湊晶子先生インタビュー(2025年6月27日) 第1部
司会者:
それでは今日は、「湊晶子先生のお話を聞く会」ということで、主に、先生がいらっしゃった1960年代の、特に学園紛争の頃の歴史というのはあまり我々も知らないので、ぜひ参考にさせていただきたいと思っております。湊先生は皆さんもご存知のように、元東京女子大の学長でいらっしゃいましたし、前広女学院院長・学長でもいらっしゃいました。ICU時代は、ご主人の湊宏先生が準教授に迎え入れられ、奥様の晶子先生はアカデミックアドバイザーという責任をいただいてご家族で第一男子寮と第四女子寮のアカデミックアドバイザー用の住居に住まわれ、学生指導に当たられました。
司会者:
第一男子寮と第四女子寮のアカデミック・アアドヴァイザー用の住居に住まれて、お子さんを育てながら学生指導に当たられたという事しか知らないので、本日は当時の大学の様子等を交えながらいろいろお聞かせいただければと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
湊:
私共がICUにお世話になりましたのは、1962年度から1967年度までの6年間です。湊宏は有機化学の準教授として、湊晶子は第一男子寮と第4女子寮のアカデミックアドヴイザーとして(現在この制度はない)学生達と共に過ごしました。
1) 第一男子寮アカデミックアドバイザー時代
現在はこの制度はありませんが、当時は寮母さんが学生の身の回りの世話をし、アカデミックアドバイザーが学生の学業に関すること、精神的な指導などを任されていました。1962年に湊宏と私はアメリカでの学業を終えて帰国、夫湊宏はICUの準教授として、私は7か月の息子がおりましたのでアカデミックアドバイザーとして就任しました。本日何枚か当時の写真をお持ちいたしました。当時のエピソードはいろいろありますが、おはなしを始めると時間が長くなりますので割愛しますが、学生の皆様はICUキャンパスで成長され、卒業される時にはこの写真にございますように立派になられました。湊宏もこの写真にありますように、ICUの学生達を大変誇りに思っておりました。第一男子寮のアドバイザーの時に、もう一人男の子が与えられたのが次男の信明で、現在ICUの顧問弁護士を務めさせていただいております。
夫湊宏はオーガニックケミストリーが専門で、1961年ハーバード大学でドクターコースを終える頃に、ICUから秋田稔先生がハーヴァ―ド大学客員研究員として来られました。ICUに自然科学のデパートメントがないので、是非ICUに帰って自然科学のデパートメントをつくるように熱心に勧めて下さいました。1961年には長男が生まれていましたので、1962の年明けに子連れで日本に帰り、1962年4月にICUに赴任しました。1956年フルブライト奨学生として留学しました時は、一人一人でしたのに帰国した時は3人家族でした。この写真は子供がまだ1人だけの時の第一男子寮での写真です。あれから半世紀以上も経っているのに、私が広島女学院の院長・学長時代に、みなさん定年退職して広島の学長室まで訪ねて下さいました。これがその時の写真です。嬉しくて涙がこぼれました。湊宏は学生をこよなく愛し、研究と学生指導に当たっていました。有名な建築家稲富昭先生と共にサイエンスビルヂングを建て上げ、すべて軌道にのせてから、かねてから関係がありました都立大学の方に移りました。ICUへは非常勤講師としてかかわらせて頂きました。ですからICUには専任としては1962年度から1967年度までの6年間です。私は第一男子寮と第4女子寮のアカデミックアドバイザーのポストを退き、夫の退職と共に私も退職し、東京基督教大学および母校の東京女子大学で専門のキリスト教学、キリスト教史等を担当しました。湊宏も湊晶子もそれぞれの道に進みましたが、子供達は3人ともICU幼稚園で育てられ、長男は税理士として、次男は弁護士として、長女はパイプオルガニストとして今日があることを感謝しています。湊宏がICUの専任を辞するとともに、私たち一家は学外に住まいを移しました。
