湊晶子先生インタビュー(2025年6月27日) 第2部

司会者:それでは、これからは質問の時に入らせて頂きます。

湊晶子さん: 私はお話するだけお話いたしましたので、そちらからの質問に応える形式で進めていただければと思います。

司会者:アーカイブズに残されていた人事記録の中から、各寮のアドバイザーの年表を作りました。湊先生はここからここまで、あ、こっちだ。ここが第1男子寮で、そこから移られ、第4女子寮のアドバイザーをされたということですね。

湊晶子さん: はい、そうです

司会者: 1960年代には、各寮にアドヴイザーが居られたのですね。この表を見て何か思い出されることはありますか。

湊晶子さん: 私は第1男子寮の時も、第4女子寮の時もアカデミック・アドバイザーとして大学からお願いされていました。夫湊宏は理学館をゼロから建設する責任と授業・学生指導等で忙しく、最初から寮アドバイザーの仕事は私の責任でした。

司会者: 授業も担当されたのですか

湊晶子さん: 私の専門は初代教会史と女性史ですから勿論授業も持ちたかったのですが、夫の仕事を優先し、私は「子育てをしながら対応できる寮のアカデミック・アドバイザーのお仕事」をさせていただきました。学生たちのための聖書研究会も担当させて頂きました。前半で述べましたように私たちをICUに呼んで下さったのは秋田稔先生でしたので、秋田先生とコンビで秋田先生が旧約聖書研究会を、私が新約聖書研究会を担当しておりました。

司会者: 井口に移られた後も通いで、第4女子寮の指導に当たられましたか?

湊晶子さん: いいえ。湊宏も私もICUを引退し、西野の住宅に住まいを移しました。丁度その頃、神学科だけの短期大学を4年制大学に昇格させようとしていた大学が国立にあり、是非そのビジョンの実現に加わってほしいと依頼され、私はキリスト教史の講義と同時に文部科学省への四年制大学への昇格手続きの中核を担いました。千葉にキャンパスを移し、東京基督教大学として認可されました。

司会者: 先ほど、第4女子寮にスタンフォード大学からの留学生が20人ほど来られたというお話がありましたが、そのうちの1人の方が別の建物から飛び降りようとしたと伺いましたが…

湊晶子さん: 当時毎年一年計画でスタンフォード大学から留学生を約60名受け入れていました。第4女子寮は新しく設備が整っておりましたので、毎年20名前後受けいれていました。丁度学園紛争の時期でしたので、精神的に動揺する学生も出て来ました。先程もお話いたしました一人の留学生は個人的にも問題を抱えておられ、ある日大学の寮ではなくプリンス・ホテルの部屋から飛び降りようとしていたところを助けられたのです。

司会者: 学生運動は日本人学生が中心でしたが、留学生にも大きな影響があったと思います。アメリカから来た留学生は勉強したくてICUに来たのに、授業がなかったり、学内の混乱に直面して不満だったのでしょう。

湊晶子さん: スタンフォード大学からの留学期間は一年でしたから留学生達は当然不満でした。

司会者: そうすると、このホテルから飛び降りようとした女性も、そういう不満からですか?それとももっと別の個人的な悩みを抱えて…

湊晶子さん: 個人的な悩みの方が大きかったと思います。具体的には申し上げませんが。勿論自分は勉強しようと日本に来たのに、授業はない。それも1つ。それと、個人的問題でした。私が今ここでお話することは控えます。私は彼女の精神的に行き詰っていた様子を察知して、母親が子供を理解する思いで、我が家で一週間預かりました。

司会者: シーベリーチャペルに一晩閉じ込められたというお話がありましたが、もしよろしければもう少し詳しく伺えますか。

湊晶子さん: そうですね。湊宏は化学の教師として大学での教育に専念していましたから、アドバイザーの私とは立場が異なります。ですから夫は閉じ込められなかったのですが、私はあのD館ディフェンドール会館を占拠している外部からの学生を、ICUキャンパスからそれぞれの大学に帰してほしいと直接交渉を行いました。勿論断られましたが、それが主な原因でシーベリーチャペルへの監禁の対象になったのでしょう。当時の食堂は現在とは違う場所にあり、入り口の右側に大きな掲示板がありました。「秋田稔先生に告ぐ」と「湊晶子先生に告ぐ」と大きな貼り紙を出されたことがあります。「聖書研究会をやめよ」と。シーベリーチャペルに閉じ込められたのは秋田先生をはじめキリスト教関係の先生が多かった様に思います。

司会者: D館が占拠されていた時に、湊先生もD館を明け渡すように具体的に行動されたのですね?

