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I remember RED(2018年4月23日)

みなさまこんにちは。どもです。くくのっち(改)です。お久しぶりです。「キューカツをジョス」です。前回コラムをアップしたのが2017年の3月だったので、モー丸1年、ご無沙汰しておったワケなんでありまして、それまではちょこちょことICUキャンパスを彩るさまざまな木(樹木ですな)についてあれこれ書いてきました。ケヤキ・ムクノキ・エノキ、ヒマラヤスギ、ミズキの仲間… まあ、他にもいっぱい書いておきたい木はあるンです。ニュートンの林檎、伝説のレバノン杉、巨木候補セコイヤ、超美味ナッツが争奪戦のペカン、なんでこんなところに小金井薄紅桜、ヘンな名前筆頭ナンジャモンジャ、バナナの香りの花が咲くカラタネオガタマなどなど(気になる人は直接聞きに来て!)

で、木もいいんだけどさー。ホラ、樹木って、思ったより早く生長して、思ったより早く朽ち果ててゆくんだよね。ヒョロかった苗木が数十年で巨樹になったりとか、何年か前まで空き地だったところが気がついたら見渡す限りの笹原になってたりとか、あんなに立派だった桜が道路拡張工事のため伐採されちゃったりとか。そんなこんなで今みんなが目にしている木々も自然の力、人間の力でどんどん新陳代謝しちゃうんだよね。だからいくら自分が「ここにこんな木、あそこにあんな木」って書いたとしても、50年後にはほとんど無くなってるかもしれないな。たぶんなくなっている。ある種むなしさ感じるわー、これは。諸行無常というか…

だから、新シリーズでは見えないけれど朽ちにくくて、大切なものについて書こうかな。

愛…?

近いっ。でも違う。正解は「記憶」。というか「歴史」ね、「歴史」。人間は記憶でできている。記憶の集積を歴史と呼ぶ。この大学の歴史に関連するコラムを書きませう。うん、こりゃいいテーマだ。ええじゃないか。明日の大学と言われるICUだって振り返れば60年の歴史がありますよ。当方、学生時代から数えてネーウシトラウー、三周り近くもの間このキャンパスにお世話になってるし、仕事がら大学の歴史資料に触れる機会が多いもんだから「あなたの知らないICU秘話」なんて、いくらでも書けそうな気になってきたぞお。おっしゃあ。

で、初回は何を書こうか。そうだ、「名前は知っているが、どこの誰だか知らない」と多くの学生諸君が思っているだろうあの人についての小文を。


旧D館1階ラウンジの暖炉上にかけられた写真、丸眼鏡の人物、ディッフェンドルファーさんの名前は、D館の正式名称であるディッフェンドルファー記念館の名称でICU生ならみんな知っているんだけど、この人、いったい何をした人か知ってるかな? 昔の先生? いや先生じゃありません。D館建てた人? ブー。宣教師? いや、日本の教会で説教台に立ったことはたぶん無い。

えー、時を遡ること約140年、1879年8月15日、Ralph E. Diffendorferはオハイオ州ヘイズビルHayesvilleの農家に生まれました(この頃アメリカの田舎に産科病棟などないだろうから文字通り@農家で生まれたに違いない)。辛い農作業を日々こなす家族にとって教会で過ごす日曜日はまさに安息日。幼い少年だったラルフは、お母さんが先生を50年も務めた日曜学校で、遠くから尋ねてくる宣教師たちが語る外の世界に興味をもち、大学進学について考え始めたと言われています。

やがてオハイオウェズリアン大学Ohio Wesleyan Universityに進学したラルフだけど、やっぱりお金には苦労していたらしくって、方々の宣教師会議に出向いて書籍を販売することで口を糊していたと伝えられています。その範囲は隣のインディアナ州から、遠くは隣の隣、アイオワ州にも及んでいました。日本で言えば東京~鹿児島くらい移動してる。このパワーが後にICU創立の立役者としての働きを支えたんだなあ。

その後、ニューヨーク州にあるメソジスト教派のドリュー神学校Drew Seminaryに進学したラルフ。ドリュー在籍中から宣教活動に積極的だったらしいけど、卒業してからはさらに活動の場を広げ、八面六臂の大活躍で1924年、45歳の若さでメソジスト海外宣教部局長に抜擢されたんだな。それから第二次世界大戦の始まるまでに中央アフリカを除く世界中の全てのメソジスト拠点を自分自身で訪れたとか。どんだけパワフルやねん。メソジスト青年向け新聞”Concern”は、「ラルフは若く、恐れを知らず、決断力・行動力に富んでいた」と評してる。そして「最も辛辣な批評者たちも後には彼の決断が妥当であったと認めざるを得なかった」と。んー、これはつまり周りの反対を押し切ってでもわが道をガガガーッてブルドーザーのように直進する、かなりアツイ奴だったんだね。「リビングストンDavid Livingstone(宣教師・探検家)以来、彼ほど世界中の宣教に貢献したといえるのは数人しかいないだろう」そんな文章でこの記事は締めくくられています。