私たちがICUに居りました頃はまだ学園紛争のたけなわな時ではなかったのですが、根本敬先生が「ICUの学生運動・ピークに至る前段階」という記事の中で書いておられます時期に、私たちたちはICUで過ごさせていただきました。前段階とはいえ、大変な時代でした。ICUの学生さんだけだったらあんなに大規模にならなかったと思うのですが、あの当時、外部の学生さんがどっと入って来られて、D館、ディフェンドル・ホールを占拠しました。私は、アドバイザーとしての責任から占拠していた学生さんとも直接話しました。また、その運動を指導して居られ、D館の前に立って居られたた先生とも話しました。私はその先生に「ICUの学生だけにしてください」とお願いしましたら、「旅人をねんごろに取り扱え」と聖書は書いてあるだろうと言われました。そのような中でも秋田先生の旧約聖書研究会と私の新約聖書研究会は変わることなく続けられ、学生指導に対応させて頂きました。
第一男子寮のアドバイザーになって間もなく、二人目の子供が生まれることになり、もう少し広いところに住まいを移すために、学外の住まいを検討しておりました時に、大学から新しく建築している第四女子寮のアドバイザー用マンションは広く作られるので、是非続けてほしい旨依頼を受けました。私は女子学生の指導にもあたりたかったので、お受けしました。ベッドルームが二つと書斎、広いリビング・ダイニングがありましたので、子供が二人になっても十分対応できるので、移ることに決めました。
2)第4女子寮アドバイザー時代
第4女子寮は新しく、庭も広く素敵な寮でした。当時大学では毎年一年間のスケジュールでスタンフォード大学の学生を受け入れていましたので、第4女子寮には毎年20名位の学生が居られました。私はアメリカの女子寮生活も経験しておりましたので、彼女たちのお世話をするのは楽しみでした。しかし平穏な女子寮生活も学園紛争と共に色々変化して行きました。学園紛争時代危険を感じることもありました。学内の住宅にも、寮アドヴイザー住宅にもいわゆる塀というかキャンパスと住居との間に仕切りがありませんでした。そこで大学の方で、無断で入った場合は侵入罪として訴えられるように、縄で仕切りをつくって下さいました。
第4女子寮のアドバイザー・マンションには、玄関ドアと台所ドアが二つありました。学園紛争が激しくなって来たある日、夜中に仕切りの縄を越えて入り玄関のドアベルを押し続けた一人の男子学生が居ました。一般的には危険から身を護るためにドアは開けませんが、湊宏は拒まない人なので、ドアを開けました。そこにはよれよれのシャツに赤いプラスティックの入れ物を下げた学生が一人立っていました。夫は何かを求めてきている人は受け入れるという生き方をして来たので、「お入り」と言ってドアを開けました。D館の中に閉じこもっていたのかも知れません。疲れ切っており、シャツもよれよれでした。私が「赤い入れ物は何?」と聞くと、「灯油」と答えました。そして、「僕は明日4時に本館の前でこれをかぶって自殺する。」と答えました。
リビングルームのソファーに座って、何にも言わないのです。ただ黙っていつまでも座っていました。湊宏が前に座って、時々声をかけましたが沈黙の時間が続きました。私は立って、お台所に行き、お腹がすいているだろうと思い、「あったかいきつねうどん」を作り、「おあがり」とって言って彼の前に出しました。彼は何にも言わないで、すごい勢いで食べました。私今でも涙が出てきます、その時の光景を思うとね。戦って、戦って、行く場所もなくなって、生きることも死ぬことも出来なく、とにかく誰かにすがりたい思いで来られたのでしょう。私たちがドアを開けなかったら彼はどうなっていただろうと思います。「お入り」っていう言葉一つで、本当に心を開いたのですね。
一言も言わずにきつねうどんを食べて。それから、ポツポツと語り始めました。「朝4時に僕は死ぬ」と言うのだから、私たちは朝までお付き合いするつもりで、つき合いました。何にも喋らないで30分ぐらい沈黙したまま座っていました。そういう時が彼の心をほぐしたのでしょうね。あの一杯のきつねうどんと、あったかいお茶が。 朝4時まで、時々彼は喋る、私達は静かに聞いてあげる。
いよいよ4時になった時に、「僕、この灯油を捨てます」と。第4女子寮のリビングルームの窓を開けると、綺麗な芝生の庭でした。湊宏が子供達のために作った鉄棒のところまで行って、ポロポロ涙を流しながら、灯油を捨てました。もう一度リビングルームに戻り、熱いお茶を入れてあげた時、私は思わず「命は、人生一回しかないのよ」、「良かったね」と言いました。彼は声をあげて泣きました。ほんとうに嬉しかったです。彼は死を選ばず、生きる道を取り戻したのです。当時大学は閉鎖されていましたので授業はありません。私の聖書をあげて、世が明けてから送り出しました。