湊晶子さん: そうです。私は反発されました。先程もお話しましたがICUの先生のお一人がD館の入り口に立って居られ、「聖書に何と書いてあるか。旅人をねんごろに取り扱え」と反論されました。先生のお名前は知りませんでしたが、とても背の高い先生だったことは覚えています。 湊先生はクリスチャンでしょう。「旅人をねんごろに扱えと聖書に書いてあるではないか」と。

司会者2: 本当に監禁されたのですか?

湊晶子さん: 監禁されました。当時カナダ・ハウスという女子寮のアドバイザーをして居られた物理学の後藤先生もご一緒だったと思います。先生もクリスチャンでした。

司会者2: その時、古屋先生は居られましたか。古屋先生も監禁されたと言っておられましたが。

湊晶子さん: 古屋先生は居られなかったと思います。多分別の時ではないですか。

司会者: 何人ぐらいの学生かシーベリーに先生方を連れ込んだのですか?

湊晶子さん: よく覚えていませんが、4人ぐらいだったと思います。

司会者: 学生達は何を求めて来たのですか。自己批判しろという事ですか

湊晶子さん: そういうことではなかったです。キリスト教批判でした。私が主張していたことは、「ここはICUです。ICUの学生として議論したいので、もしここに外の学生が居られたら各々のキャンパスに帰ってほしい。」と主張しました。4人のうち3人は外部からの学生でした。私はそれ以上議論しませんでした。彼らはシーベリー・チャぺルに私たちだけを置いて、帰って行きました。

司会者2: 当時は活動家の学生と、全然そうでない学生さんたちもたくさんいたと思うのですが、その方達の当時の様子も教えていただきたいですね。

湊晶子さん: 第1男子寮の学生さんの中には、そんなに過激に運動していた学生は居られなかったと思います。第1男子寮のアカデミック・アドバイザーを務めたのは1962~1964年までです。当時の卒業生も皆さん社会で活躍された方々ばかりです。もう皆さん定年退職しておられますが、今でも年賀状交換等で交流のある方も何人かあります。私が81歳から88歳まで広島女学院の院長・学長を勤めましたが、珍しいお菓子を持って学長室まで何人も訪ねて下さいました。

当時北海道とか沖縄からICUに来ておられた学生方は短い冬休みに郷里に帰らないでキャンパスに残る学生さんが多かったです。年末年始を第1男子寮にそのまま居られました。私は大きなお鍋に一杯お雑煮やお汁粉をつくりました。卒業して初給料をいただいたとプレゼントをもって来て下さいました。特に第1男子寮に居られ現在広島に住んで居られる岩田啓作さんは、当時の写真を最近沢山送って下さいました。嬉しかったです。その中に湊宏と一緒に撮った土屋隆一さんの写真もありました。今日もって参りました。

司会者: 明日ね、その土屋隆一さん、来ますよ、大学に。

湊晶子さん: え、明日ですか。お会いしたいです! 懐かしい! よろしくお伝えください。

司会者: 貴重なお話だなと思ったのは、ICUのオルガンを入れられた時に、万博の会場まで湊先生が行かれたと聞いたのですが。

湊晶子さん: はい、万博の会場まで一万田尚登元日銀総裁と御一緒いたしました。他にも何人か居られましたが。

司会者: その経緯をちょっと、お話いただけますか。なんで一万田さんと一緒に…

湊晶子さん: 一万田さんとは個人的にもフルブライト関係等色々関係が深かったのですが、私がアメリカから帰国して1962年からICUにお世話になりました頃は丁度日銀総裁を退かれ、少し時間的余裕がおありになられた時でした。一万田さんから「1970年の大阪万博の見学グループ」に誘われ参加させて頂きました。

司会者: そこでパイプオルガンと出会ったのですね。

湊晶子さん: オーストリア館でしたかドイツ館だったか忘れましたが、パイプオルガンがありました。 一万田さんはすっかりその音色に圧倒され、感動されて東京に帰られました。ICUではすでに初代理事長でいらした東ケ崎潔初代理事長のご配慮により、リーガー社のパイプオルガンが設置されることになっていました。しかしそれには多額の資金が必要でした。一万田さんは心血を注いで募金運動を開始されたのです。パイプオルガン設置のみならずキリスト教主義大学のために募金活動を熱心に続けられました。私はパイプオルガン設置の募金のお手伝いもさせていただきました。   私がパイプオルガンをICUに設置することに熱心だった理由