1946年春、滑走路ことマクリーン通りに名を残す、ヴァージニア州リッチモンド、ギンターパーク長老教会牧師のジョン・マクリーンの呼びかけ、すなわち、戦禍に打ちひしがれる日本に対する和解と平和の願いを形にするための行動をとりましょうという呼びかけですな。これが俄に盛り上がりを見せて、日本でのキリスト教大学創立プロジェクトへとつながったのは周知のとおり。え? 知らないの? 知ってください。ICU生なら。それにいち早く反応したのがラルフなんだね。オハイオ州コロンバスColumbusでの北米教会連盟協議会にやってきたリッチモンド教会代表者3名との話し合いの中で、広島・長崎の再建や病院の設立ではなく未来の希望となる大学を設立する案で合意するや、彼の地位とコネクションをフルに活用して、精力的にこの計画に取り組んでいくことに決めたんだ。1948年にJICUF(Japan International Christian University Foundation)ができたあと、1949年には各要職を引退して、この事業に専念することになった。彼の影響力と行動力をもってすれば募金は成功するであろうと、そのとき誰もが思ったね。

でも結果から言うと、1,000万ドルを目標とした北米での大募金計画は失敗だった。1950年秋時点でのJICUFの金庫はほぼ空だった。時代が彼に味方しなかった。1950年春から夏にかけてはちょうど朝鮮戦争が勃発した時期。戦後復興に躍起になっている日本とは異なり、アメリカ国民の関心は終わった戦争から次の戦争へと向けられていたんだ。かつて国民党時代の中国に対し行った投資や資金援助が国共内戦で樹立した共産党中国に(キリスト教学校も含め)奪われたという生々しい記憶がアメリカにはあった。いま、日本に大学を建てたとしても東アジアの戦火拡大でふたたびソ連・中国にこれを奪われるのではないかという不安がなかったとはいえない。

でも、ラルフの熱血漢ぶりは相変わらずで、1950年1月の会議では、前年夏に日本を訪れた際の彼の行動について他の委員から「railroading(自分の独断で事を進めている)」という批判が出たことに対し強く反発し「その表現は不適切」と気色ばんだラルフに対し「That is what you think(そう思っているのはあなただけだ)」という声も出たと記録にある。募金プロジェクトを請け負っていたタンブリン・アンド・ブラウン社の代表が1950年7月17日に心臓発作で亡くなったのが募金運動に決定的ダメージとなった。以降素人集団による身を削っての募金運動が展開された。ラルフは事務局長の座に着き直接財団の管理運営を一手に引き受けることになった。悲壮ともいえる逆境の中で彼の熱意はますます燃え上がっていった。

ラルフの最期は突然訪れた。翌1951年1月31日午後、氷点下5度。吹雪模様のニューヨークを湯浅八郎とともに歩いて事務所まで向かっていた彼は、息苦しさを覚えて立ったまま休息した。やっとのことで東23番通り44番地のビルに入り、エレベータに乗るとオペレーター用の座席に腰掛けて休んだ。3階あたりを上昇中、彼のカバンが落ちたので湯浅が拾って振り向いたときには息を引きとっていた。湯浅曰く「すでに意識がなく、無言のままでした。しかし、言葉などいりませんでした。その全人生が博士のメッセージでした。職務中に倒れたのは、いかにも博士らしい最期だったと思います」

彼の葬儀は1951年2月3日、ニュージャージー州マジソンで行われました。ドリュー神学校時代の同窓生であり同大学の学長を務めたArlo Ayres Brownの弔辞が残されています。

「彼の記念碑を見つけたければ、あなたの周りを見回すがいい。ここに集まった人たちの中にこそ彼が残したものを見つけることができるでしょう」

その言葉通り、ディッフェンドルファーがまいた種は、彼の死後花を咲かせることになりました。彼の遺志を継いだ多くの人たちの努力により、ICUが創立10周年を迎えた1963年までに、JICUFが受領した寄付金は総額800万ドルを超えました。

追伸 ディッフェンドルファーの訃報を東ヶ崎潔ICU初代理事長に伝えるICU初代学長湯浅八郎の手書きのエアメールが発見されました。現物スキャン画像と一部をテキスト化したファイルへのリンクです。

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