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なぜ 「本は無くなるか、無くならないか?」 と問うのか? (2005年9月5日)

インターネットが現れたおかげで電子情報が爆発的に増大しているせいだろう。本・雑誌・新聞などのいわゆる紙メディアが、今後も今までと同じように存続していくのか、電子媒体に取って代わられてしまうのか、あるいはそのどちらでもないのかという問題について、出版関連雑誌やネット上で多くの記事・意見を見ることができるようになった。

発言者の立場は、主に本の重要性・必要性をうったえる保守派とデジタル技術による本の衰滅を予測する急進派に大別できるようだ。しかし、さまざまな発言者の主張を熟考するに、どうも論点がずれたまま討論が行われているようで、もどかしい。その理由は「本」をどういう観点から論じるか、英語で言うところのアスペクトが混同していることではないだろうか。

「本」は大量生産され流通する商品である。また、情報伝達のためのメディアもしくは情報と人間をつなぐインターフェイスでもある。また、人間の叡智の伝達や感情表現の手段として、また同時に装丁・製本を含めた文化をも形成する。貴重書はコレクターズアイテムとして収集の対象となる。公共図書館の所蔵する本は我々の情報社会基盤の一角をなすとも言えるし、学術書は研究・学習の基盤でもある。そういった「本」のもつさまざまなアスペクトを限定せず、思いつくまま恣意的に本の必要性や行く末を論じることは建設的ではない。

そもそも、これだけ多くのアスペクトをもつ「本全体」が無くなるとか無くならないとかを結論づけるに足る根拠はおそらくどこにも見つからないだろう。にもかかわらず、多くの記事は本という存在の全体について「本はこれからも大切な存在としてあり続けるでしょう」とか「近い将来、図書館の棚は半減するでしょう」などと無責任な論旨を展開している。また「私たちが生きている五十年程度のスパンでは、紙はなくならないでしょう。しかし数百年のスパンでは、新しい媒体に取って代わられることが十分考えられると思います」(これは本ではなく紙がお題目になっている文章ですが)という件にもお目にかかった。(それを言い出したら、紙に限らず数百年先に何かに取って代わられないものを探すことの方が難しいのではないだろうか。このご時世で100年先の事を予測できる人がいたかと驚かされもした。)

説得力のある論旨を展開したいのであれば、本の種類と本に対するアスペクトをしっかり限定した上で、話を始めなければならない。まずは本の種類を限定する。一口に「本」と言っても、それは一般書籍なのか、学術書なのか。一般書籍ならミリオンセラーを狙って仕掛けられる「流行本」なのかそうでないのか。また、本と同じ出版物である雑誌について語るのであれば、それは一般雑誌なのか学術雑誌なのか、新聞であれば全国紙なのか業界新聞なのかなど。次にアスペクツをはっきりさせる。本の物体としての側面を論じるのか、情報の入れ物という観念としての本を論じるのか。物体であれば、それは流通する商品としての本なのか、コレクターズアイテム・貴重品としての本なのか。観念であれば、情報の伝達ツールとしての本を論じるのか、社会基盤としての本なのか。これらをきちんと分けて論じる事で、「ある部分では本はデジタル情報で駆逐される運命にある事、ある部分では今までと同じように続いていく事、ある部分では共存して行くであろう事」を説得力を持って論じられるのではないだろうか。

いずれにしても、本の将来についての発言を読むときには、著者に対し「なぜあなたは『本は無くなるか無くならないか』と問うのか?」と問う健全な懐疑心と科学的姿勢を持って臨まなければならない。なぜなら発言者の多くは本への「愛情」にあふれた本擁護派で、本に対しての情緒的なつながりが強く、本の存続を過度に期待する。このような人たちは、本と読書がつくりあげてきた文化へのシンパシーゆえ、本が存続するという予測に都合の良い例ばかりを挙げる。「ラジオはテレビに取って代わられることは無かった。だから本もコンピュータによって駆逐されない」という。ラジオが無くならなかったのは、テレビの持つことのできない決定的なメリットがあったからだ。それは「見なくてもいい」という点と携帯性においてであり、台所や仕事の現場で、電車の中で、車の中で、就寝前の布団の中で、このメリットが十分に生きているからだ。だが、本がラジオのようにデジタル情報に対し、それほどの優位性を発揮できる部分があるかどうかは、疑問だ。逆にデジタルには太刀打ちできない部分を数え上げればきりが無いだろう。

逆にデジタル情報とパソコンの信奉者たちは、我こそは新しい時代の先駆者たらんと紙メディアを過小評価している事が多い。情報をデジタル化すればいつでもどこでも誰でものユビキタスな情報となり、多くの人が最新の情報を共有できる。そして言う。「そろばんは電卓によって駆逐された。今、そろばんを習っている子供がどれだけいますか?」こういう主張をする人は、デジタル至上主義による紙媒体破壊にカタルシスを感じたいのだろうか。電卓は、そろばんの持つメリットをほとんど兼ね備えていた。(電卓にないそろばんの持つメリットは暗算に役立つくらいしかなかった) デジタル情報が、電卓がそろばんに対して持っていたようなオールマイティな優位性を、本に対して発揮するとは思えない。たとえば明治時代の文学初版本やヨーロッパ中世の貴重資料がデジタル化される事は研究者にとって大変なメリットがある。今まで倉庫の奥深くしまわれていた貴重な本が誰にでも閲覧できる。デジタル情報信奉者はこれぞ新時代のメリットと喧伝する。しかし、それら資料を必要としている研究者の多くは資料の「内容」の研究者ではなく実は「資料自体」の研究者なのである。使われている紙の厚さはどのくらいか、ウォーターマーク(透かし)の位置と方向はどうなっているか、版による違いはどこか、活字のプレスの圧力はどのくらいか、表紙の材質は何か、などなど。いずれも現物を確認しないと得られない情報である。

このように「本 vs. デジタル」の軍配がどちらに上がるかは、ケースバイケースである。では本全体の行く末について語ることは許されないのだろうか?

2004年6月、アメリカの National Endowment for the Arts は “Reading at Risk: A survey of Literary Reading in America.” と題する調査結果のレポートを発表した。これによれば、文学作品を読むアメリカ人は 1982 年には 56.9% いたが、2002年には 46.7% に減少した。文学作品以外でも 60.9% が 56.6% に落ちており、読書という行為自体の衰退が明らかになった。特に18歳から24歳の年代では文学作品読者減少率が、 35.7% と激しい。レポートでは「このままでは趣味としての文学読書は50年以内に消滅するであろう」と結論付けている。

人間は基本的に一度に1つの行為しかとれない。という仮定が正しければ、人々は読書の代わりに他の事をするようになっている訳だ。それがインターネットなのかどうかは、このレポートからは分からない。しかし、読書率が 0% になったとき、出版業界が今と変わらず繁栄している道理はない。このように「生活時間」から本とデジタル情報の行く末を考えた記事を待ち望んでいるのだが、いまだにお目にかかっていない。

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