それから長い年月が経ち、私が東京女子大の学長に就任した最初の入学式の日に、入学した娘さんを連れて学長室にお父さんが訪ねて来られました。「ICUで湊先生にお会いしなかったら今の自分はありません。娘をよろしくお願いします」と。「湊先生、僕を覚えていますか?」と。しばらくして、「あの第4女子寮の彼があなたですか!」と。「先生に助けてもらった僕です。娘、よろしくお願いします」と。私は感動のあまり涙がこぼれました。学園紛争って大変なことでした。命がけでしたね。紛争に参加した学生達も命がけ、大学の先生方も命がけで対応しました。「今こうして再会できたことは、私の人生の宝物です」と言って学長室から送り出しました。
もう一件、学園紛争時代の事をお話させてください。ある日の夜中に、プリンスホテルから電話が来ました。「ICUの第4女子寮の留学生の学生さんが6階の部屋から飛び降りるというのを留めて、今こちらで預かっています。迎えに来てください。」と。当時スタンフォード大学の留学生20人ほどが第4女子寮に住んでいました。湊宏が電話に出て、事情を確認し、パブリカという小さな車で夜中に迎えに行きました。当時まだ若い先生で車を持っておられる方は少なかったです。夜中の1時彼女を連れて第4女子寮のアドヴイザーの部屋に戻ってきました。学生寮の自室に返すことはできませんので、それから一週間私たちのところで預かりました。
私たちの書斎を片付け、彼女の部屋をつくりました。長男義和が3歳、次男信明が1歳の時です。家族的な雰囲気の中で生活していくうちに彼女は自分を取り戻していきました。彼女は一年間の学業を終えて無事にアメリカに帰りました。彼女は大学を無事に卒業し、更に学びを重ね大学の教師となりました。感謝ですね。
6年間のICU時代は、学園紛争の前段階の時期と根本敬先生は書いておられますが、湊宏にとっても私にとっても悔いのない日々でした。第一男子寮での日々、第四女子寮での日々、走馬灯の如く色々思い出されますが、悔いのない日々でした。
司会者:
シーベリー、チャペルについて何か覚えておられますか。
湊:
三角チャペルと言われていたチャペルですね。明確に覚えておりませんが、秋田先生と私と後何人か居られましたが、学内で聖書研究会を指導して居られた先生方が、指導をやめるようにいわれ、シーべリー・チャペルに閉じ込められたことがありました。聖書研究などの活動をストップせよとの主張だったと思います。ICUのCを無くしたらICUではなくなることを主張して、秋田先生のリードで祈り会をシーベリー・チャペルでもち一夜を過ごしたことがありました。
司会者:
ピークは実は2回あって、67年も大きなピークでした。68年にちょっと静かになって69年にまた第二のピークを迎えています。
湊:
そうですか。大変な時に私たちは寮アドバイザーをつとめていたのですね。記憶は定かではありませんが、三鷹の警察官が何度か事情を聴きに来られたことがありました。私たちが在籍していた時に機動隊までに発展したかどうかは定かでありません。夫の湊宏が存命であれば、はっきりしたことがわかると思います。残念ながら彼は44歳で脳出血のために他界しましたので、確認することが出来ません。
武田清子先生は大先輩ですが、キリスト教史という専門分野が同じでしたので、よくお話させて頂きました。先生は日本のキリスト教史がご専門で、私は初代教会史が専門でしたので、時代は異なりますが歴史的視点では一致しておりました。武田先生もイエスとノーを明確にされる方です。私も同じです。そうでなければ、大学のトップは務まりません。私が東京女子大学の学長に就任した時は二つのキャンパスが統合した時で大変でした。ICU時代はまだ30代でしたが、問題解決への姿勢は同じでした。学園紛争時代から学んだことは私の長い人生に大きなメッセージとして残っています。
司会者:
教授会がシーベリーで行われたとも聞きましたが。
湊:
教授会がシーベリーで行われたかどうかはわかりません。
(第1部終了)