浅先生もそういう方でしたね。だから、「あ、この学校は全然俺の感じとは違う学校だな」と思いましたね。
富岡:
日本人の英語の先生もいらっしゃった?
川田:
その頃は、日本人の英語の先生っていうのは、飯野紀元(のりもと)先生がいらっしゃいましたね。元々哲学やってた人ですけど。アメリカで勉強した人ですから英語の達人でした。英語のリーダーかなんか読んでくれたな。それから、マッケンジー先生。奥さんも先生。奥さんはプラクティカル・イングリッシュだったかな。先生は長いストーリーをこう話して、それを聞いて理解するような訓練をしてくれたと思いますけど。とにかく、一生懸命やってくれたね。こっちは駄目だから全然ちゃんと答えられなくて(笑)。それで大学に入れてはもらったんだけど英語があんまりしんどくなって、「これはやっぱり1年もたないわい。まあやめて、もういっぺん国立大学でも受け直すか」なんてつもりでいたんですけど。それにストップかけてくれたのは、仲間ですよ。クニハウスの仲間たち。茅野、松永、竹前(昇)、丹波、新保。みんな僕より年下ですけど、彼らはみんなある意味信仰を持ってるわけですよ。僕はまったくの異邦人でしかもちょっと年上なもんだから。ちょっとこう距離がある感じだったんです。ところが彼らは昼になるとね、「川田君、ちょっといろいろ教えてくれや」とか言っちゃって僕を呼ぶわけですよ。でもそれは、みんなが寮でもって作ってくれたサンドイッチをね、1切れずつ僕に分けてくれるっていうのが魂胆だったらしいの。僕は下宿してたけどその頃は食糧難で昼飯持っていかないわけよ。朝と夜しかご飯つきませんよって言われて。で、三鷹なんかその当時は食いもの屋なんか全然ないですから、それこそ「武士は食わねど高楊枝」でね。昼休みにはどっかに隠れてたんですよ。それを見て気がついたんですかね。で、6人が僕を呼んでくれて。みんな1切れずつくれるわけですよ。と、僕が6切れになって彼らが5切れになるわけですよ(笑)。毎日毎日呼んでくれて。
富岡:
なるほど。
川田:
で、そのうちに新保あたりが発案したのか、彼らは屋上でもって毎朝祈り会をやってるわけ。それには僕は誘われなかったんだけど、少し早めに学校行くとでっかい声でもって「アーメン!」って声が聞こえるわけですよ。「誰だろう」と思って行ったら、例の連中たちがね。授業始まる30分前に集まって。毎朝、雨が降っても、学校のこと、世界のこと、自分たちのことを祈ってるわけですよ、その6人が。僕もその時は肝を冷やされてね。「ええー、キリスト教徒っていうのはこういうことするのか」と思ったですね(笑)。で、そのうちまあ、入れてもらうことになって。真似ごとの祈りもするようになったりしながらね。それでICUをやめなかった。一つのやっぱり粘着剤ですよ。
富岡:
それで、基本的にはその語学研修所の皆さんは全員1期生として入学されたんですか?
川田:
だいたいそうですね。何人かは語学研修所だけでやめちゃったのもいましたけどね。多くが1期生として入学しました。それで、0期生はフレッシュマン・イングリッシュを終えちゃったわけだから、同じ1期生でも新しく入ってきた人たちと一緒にやることがないわけです。そこで今度は、ジュネエドっていうのが出てきて。神田先生の出番になるわけ。
富岡:
そうですか。じゃあ1期生として入った人たちは1年目はやっぱりフレッシュマン・イングリッシュを…
川田:
そうです。でも0期生の中で成績がアカンのはもう一回やり直させられるわけ。僕なんか大候補者だったんですけどね(笑)。間一髪で2回ダブらなくてすんだ。で、その代わり僕たちは今度5年目になったらないわけですよ、授業が。取らなきゃならない単位がない。だから一年間まあ自由研究っていうかな。一年間論文書いたり政治学や経済学の本を読んだりしましたね。それから。篠遠喜人(よしと)先生だとか原島鮮(あきら)先生みたいな理論物理学や遺伝学のオーソリティがいらしたから顕微鏡を見せてくれたりしました。
富岡:
ご自身が哲学を専攻しようとか、経済学をやろうとか、それはいつ頃お決めになられたんですか? もう入学した時に決まっていた?