1966年に東京女子大学同窓会主催の「ヨーロッパ8か国の歴史と教会音楽の旅」に参加し、どの教会にもパイプオルガンが設置され、その音色に圧倒されたのです。この時を期に私の日々の祈りの中に、もし男の子二人の次に「女の子が与えられたならばオルガニストにさせて下さい」という祈りが加わりました。神様は二年後に女の子を与えてくださったのです。無条件に「恵子」と名付けました。私の個人的な願いを本人には一度も言わず、私の祈りの中で絶えず覚えて祈りつつ子育てをしました。それから18年後、彼女が東京芸術大学オルガン科に合格した日の夜のお祝い会の時に、生まれたその日から祈り始めたことを伝えました。涙、涙の感謝会でした。天の御国で湊宏も喜んでいたことでしょう。一万田さんとご一緒に万博に行ったことからICUのオルガン設置、娘のオルガニストの実現にまでつながったことに不思議な神の導きを覚えています。

司会者: テーマが飛びますが、フルブライトでアメリカいかれたそうですが、いつ頃ですか? 

湊晶子さん: 私は1956(昭和31)年にフルブライト奨学生の合格者、男性32名、女性3名と共に氷川丸で2週間かけてアメリカに留学しました。当時はまだ占領下にあり、円も自由化されていませんでしたから、全国で2万人の希望者が受験し、35名が選ばれました。私はホイートン大学大学院で新約学で修士を終えた後、ハーバード大学で初代教会史の資料収集と学びを続けました。その後の事は前半で詳しくお話いたしましたので参考にしてください。

司会者: 話は飛びますが、前半でICUの寮アドバイザーのお話を詳しく伺いましたが、当時、寮母さん以外に寮アドバイザーさんと両方いらっしゃったのですね。

湊晶子さん: はい、そうです。寮母さんはお掃除とか学生さんの生活一般の事を、アカデミック・アドバイザーは各寮に一家族ずつ配置されており、学生の進路相談をはじめ、悩み相談等カウンセラー的仕事をしました。よろず相談所でした。今回のインタビューの前半で詳しく述べましたので参考にしてください。

司会者: 今は、もうファカルティ・アドバイザーの制度はありません。

湊晶子さん: 多分、学園紛争時代に無くなったと思います。残念ですが。

司会者: 東京女子大学の第1号女性学長でいらしたのですよね?

湊晶子さん: いいえ、初代学長新渡戸稲造先生の後を受けて安井てつ先生が女性第一号になられました。私は、東京女子大学卒業生学長として第一号です。

司会者: 私の母が東女の同窓生なもんですから、とても喜んでいました。卒業生の湊先生が学長になられた時。

湊晶子さん: 応援していただいて感謝です。私は5万人も卒業生が居られるのに、どうしてこれまで卒業生学長が出なかったのか、不思議に思いました。日本的「引くのが美徳」という意識を克服しない限り、女性の地位向上は実現しないと思いまして、定年退職後70歳になっておりましたが、お引き受けいたしました。

司会者: 私1996年から2000年まで非常勤講師として東女で教えさせてもらったんですね。その時、もう学長先生でいらっしゃいましたか。

湊晶子さん: 残念です。私は2002年から2010年までの2期8年間、学長を務めました。

湊晶子さん: 私は65歳まで東京キリスト教大学で新約学、キリスト教史、女性と社会などを担当し、65歳で定年を迎えました。母校の東京女子大学からすぐお声がかかり、東京女子大学の定年は68歳ですので、キリスト教学、キリスト教史などを担当してほしいと依頼がされました。東京女子大のキリスト教学の教授に就任して驚いたことがあります。創立以来キリスト教学を女性が担当したことがなかったこと、「初代教会と現代」という科目は選択科目であるのに、初日で教室に入らないほど学生が集まったことです。選択科目のキリスト教学は、みんなあまり選択しないのですが、教務で指定してあった教室は満杯。廊下にも行列が出来ていました。短い期間でしたが、母校での日々は宝物の様でした。

東京女子大学で人生二度目の定年退職を68歳で迎えた時に、ハーバード大学から客員研究員に呼ばれ、孫達にハーバード大学を案内することも目的に、ハーバード・ヤードの前の少し大きめのマンションを借りて渡米しました。任期の二年目に入った時に、東京女子大学から連絡があり、学長に選挙されたので帰って来てほしいとのこと。せっかくのマンションを後に帰国しました。

司会者: 2002年から学長をなさったのですね。

湊晶子さん: はい、2002年から学長を勤めました。殆どの学長は1 期で任期が終わりますが、私の場合再選されてしまいましたので2期8 年、学長を勤めさせて頂きました。70歳から78歳まで。いろいろ改革をさせていただきました。今は森本あんり学長が頑張っていてくださいます。応援しています。

司会者: 大体お時間ですので閉じようと思いますが、もし何かあれば時間を切って質問をお願いします。

司会者2: 先生は東京基督教大学の先生もされておられましたが。東京から通われたのですか?

湊晶子さん: 自宅と大学の丁度間位のところにマンションを借りました。子供達も大きくなっておりましたので、何とかマネージすることが出来ました。使命感がなければこのようなことは不可能だったと思います。

司会者2: うん、なんであんな遠いところに。

湊晶子さん: 東京基督教大学は神学部のみの大学ですから、教育の一環として教会奉仕があります。都心の教会に通うのは大変になるという理由から反論もありましたが、移転が決まりました。私は30年前に退職し、最近は伺っておりませんのでが、最近では大変開けた町になっているようです

司会者: 先日キリスト教学校同盟の総会で最近理事長になられた廣橋さんという方にお会いしました。広橋さんの奥様も息子さんもICU卒業だったそうです。身近に感じました。

湊晶子さん: そうですか。廣橋信一さんは理事長を務めて下さっていることを最近知りました。東京基督教大学を立ち上げる時に、私は神学部神学科だけでなく神学部の中に国際キリスト教学科を併置することを主張し実現しました。神学部国際キリスト教学科の一期生が現在学長を勤めている篠原基章学長です。しっかりした神学的ベースを持ちつつ広い視点から判断できる人物の育成こそが現代社会は必要としています。千葉に移転して東京基督教大学がスタートした時から私のこのビジョンは変わりません。千葉に移転した時に最初にできた神学部・国際キリスト教学科の一期生が現在の学長です。現代社会では神学部だけの大学は、どこでも大変だと思います。

司会者: ICUに対するメッセージがありますか?

湊晶子さん: ICUの教育が優れていることは卒業生を見ると分かります。私は今でも本日の対談の一部でお話したように卒業生とお付き合いしています。日本でキリスト教を学校名につけたている大学は国際基督教大学と東京基督教大学しかありません。私は使命感をもってこの二つの大学と母校に関わらせて頂きました。キリスト教学校教育同盟の加盟校の殆どは青山学院、関西学院、広島女学院等の様に学院と命名されています。母校の東京女子大学は英語名の中にChristian が入りTokyo Woman’s Christian University ですが、日本語の校名には入っていません。最後に一言だけ付け加えさせていただくとしたら、ICUキャンパスの木が、鬱蒼と茂りすぎているので、刈込みが必要と思いました。

司会者: 今日第一部と第二部で話されたことを、1冊の本に書かれる予定はないですか?

湊晶子さん: 質問して下さり有難うございます。一週間前に教文館から出版されたばかりの本があります。タイトルは『あしたは必ず来る~明治から現代までのファミリーヒストリーを辿りつつ』です。私は5代目のキリスト者で、初代は明治9年にジェームス バラから受洗しました。明治から現代までの歴史を辿りつつ、5代目までの信仰の継承についてまとめた本です。実際は7代目まで続いておりますが、6代目である私の子供達と孫は現役で働いていますので、記述は私までといたしました。

今回のインターヴユーで述べたICUキャンパスで生まれ育った6代目の子供達の事は写真と共に書きました。トラクト代わりに使っていただければと思い、一冊1000円にしていただきました。本日一冊もって参りましたので置いて参ります。読んでいただければ感謝です。

司会者: これ、一般でも、Amazonとかで売っていますか。

湊晶子さん: もう取り扱われていると思います。土屋先生にこの一冊をお渡しいたします。

司会者: 有難うございます。

湊晶子さん: 最近は紙媒体の本は教文館でもあまり出ないそうですが、この本は1000部刷ったのだそうです。

司会者: すごいですね。恐れ入ります、ありがたく頂戴して。今晩早速読みます。

司会者: 今日は、長時間にわたり貴重なお話ありがとうございました。

湊晶子さん: 90過ぎのお婆さんのお話でも役に立ちますでしょうか。93歳のお婆さんが60年近く前のお話を致しましたので、多少間違いがあるかもしれません。どうぞよろしく。

司会者: いや、これは貴重な記録として、図書館に残させて頂きます。長い時間お付き合い戴きまして誠に有難うございました。

(第2部終了)