◆ 花畑、という言葉がいつから使われ始めたかは定かではない。古くはハナバタとも呼ばれたらしくって『日本国語大辞典』(第2版)には「掃除せよ六しゃくやくの花畠」<空存> の句が挙げられていますね。江戸の寛永年間(1638年)、あの島原の乱があった頃に詠まれたものです。江戸幕府には花畑奉行という役職があって江戸城内奥庭である吹上の庭園一切に関することをつかさどったとのことです。扶持二百石高というからまあ、係長クラスかなあ。将軍始め大奥様方を喜ばせるため日々盆栽・庭木・鉢植えの手入れに勤しんだのでしょうか。いいなあ、いいなあ、そんな職につきたかった… まあ、徳川家に限らず名だたる為政者が美を理解し美を求めるという点は古今東西共通しているように思えるんだけど、どうだろうか。
◆ ICUにもお花畑が2つありました。へえー、へえー。 1つはシーベリーチャペルのすぐ裏。大学創立前には無かったものが1960年前後撮影と思われる写真(左)に写っています。真ん中の航空写真は、国土地理院ウェブサイト地図・空中写真閲覧サービスからのもの。1961年3月23日撮影。ボンヤリだけどちゃんと西洋式庭園の輪郭が確認できますね。そんで、いつごろ無くなったのかは分かんないんだけど、同じサイトの1966年11月4日の写真(右)にはすでに写っていない。テニスコートの造成時につぶしちゃったのか、いや位置関係から言ってシーベリーとテニスコートの間、現在の周回道路にまたがるエリアにあったと思われます。いずれにせよ勿体ない話ですね。
◆ ほいじゃあもう一つのお花畑の話をするけえ。もう一個ある言うたでしょうが。アナザーお花畑のお話は戦時中までさかのぼるのです。ICU生であれば、大学の敷地がかつて中島飛行機三鷹研究所として日本軍の戦闘機のエンジンや機体の設計・試験のための施設であったことは、ご存知でしょう。戦後解体された中島傘下の企業が富士重工業として再出発し、現在スバルを名乗っているのも。そんな中島飛行機を一代で築いたのが中島知久平という人物。その足跡、功罪ほかについては、専門の方々の研究にあたって欲しいが、とにかくスケールのドデカイ男だったことは確か。研究所設立のために畑と雑木林しかない武蔵野の台地62万坪もの用地買収を決行したのだから。そしてでっかい男はやっぱりでっかいお花畑を作るのです。左は1947年10月24日の現ICUキャンパスから野川流域にかけての写真。こちらも国土地理院からのものです。写真中央の下部に花畑が見える。現在の野川公園内の東八道路の南北をつなぐ歩道橋に跨るエリアです。これは知久平が作らせたもので、最初は日比谷公園くらいもある区域を指定したそうだが、この写真で見ると大体今のバカ山の花道から右半分くらいの大きさかな(それでも花畑としてはかなり大きいよね)。不思議なのはその形。西洋式の庭園なんてフツーに考えれば長方形に造るものだと思うんだけど、この不規則な台形は何?
◆ ぜったいなんか意味あるだろーと思って補助線引いてみたら、これじゃない? 左右の辺を北へ伸ばすとちょうど泰山荘の崖上でクロスする(右写真)。つまり泰山荘からお花畑を見ると(長方形だと遠近法で奥の方がすぼまって見えるのに)左右の辺が平行に見えて長方形に近い形に見えるという仕組。中島知久平は泰山荘を研究所での自らの居所として使っており、戦後GHPから呼び出しがかかった際もここに滞在し続け、頑として動かなかった。戦時中、泰山荘の庭に立って自社設計のエンジンを搭載した戦闘機が花畑の向こうの調布飛行場に離発着する姿を見ていたんじゃないかな。じゃあ、こちらも並行ではない東西の辺の意味は? 東への補助線がクロスする地点にはこれといって何もないんだけどなあ。考えられるのは北東方向(右上)の上空から花畑を見たときに綺麗な菱形に見える地点があるだろうということ。これがロータリーの真ん中だったりしたら「さすが中島知久平、ロータリーに展望用のタワーを作ろうとしていたのね」となるのだが、どうやらもっと南でないとそうは見えない。永遠の謎です…
◆ 知久平のお花畑の全容はハッキリしないんだけど、ちょっとだけ様子が分かる写真が残されていた。この写真は当時中島飛行機で働いていた方のご家族の写真で、件の花畑での写真ということです。右には薔薇のアーチが見えます。女性たちが手にしているのもどうも同じものではないでしょうか? 提供者によればこの写真が撮られたのは戦中か戦後かはハッキリしていないとのことですが、いずれにしても苦労ばかりが伝えられるあの時代にもこのような笑顔があったということで救われるような気がします。ちなみに、後ろのほうに見えている並木はカイヅカイブキ。このお花畑を縁取るものだったんだけど、のちに滑走路(マクリーン通り)沿いに移植されたとのことです。いまでも歩道に沿って元気に生えてるよね。
◆ あと、この花畑が登場する小説があります。大岡昇平の『武蔵野夫人』は戦後の荒廃をひきずる人間関係を描いたロマン小説ですが、復員した主人公が野川沿いをあてもなく彷徨する場面でお花畑、泰山荘、中島飛行機跡の描写があります。
…近づくにつれ、それが古い花壇にほかならないことが明瞭になった。崩れた洋風の花床に、赤と黄の薔薇が手入れの不足から野性に返った姿で咲き乱れていた。小径にはびこった桜草はプラタナスの垣の下から外へ匍い出していた。内部に向かって開いた門には標札がなく、細竹で組んだアーチにもやはり薔薇が咲いていた。門から新しい広い道が始まり、若い杉の間を通ってまた野川の流域へ降りた。川はわずかな距離の間に著しく水量をまし、板と杭で護られた岸の間を深く早く流れていた。流域は狭く、多くの湧き水が池を作っていた。十間に迫った対岸まで湿地をよく築いた道が真直に渡っていた…
◆ 当時野川の岸には田んぼが広がり、湧き水を利用したワサビ田もありました。夏はカエルの合唱をBGMに蛍の乱舞が見られたことでしょう。1953年にICUが開学してから1964年にICUゴルフコースとして開発されるまでの10年を知っているICU生だけが見た野川の風景は、作家の筆によって永遠の命を得ていました。
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