1954年12月10日(注:金曜日)、下谷・竜泉寺のバア"アラビク"では、目くるめく物語が、今まさに幕を開けようとしていた。
"黒天鵞絨のカーテンは、そのとき、わずかにそよいだ。小さな痙攣めいた動きがすばやく走りぬけると、やおら身を翻すようにゆるく波を打って、少しずつ左右へ開きはじめた。"
中井英夫『虚無への供物』の冒頭である。氷沼家の蒼司・紅司の兄弟と、従弟の藍司と黄司・緑司、目黒・F="目白・目青・目赤・目黄の五色不動、英国マックレディの青い薔薇リラック・タイム、独逸コルデスの赤い薔薇クリムズン・グローリー、仏蘭西メイヤンの黄色い薔薇ピースに彩られ、アリスのマッド・ティー・パーティ、不動明王の従者コンガラ童子・セイタカ童子、シャンソンの名曲コマン・プチ・コクリコ、ムッシュウ・ルノオブル、ルナ・ロッサなどを鏤めたこの小説には、著者の祖父の経歴も織り込まれているが、そこに内村鑑三の名前が出てくる。
"曽祖父の誠太郎が通訳になったのは、明治三年に渡米してアマースト州立農業学校に留学した折、そこの学長(プレジデント)がクラーク博士だった縁によるものだが、大島正健氏の『クラーク博士とその弟子達』に、米国から同行帰朝したとあるのは誤りで、誠太郎だけ明治七年に帰国し、開拓使出仕としてしばらく青山試験場勤務となり、明治九年の博士の来日と共に札幌在勤となった。
それはともかく、博士の帰米後も東京へ来て英語学校に姿を現わし、年端もゆかぬ生徒だった内村鑑三や新渡戸稲造を得意の弁舌で説きつけて、未開の北海道へ送りこむ役割をはたしている・・・"。 ここに名前のない宮部金吾も送りこまれた一人。
誠太郎は、のちに初代文部大臣となる森有礼に随行、渡米した。もともとは矢田部良吉と橋某が行くはずだったのを、横合いから(強引に)割り込んで橋某を蹴落として附いていったらしい。橋某は橋和吉郎、のち大蔵大臣・総理大臣になる高橋是清で、自伝に、このことを(あまり愉快ではないふうに)口述しているという。高橋の旧私邸は小金井市の江戸東京たてもの園に移築、公開されている。
森有礼の再婚相手である岩倉具視の五女寛子は、有馬頼萬伯爵の元妻。その長男有馬頼寧伯爵は競馬の普及に努め、「有馬記念レース」に名を残す。頼寧の子が、『終身未決囚』で直木賞、『四万人の目撃者』で日本探偵作家クラブ賞を受賞した推理作家の有馬頼義で、中井英夫とは麻雀卓を囲むなど親しい間柄だった。
哲学者・フランス文学者の森有正は、森有礼の孫にあたる。元ICU招聘教授。教授として迎えられるはずだったが、パリで客死したため実現しなかった。全14巻・補巻1の全集(081.8/Mo453)、『遥かなノートル・ダム』(049.1/Mo45h)、『内村鑑三』(UY/Mo455u)ほか多くの著作がある。また、講話とICU大学教会のオルガン演奏を収録した2枚のレコード『思索の源泉としての音楽』、『新しく生きること』が残されている。
中井英夫は東京大学文学部在学中に、第14次『新思潮』の創刊・編集に当たったが、同人の一人椿實(つばき・みのる)は同誌に「メーゾン・ベルビウ地帯」を発表し、三島由紀夫・柴田錬三郎らに絶賛された。文芸誌『群像』に掲載の「人魚紀聞」も評価が高い。創元ライブラリ版全集第8巻の巻末付録に、「『メーゾン・ベルビウ地帯』のころ」という小文を寄せている。
息女の椿紅子氏はICU卒。在学当時の学長は、『サクラ並木の道をとおって:ICUのフロンティアは世界である』(049.1/Sh67s)などの著作がある篠遠喜人(ICU名誉教授)だった由。
