かつて、Great Britain の古名に因んだ「あるびよん」という英文化綜合誌がありました。
英国文化に深い関心を持つ自由な知識人たちの結集「あるびよんくらぶ」の機関誌です。
同誌第三号の会員名簿によると、斎藤勇、西脇順三郎など、百数十の錚々たる学者や作家が参加していることが分かります。江戸川亂歩や日本女子大英文科も会員。
英文学者の吉田健一は会員にして編集委員でもあり、この号では編集後記を担当し、加えて、「不思議な國のアリスについて」と題するエッセイを発表しています。(のち、著作集の補巻Iに「不思議な國のアリス」として収録されたが、初出の表記ルイズ・キャロルがルイス・キャロルに改まっている)。
テニエルの絵を5点添えたこのエッセイは、同時期に刊行された「不思議な国のアリス」の翻訳に由来すると思われますが、知識人を対象とする雑誌の性格上、引用してある蝦のカドリイルの部分訳は、刊行されたものとは違えてあります。
なお、「文學界」が没後三十年の特集を組んだときの松浦寿輝氏との対談で、吉田の長女暁子さんは、「~子供が読める本も訳していまして、『ふしぎな国のアリス』などの訳本を父からもらいました。父の訳では『ふしぎの』じゃなくて『ふしぎな』なんです。~」と回想していますが、ずっと下って河出書房新社の、ポシェット版世界文学の玉手箱の1冊に加わった時には「不思議の国のアリス」でした。巻頭の「さし絵も会話もない本が、なんになるんでしょう」とのアリスの思いは半分かなわず、さし絵はありません。
このシリーズには、本当か?と思わされる訳者が多く、「あしながおじさん」の谷川俊太郎に「昆虫記」の大岡信、「赤毛のアン」に曽野綾子といった具合で、「小公女」は川端康成訳とありますが、三島由紀夫は、あかね書房から「ふしぎの国のアリス」を出しています。子供向けのリライトだと思いますが未読、ただし、実物をずっと以前に都内のデパートで開催されたアリス展で観た覚えがあります。アリスがトランプを相手に「切ってしまうわよ(シャッフルするに掛けてある)」というくだりがあると、どこかで聞きました。
ルイス・キャロルと同じく数学が専門で、サイエンスライターとして健筆を揮ったマーチン・ガードナーという人に、アリスの二つの物語に詳細な注釈を付した"The Annotated Alice"という著作があります。のちに、補遺版にあたる"More Annotated Alice" と併せてDefinitive Editionとなったようです。元版と補遺版とは東京図書からそれぞれ翻訳が出ています。決定版も期待したいところです。
ガードナーはまた、アリスが鏡の国のご本で見た「ジャバーウォックの歌」の冒頭部分の鏡文字を、自著「自然界における左と右」の鏡の逆転作用について述べた導入部に再録しています。さらに少し先には、キャラメル箱の横に印刷してある CHOICE QUALITYという文字を使った反転トリックの説明がありますが、これはそのまま、広瀬正の小説「鏡の国のアリス」第三章にも使用されました。この章では他にも、左右逆の世界から紛れ込んで来たという主人公木崎浩一青年への鏡像や反物質の解説に、ガードナーを多く引用してあります。
木崎浩一はサックスプレーヤーで、こちらの世界で製作された左右が逆のサックスの演奏コンテストに優勝することになりますが、James T. de Kay (ed.) "The Left-Hander’s Handbook" の、手にサックスを持った渋い表情の男性のイラストの横に"…left-handed saxophonists simply do not exist." と書いてあるページを見たら、広瀬正(実際にサックスプレーヤーでもあった。3期連続直木賞候補となるも急逝)は何と言ったでしょうか。
あまたある「不思議の国のアリス」の翻訳のうち、フロンティアニセンというところが発行した山形浩生訳は、水に浸かっても大丈夫なように塩化ビニルに印刷してあります。同発行所の風呂で読める文庫100選のうちの1冊です。表紙を開くと「警告!」と大書してあり、さらに「本文庫は内外の秀作を集めました。読書に夢中になって入浴しすぎると健康を害するおそれがあります。十分な自己管理の下、入浴しすぎに注意しましょう。」と続きますが、気をつけるべきは読みすぎかも知れません。
というのも、この100選(フロンティア文庫ともいいます)は、日本文学だけみても漱石、鴎外から夢野久作、海野十三、果ては「文士と温泉」なるアンソロジーまで網羅した魅力的なラインナップで、普通の文庫本で揃えてみたくなるに違いないからです。元の世界で銭湯につかって目を閉じているうちに逆の世界へ入り込んでしまった木崎青年には、この文庫のことを早く教えてやればよかった。
読書案内: