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人もセリフもセピア色 2011-12-01

鵜飼信成先生は国際基督教大学の第2代学長。昭和36年に執り行なわれた就任式には、東京女子大学の設立にも参画したオーガスト・K・ライシャワー博士が招待され、統合的なキリスト教大学設立のヴィジョンを胸に講演して花を添えた。

先生は河出書房の「世界の文化 13 アメリカ」の編集を担当したことがある。昭和40年、折しもアメリカからブロードウェイ・ミュージカル「ハロー・ドーリー」が日本巡業に来て、東京宝塚劇場で公演中だった。「世界の文化」のアメリカ映画部門の執筆者が、そのステージの写真が欲しいと思い立つ。権利関係の問題で難航するだろうと考えられた交渉にアッサリ許可が下りたのは先生の存在がものをいったのかも知れない、と回想するのは執筆者だった清水俊二。旧制第二高等学校時代の先生のクラスメートにして、映画字幕づくりの大御所である。

日本初の字幕入り映画『モロッコ』が公開された昭和6年から足掛け3年ニューヨークに滞在し、昭和13年秋には翌年正月の目玉作品となる(はずの)カラー映画『翼の人々』のためにハリウッドへ出向き、昭和32年は大型画面映画『八十日間世界一周』で再度ハリウッドへ飛ぶなど、節目ごとにアメリカへの出動要請を受けることになる清水は、戦前戦後にわたって字幕業界をリードし続けたが、本人は、ご贔屓監督ビリー・ワイルダーの『お熱いのがお好き』に出てくる女装したジャック・レモンが、汽車に乗り込むときに後ろから来た男性にさわられるシーンで叫ぶ

"Fresh!"

というセリフにつけた字幕を、業界の草分け的存在で『モロッコ』を担当した田村幸彦に「名訳じゃね」と褒められたことが特に印象に残っているという。

現在の第一人者戸田奈津子は、いつ叶うとも知れないまま字幕の世界を目指していたあるとき、清水から「試しにやってごらん」とマリリン・モンロー出演の『荒馬と女』で、事故を起こしたモンローの車を下宿のおばさんが自動車屋に引き取らせる

"It's brand new, you know. She ought to get a very good price for it."

というセリフを渡されて、字数を考えながら訳したところ、「これはうまい訳だね」、「君ならできるかもしれない」と言われ本当に勇気づけられたと述懐している。

字数の制約は、一般の人が字幕を読むスピードは1秒間に3文字から4文字というデータに基づくのだが、これには、その昔ごく平均的な日本人観客として新橋の芸者衆に映画を観てもらって見当をつけた、という逸話があるらしい。
字幕製作会社(株)テトラ代表の神島きみは、1フィートにつき3文字としている。フィルムは1秒に1.5フィート進む。1フィートあたり約0.67秒間に無理なく読みとれる字数が3文字というわけだ。なお、1行は当初は13文字だったが現在では10文字で最大2行まで。

時間と字数の制約といえば、雑誌「翻訳の世界」に「スーパー字幕入門」という全48回の連載があったことを思い出す。課題となるシーンの状況説明をした上で、そこに出てくるセリフに《何秒 何文字以内》と条件をつけて訳文を募り、講評し併せて筆者(講師は岡枝慎二)訳例を示すというコーナーで、第1回はウッディ・アレン監督『カイロの紫のバラ』から恋人同士が踊っている場面の、

だった。この課題では応募訳21例が講評の対象となり、そのうち10名が合格圏内入りした。

小川芳男氏は著名な英語学者。辞書の編纂を多数手がけ、ラジオやテレビの英語講座を長く担当し、のち母校の東京外国語大学学長を務めた。東京外国語学校の同期生にもう二人のヨシオがいる。一人はイタリア語を専攻し、のちに通信添削と受験出版の旺文社で名を成した赤尾好夫で、もう一人が姫田嘉男。ペンネーム秘田余四郎である。

戸田奈津子は高校生のころ、『第三の男』に出てくる闇屋のあるセリフのカッコよさに惚れ込んで、何度も観て懸命に聴き取ったことがあるが、その

"I shouldn't drink it. It makes me acid."