中井は『椿實全作品』(913.6/Ts14)の解説に、"昭和二十二年から二十三年というと、齢も二十四歳か二十五歳のことで、私事をいえばさる女性と大恋愛の最中だったが、幸か不幸か女性側で結婚に賛成してくれたのは森有正氏ひとりだけという惨状で成立せず、・・・"と書いているが、これは、別のところで具体的に苗字を挙げ、"その人と大恋愛をして、・・・副牧師の恋敵がいましてね、***さんの家は代々クリスチャンなんです。そのお母さんに、「あなたを見ていると、少しも向学心がない」、なんて言われてね。副牧師の方へ行くのかと思ったら、結局あとで野村證券の人と結婚したんです。俺と結婚しなくてよかったですよ。彼女の写真、青酸カリと一緒に大事にしていたんだけど、引越しているうちになくしちゃったんです。"と述懐している女性のことか。
森有正は旧制東京高校出身。同校の卒業生を調べてみると、三宅彰(元ICU教授、元ICU図書館長、ICU名誉教授)、山本達郎(元ICU教授)など、ICU関係者の名前が目につく。同じく卒業生の元内閣調査室主幹、志垣民郎氏は、"・・・大宅壮一が「ジュラルミンスクール」と称したように、一高のバンカラな校風とは違って、リベラルな雰囲気があり・・・"と述べているが、ICUのリベラルアーツに通じる精神が横溢していたのだろうか。
なお、『虚無への供物』に、"・・・戦後の旧制高校、それも校舎が焼けたため駒場の一高と同居させられたり、三鷹に仮校舎をあてがわれたりというT-高校で、・・・"という記述があるが、仮校舎に充てられたのは旧中央航空研究所。同研究所はそのあと東大三鷹寮、さらに東大三鷹国際学生宿舎(ICUから東八道路へ出て東へずっと行った右手、都立三鷹高校のそば)となった。
大宅壮一は社会評論家。三女の大宅映子氏は都立駒場高校を経てICUを卒業し、同じく評論家。やはり駒場高校に在学したのちICUに進んだのが平田オリザ氏で、劇作家・演出家として演劇の第一線で活躍するほか、いくつかの大学で教鞭を執り、加えて著作活動にも力を注いでいる。
一高とは旧制第一高等学校の略称で、現在の東大駒場キャンパスに位置した。1944年から翌年にかけて米軍が撮影した航空写真には、井の頭線の駒場東大前駅ではなく、そのやや東西に一高前駅と駒場駅がある。
西側(吉祥寺寄り)の駒場駅の西北、一高の西方にあったのが、東洋最大・世界有数といわれた中島飛行機製作所本社で、丸の内から移ってきていた。ICUのキャンパスが同社の三鷹研究所跡なのは、先刻ご承知のとおり。この本社は東京都近代文学博物館に転用された後、今では国指定重要文化財旧前田侯爵邸として見学可能である。
一高に繋がる東京帝国大学の教授、のち名誉教授となったのが、中井英夫の父中井猛之進。植物学の権威で、陸軍司制長官、ジャワ・ボゴール植物園園長、国立科学博物館館長などを歴任した。1952年科学博物館にて植物葬。母茂子は日本女子大学英文科出身で、熱心なクリスチャンだった。同期生に、後に同大学学長となり、図書館の全面開架を提案・実現し、また、「図書館友の会」を設立するなど、大学図書館の充実・発展に尽くした上代タノがいる。時代が違えば猛之進・茂子の両人は、揃ってICU図書館の「バンクス植物図譜展示」に訪れただろうか。
『とらんぷ譚』は、13話収録の作品集4作に2話を加えてトランプに見立てたもので、1冊本でも刊行された。クラブのカードになぞらえた第2作『悪夢の骨牌』(913.6/N342a)は泉鏡花文学賞受賞作。ただし、最初の『幻想博物館』を白眉とする声も多い。1988年に出た、最終作にあたる『真珠母の匣』の文庫版の解説を、哲学者で大衆文化研究・政治活動にも携わる鶴見俊輔氏が書いているが、これは、東京高等師範学校附属小学校で中井と同級だった誼から。