川田:
いやいや、それはみんなバラバラでね。ただ、1年目からは人文、社会、自然とかっていう大まかなディビジョンはあったんじゃないかな。もう最初から。でも僕の場合は、まあ。神田先生だから。逃げられないわけだから(笑)。
富岡:
ギリシャ語。
川田:
ところが、神田先生につきあうとね、結構時間取られるんですよ、ギリシャ語勉強するの。 5、6行のギリシャ語を暗号解読みたいにひとつひとつ「これは時制は何だ」とか言うわけだから、それをいちいち調べていったら一晩かかるんですよね。そんなふうにずいぶんストラグル(struggle)しましたね。それにしても湯浅先生や神田先生の最初のあの面接がやっぱり僕の出発点だったし、ある意味では到達点でしたね。到達点というのは、若い人に接するときはどういう態度で接するものだということを考えさせられたという意味で。
富岡:
0期生として5年で卒業されたんですね。
川田:
ええ。で、今度はソクラテスをやりたいと思ったんです。神田先生は新約学をやらせたいと思ってらっしゃったのかもしれないと思うけど。でも、僕は最初にソクラテスって言ったもんですから(笑)。神田先生は「そうか。じゃあ日本でプラトンやソクラテスなら田中美知太郎君かな」っておっしゃって。田中先生のお名前は僕も知ってましたからね。「先生、京都(大学)ですか?」って言ったら「うん。京都もよかろう」とおっしゃったので、言われた通りに。
富岡:
そうでしたか。
川田:
まあ、田中先生と神田先生はね、先輩後輩のあいだですから、よく分かってて。田中先生も「へえ、神田さんがそんなこと言いましたかね」なんて言ってね「そうか、じゃあ来てやってみるか」というような感じでね。受け入れてもらいました。
富岡:
神田先生は元々東大でしたか?
川田:
東大でしたね。それでやめられて、退官されてICUにこられた。
富岡:
当時まだ東大にお勤めしていらっしゃったんですか?
川田:
そうです、そうです。50……5、6だったんじゃないでしょうか。普通だったら定年まで東大にいて、その後来るっていうでしょう。東大途中でやめて来る人は少ないじゃないですか。神田先生はICU1年目から来たんですよね。
富岡:
あと、ブルンナー先生を呼んだのも神田先生がお声がけくださったって聞きますね。ブルンナー先生のこともよく覚えていらっしゃいますよね?
川田:
あ、それはどっかに書いたから、くどい話になるけどね。ブルンナーっていう名前は僕でもその当時は知ってましたよ。バルトとかブルンナーっていうのは知ってました。どんな人かは分からないけど、とにかくすごい人らしいぐらいのことは知ってた。だけど、ブルンナー先生がこの学校に来るなんて想像もできないことでした。日本で神学大学を卒業した学生が博士論文を書くためにスイスの学校へ留学して、そこで教わるような先生でしょう? なんでそんな人がフレッシュマン・イングリッシュを終えたばっかりの学生のところへ来るんだろうと思ってました、初めは。それで、ブルンナー先生はドイツ語かフランス語ですよね。母国語はドイツ語だけどフランス語にも堪能で、その二言語は自由自在だったんでしょうね、きっと。でも我々には英語で話される。伝えられるところによると、日本の国立大学の先生たちが、「ブルンナー先生、日本ではドイツ語の方が英語よりも品格がありますから、ドイツ語で教えた方がいいですよ」って言ったんだけど、ブルンナー先生は「No」って言った。 「ドイツ語は私の母国語。日本人たちには第二外国語。第一外国語の英語でさえも大変なのに、若い人たちに、そんな苦労をかけることはないでしょう。英語は私にとっても外国語、彼らにとっても外国語、英語でやりましょう」って。 なので、ブルンナー先生は英語で話す。だいぶドイツ語訛りの入った英語でしたけどね。そして、湯浅先生がおっしゃってました。「今度来るブルンナー先生っていうのは、世界三大神学者の一人だ。はっきり言ってあなたたちがお目にかかれる人じゃないですよ。全神経を耳にして聞きなさい」って。それで、教授たちもずっと後ろで聞いてましたよ、ブルンナー先生の授業を。
富岡:
先生たちもですか。
川田:
それで、最初の授業でブルンナー先生はみんなに向かってニコニコッと笑って、「Ladies and gentlemen」って言ったの。先生が生徒にそんなこと言うことないでしょ、普通だったらね。そうして「I am Emil Brunner from Switzerland.」って言った。これは分かります、僕も(笑)。「I came here, not as a theologian, but as a friend of every one of you.」って言った。これはね、僕みたいな英語の分からない奴でも、忘れられなかった。今でも覚えているんだから。これもやっぱりびっくりよ。もうびっくりの連続でしたね。
富岡:
ブルンナー先生は奥様も一緒に滞在されてたんですよね。
川田:
ええ、学内住宅に。神田先生の隣に住んでた。ブルンナー先生、神田先生のお二人はそれこそ「肝胆相照らす」仲でしたね。ここにも神田先生、ブルンナー先生のこと書いてあるでしょ。ブルンナーはICUのキリスト教の魂だった、みたいなことが書いてある。まあ、最初の口開きの言葉がね、やっぱりびっくりだったね。フレンドなんてね。もう、どんな口から出てくるんだっていう感じじゃないですか。
富岡:
3人の方が、ブルンナー先生から直接洗礼を受けたっていうお話をこの前伺いましたけど…
川田:
うん、熊沢さんとか。ICU生にはいないんじゃないかな。誰だろう?
富岡:
ついこの間亡くなられた渡辺さんっていう3期の方がそうだったおっしゃってました。あと、栗山(藤田)昌子さん。
川田:
ああ、そうですか。僕がはっきり知っているのは熊沢さんっていう神学者ね。彼と大木英夫の2人はアシスタントだった。その2人は僕らと年が2つか3つしか違わなかった。 0期生は生意気でね。ブルンナー先生や湯浅先生、神田先生っていうのを最初から知ってるから、助手なんて大した人間だと思っていないわけですよ(笑)。だから、ずいぶん生意気だったと思います。
富岡:
学校生活の方はいかがでしたか? アルバイトとかは学内で?
川田:
電話の交換手。それから、廊下の掃除。あとは、教授宅の走り使い。まあ、便利屋だね。ついでにご飯もご馳走になって。なんていうようなことはやっていましたね、よく。それでもアルバイト代はちゃんとくれました。電話の交換手やりながらご飯をいただいてアルバイト代もらったんだから結構な身分ですよ(笑)。茅野と松永なんかもそうだったな。まあ、そんな時代ですよね。
富岡:
この間の1期生の会の時にね、桜の木を植えたっていう人がいましたねえ。
川田:
桜の木、うん。はい、はい。ただ、ねえ。僕ももう忘れちゃいましたけど一緒にやったんだと思います。うん。湯浅先生もやっておられたと思う。
富岡:
あと、マクリーン牧師にはお会いになりましたか?
川田:
いや、知らない。知らないですね。
富岡:
献学の時にね、1回だけICUにいらっしゃったようですけど。あと、ルーズベルト夫人は覚えていらっしゃいますか?
川田:
ええ。あの方が講演なさったのは記憶ありますね。ええ、聞いてたと思いますね。
富岡:
1952年、53年に本当にいろんな人たちが協力してICUが建てられて、先生方も主役ですけど生徒さんたちも学生の皆さんも主役ですよねえ。
川田:
だってね、学生を友達だと思ってるから、先生たち。規約も何も無いわけだから、初めは。松永君なんかは規約を作るのに先生と一緒になって作ったんじゃないですか。まあでも、さすがに「神田さん」とか「湯浅さん」なんて言わなかったですよ、みんなやっぱり「先生」って言いました。やっぱり先生と言わしめるオーソリティがあったと思うな。人間の中に。決してなんか威張りくさったものじゃなくてね、さっき言ったような意味で。やっぱり、一種の出会いだったと思いますね。で、僕はそこで、キリストの心でもって生きている人に出会いたいって思っていたのだけれど、湯浅、神田、ブルンナーなんて人を見ているとこういう人間を作るキリスト教っていうのは馬鹿にならんもんだと思ったですよ。だから、俺もちょっと見世物でも見るようなつもりでいても、キリスト教や聖書のことなんか分かるはずないと思いましたね。本当に良き師、良き友に恵まれましたよ(笑)。
富岡:
その後はICU教会に通われてたんですか?
川田:
あ、僕は違います。松永希久夫君に「俺も教会行こうかな」と言ったら「そうか。お前みたいなやつは、信濃町(教会)がいいだろ」って言うんですよ。なんで信濃町? 場所も知らないわ、始めは。で、そこへ行ったんですが。 そうしたらそこに石原謙だとか、斎藤勇(たけし)だとか、山谷省吾だとか、宮本武之助だとかっていう、名だたるクリスチャン・スカラーズたちが集まっていたんですね。私は初め全然そんなこと知らないから、石原先生の定席に座って先生の聖書、便利だなと思って読んでて(笑)。隣に来た老紳士が、ジロッと見みたんでしょうけどね(笑)。叱りもしないでね。最後まで僕に貸してくれて。後から「あの先生が、前東京女子大学長の石原先生だよ」って聞いて、もう跳びのいた感じですよ。その後先生のところへも伺って色々お世話になりました。本をいただいたり。 「君、君!」って言って、なんというか叱られ口調で色んなことを教えてくれたのは斎藤勇先生でしたね。まあ、良き師、良き友のおかげで今日あるってことは、これはもう誰が何と言っても自分自身の中で疑うことの出来ないことだからね。
富岡:
なるほど。 それから後輩で川島(重成)先生や斎藤和明先生が入られた?
川田:
和明は1期下でした川島君はずっと後ですね。僕が卒業した後に入ったのかな。全然面識がありませんでした。僕が東京にいれば知り合う機会もあったけど、京都に行って7年もそこにいましたから。
富岡:
1期生の頃は、まだ農場がありましたよね?
川田:
ええ。クニハウスっていうのは農場の真ん中にあったんですよ。それで、学生も農場でも働いてたと思うんですよ。僕はやりませんでしたけどね。いくらでも仕事はあったと思いますよ。だからまあ、三鷹から外に出て畑仕事なんか行く必要はなかった(笑)。 どんどん学生を使いましたし。学生もまた喜んでね。単なる金稼ぎじゃなくて喜んでやってました。そんな良き時代でしたけど、物は無かったです。最初は図書館なんか当然無いわけで、先生たちが蔵書を持ってきて棚に並べてね、好きなの持って行って読んでいいよ、みたいな感じでしたよ。プリンストン出の政治学の先生が非常にプラトンが好きでね、僕はそこでその先生が本棚に置いたネットルシップという人の『Lectures on the Republic of Plato』という本を借りてきて、字引きと首引きで読んだ覚えがあります。それが後から京都に行っても役立ちました。政治学の先生でもプラトンの講義ができるようなちゃんとした土台があったってことですよ。それがリベラルアーツという言葉の。一つの姿だったかなと思いましたね。
富岡:
あの、初代の教育学部長のカール・クライダー先生のことってあんまり私達聞かないんですけど、どんな先生でしたか? クライダー先生はゴーシェン大学の学長かなにかをしばらく辞して来てくれたとか。
川田:
多分そうかも。まだ30代でしたよね。クライダー先生は経済学者ですからね。経済学者として偉いっていうことはもちろんそうなんですけど、メノナイトの信徒で敬虔なクリスチャンだったってことで、僕も本当に心打たれましたね。教会から続く広い道があるでしょ。あれを歩いていると、クライダー先生が車をちょっと止めてくれてね、「乗りなさい」なんて乗せてくれてね、三鷹まで行ったりして(笑)。ありましたよ、何回か。
富岡:
クライダー先生も、トロイヤー先生も、実はメノナイトのバックグラウンドがありました。
川田:
ああ、トロイヤーさんもメノナイトだったのか。
富岡:
あの、その遣わされたのはメソジストみたいですけど、バックグラウンドはメノナイト。だからICUの平和とメノナイトとは、おおいに関係があるんだろうなと思います。
川田:
口に出して言わないけど見るからにそういう先生でしたよ。ああいうのをパーソナリティっていうんでしょうな。
富岡:
湯浅学長は、みなさんの名前を覚えてたっていう話を聞きましたが。
川田:
覚えてた、覚えてた。湯浅先生は我々を3人か、時には5人ぐらい学長宅に招いてくださってね。ちゃんとディナーの食べ方を訓練してくれました。パンは絶対に両手で持って口で噛んじゃいけませんとかね(笑)。それから、フォークを握る時にも、げんこつみたいに握っちゃいけませんとかスープはお音を立てて吸っちゃいけませんとかね。いろんなことを教えてくださった。
富岡:
先生方の奥様方も。
川田:
奥様方も先生にまさるエデュケーターでしたよ。 神田夫人なんていうのは、ある時には先生より厳しかったものね。そういう意味では、まさに一体となった方々でしたね。クライダー夫人もそうだった。
富岡:
寮母さんはどのような方でしたか?