の字幕を担当したのが秘田でフランス語専攻。生前、日本で封切られたフランス映画のほとんどを手掛けたが、渡仏経験はない。「パリにゃ銀座がござんせんからね」と、神島が(株)テトラを興す以前に勤めていた数寄屋橋近くのビアホールその他の酒場を愛して止まなかったのである。

戸田が「英米映画なら清水俊二、フランス映画なら秘田余四郎」と見覚えていた名前だが、この二人より年下のある関係者が「姫田親分、清水先生」と呼び、神島が「何をやるにしても破天荒。豪傑というのか、まあ今時、いないような人」と綴っているように、豪放磊落な人柄だった。
同じ鎌倉在住の作家高見順ときわめて親密な交際があったことは「高見順日記」や「続高見順日記」に詳しい。昭和40年8月、高見の葬儀が青山斎場で行われたとき、秘田は悲しみのあまり遂に自宅から出ることもできなかった。

同年9月、上述した「ハロー・ドーリー」一行の記者会見が帝国ホテルで開かれ、その席でアメリカ駐日大使が挨拶をした。鵜飼先生の学長就任式に招かれたライシャワー博士の次男、エドウィン・O・ライシャワー氏である。国務省派遣の文化使節を紹介して大使はこう述べた。

「文化とは a many-splendored thing である」

一行の面々と数名の外国人記者だけが微笑したという。

参考文献:

1. C・W・アイグルハート「国際基督教大学創立史 ―明日の大学へのヴィジョン(一九四五―六三年)―」(国際基督教大学 1990)377.21/Ig24iJ

個人の手による大学史として興味深い。原著(1964)序文は鵜飼信成学長。

2. 鵜飼信成編「世界の文化 13 アメリカ」(河出書房新社 1966)

「ハロー・ドーリー」の写真は冒頭カラーの42ページ目。許可は下りたものの、撮影は2階席からという条件つきだった。国際基督教大学関係者では、鵜飼先生のほかに田中文雄先生と金沢正剛先生がそれぞれ専門の分野を担当している。

3. 清水俊二「映画字幕(スーパー)五十年」(早川書房 1985 のち早川文庫)778.21/Sh492e

字幕の歴史のみならず、自伝としてもエピソード満載。1985年日本エッセイスト・クラブ賞受賞作。個人的には、3度目の渡米のときに搭乗した日航機に寝台(!)がとってあって、というくだりが未だに忘れられない。

4. 清水俊二 戸田奈津子・上野たま子編「映画字幕は翻訳ではない」(早川書房 1992)778.04/Sh49e

没後に編まれたエッセイ集。タイトルは清水の持論から採られた。後半部分には「シネ英会話Lesson」を収録。

5. 清水俊二「映画字幕の作り方教えます」(文春文庫 1988)

3)の文庫と併せて。

6. 戸田奈津子「字幕の中に人生」(白水社 1994 のち白水Uブックス)778.04/To17j
一映画ファンが字幕づくりを生業とするまでと仕事の実際を簡潔にまとめる。実物のフィルムをカットした栞が付いていた。

7. 高三啓輔「字幕の名工 秘田余四郎とフランス映画」(白水社 2011)289.1/H59t
人となりを髣髴させる好著。フランス映画につけた実際の字幕が豊富に紹介してある。原文の誤記・誤植にかかわる大きめの正誤表を付す。

8. 神島きみ「字幕仕掛人一代記 神島きみ自伝」(パンドラ 1995)
字幕製作の作業過程を詳述した第1章が圧巻。作業・機械その他の写真も豊富で一見の価値あり。著者は1993年に日本映画ペンクラブ賞を受賞している。

9. 「翻訳の世界」(日本翻訳家養成センター 1987.4~1991.3)P/801.7/H85
岡枝慎二の「スーパー字幕入門 映画を翻訳する」が連載された。課題文は短かく、シーンの説明つきです。トライしてみてください。講評の号で一喜一憂できます。

10. 岡枝慎二「スーパー字幕入門 映画翻訳の技術と知識」(バベル・プレス 1988)
9)の第1回から16回をまとめ、理論・Q&Aを加えたもの。

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