創元ライブラリ版全集第8巻の解説も鶴見氏が担当していて、それによれば、中井猛之進は"東洋一のボイテンゾルグ植物園の園長"で、"ジャワ島全域で二番目に偉い人"だった。
なお、当時(1929年4月から1935年3月)の東京高師附属小について、長くなるが興味深いので引用しておく。"同級生でも、一部、二部、三部、四部、(五部はなくて)六部にわかれていた。父兄には、それが知力の段差でそのように分類されたのだと思いこんでいるひとが多く、生徒の中でも、一部にいるものは、そう思っていたようだ。中井もそう思っていたそうだ。
一部のほうが月謝が高く、一部だけには、英語の授業があった。一部は男子生徒のみ、二部と三部とは男女共学。四部は、複式の授業(ちがう学年のものが共同でうける)をやっていた。六部は養護学級だった。なぜそのようにちがうかというと、この小学校は、教師を養成するための実験場であって、本校(東京高等師範)の卒業生は、日本のどこにおくられるかわからず、離島、山村、どこにおくられても、そこにふさわしい授業がはじめからできるように、小学校の先生たちが教材を準備し、授業の形式をさぐっており、東京高師本校の卒業生予定者は、最後の学年にはこの小学校に教育研修生としてきて、ちがうクラスにしばらくついて教えることになっていた。"
いったんわけられると6年間組替えせず、二人のように部が違えば、同級生といえども親しくなることはなかったという。
鶴見氏は1946年に「思想の科学研究会」の結成を呼びかけた。発足当初の同人の一人に、ICU元教授・現名誉教授の武田(長)清子氏がいる。終戦前後における連合諸国の天皇制をめぐる考え方の相違・対立を実証的に追求した『天皇観の相剋』(313.6/Ta59t)で毎日出版文化賞を受賞。『未来をきり拓く大学:国際基督教大学五十年の理念と軌跡』(377.21/Ko51t)ほか多くの著作がある。
『真珠母の匣』文庫版刊行の翌年、中井は小金井市前原町に移り住んだ。ICUにもほど近い野川まで歩いて5分足らずの居宅が、彼の終の棲家となる。
"朱いろから橙いろに薄れかかった夕日をその上にあてどなく漂わせながら、辛子いろのカーテンは、そのとき、わずかにそよいだ。小さな痙攣めいた動きがすばやく走りぬけると、やおら身を翻すようにゆるく波を打って、少しずつ左右からとざされてゆき、立ちつくす影を、いま、まったく隠し終った。"
1955年の5月の末に近いころ、長い物語はこうして幕を閉じる。そして、著者は自らの最期を見事に締めくくった。すなわち、1993年12月10日金曜日に逝去。バア"アラビク"にほど近い下谷・法昌寺にて葬儀が営まれた。
主な引用・参考資料:
『東京人』226号(2014年2月) 特集「米軍偵察機が撮ったTOKYO1944」
同誌に、「指導者なき国の悲劇」と題した緒方四十郎・貞子夫妻のインタビュー記事が載っている。緒方貞子氏は元ICU準教授。国連難民高等弁務官・国際協力機構理事長などを歴任した。氏の国際的な活動については、『私の仕事:国連難民高等弁務官の十年と平和の構築』(369.37/Og23w)、"The Turbulent Decade : Confronting the Refugee Crises of the 1990's"(369.37/Og23t)、その日本語版『紛争と難民:緒方貞子の回想』(369.37/Og23tJ)などで知ることができる。