川田:
寮母さんは竹内(瓊江 たまえ)さんと言って、確か台北帝国大学の医学部長かお医者さんの奥さんだったんです。だから本来我々が、竹内さんなんて慣れ慣れしく呼ぶような人じゃないわけですよ。ところが我々はものおじしなかったっていうか、失礼だったところも含めてあったと思う。思い出すのは御殿場の神田先生のところに行った時に、矢内原忠雄先生がいらっしゃって。我々がわあわあと喋っていたら、矢内原先生が「神田さん、この学生たちは礼儀を知らないね」と言われた(笑)。矢内原先生から見たら、学生が先生を先生とも思わないように見えて違和感を持ったかもしれませんね。
富岡:
いや、ICUのその先生と学生の距離感は独特で、やっぱりこれは東大にはないでしょうね。
川田:
いやあ、それは東大に行ってた人もそう言ってた(笑)。しかし、我々は湯浅先生や神田先生を、なんというか間違っても馬鹿にするなんてことないですからね。敬意を持った上での親しさですよ。先生の方もざっくばらんに話されるんですが、パーソナリティの持ってる重みっていうかGebildete(ゲビルデテ=教養人)っていうかな。そういうのをやっぱり感じましたよ。教育っていうものの中にはそういうものが「あるんだな」と思いましたね。うん。そういうのはちょっと、講義で格好良いこと喋ったからって身につくわけじゃないっていう風に思いましたね。
富岡:
それと、体育の先生は…
川田:
三隅先生って言ったっけかな。あ、うん。三隅先生は体育っていうよりはレクリエーションっていう感じでしたね。あの先生も本当に良い先生でね。あの先生の住宅に僕たちICUの時に入ったんですけど、お茶室があってね。三隅夫人はお茶の先生だから。躙り口(にじりぐち)からちゃんと入って、生徒たちが集まってお茶の会をするために、特別にそういう家を作らせた。
富岡:
すごいですね。
川田:
ええ。だから先生たちの住宅にはそこが住んでる人たちのライフとキャラクターっていうか、そういうのが出ているんですよ。神田先生のところは神田先生のところのたたずまいっていうのがやっぱりあってね。バラを大切にして自分でもって作ったりしてました。学内住宅は、便利だからとか安い官舎だから入るっていうものじゃなかった。 大学のポリシーというのがあったと思う。
富岡:
ブルンナー先生がいたのは神田先生の裏側ですか?
川田:
裏だったかなあ。とにかく隣ですよね。隣同士。
富岡:
その2つだけはね、ちゃんと、リフォームして、残ってるんですよね。
川田:
まあ、欲を言えばその建物に第二、第三の神田やブルンナーが住んでもらいたいと思いますね。くじ引きで当たったから入るっていうんじゃなくてね(笑)。それ自体がエデュケーションだと思います。やっぱりそういう人がいてくれる、そういう人、パーソナリティがいることがね、大切だからね。
富岡:
そうですねえ、本当に。本当にそうです。そろそろお時間になりました。今日は大変貴重なお話をいただいて本当にありがとうございます。