『ミステリ マガジン』1967年5月特大号です。〈特集〉懐かしの『新青年』。全218ページの半分を割いて、中島河太郎の解説と、元編集者の2編のエッセイのほか、小栗虫太郎「聖アレキセイ寺院の惨劇」、夢野久作「あやかしの鼓」(b/913.6/Y97/1991/v.3)、谷譲次「テキサス無宿」、ルルー「斧」の各作品、江戸川乱歩の評論その他を掲載しています。
おもに翻訳ミステリを掲載していた同誌にしては珍しい特集だが、編集の(S)氏は「ほんとうは本号一冊を「新青年」特集で埋めてみたかったのです」と意気込みのほどを示している。
『新青年』については、中島の解説より、『昭和文学の風景』(910.26/Sh976)所収の、鈴木貞美「三つの雑誌を繰りながら」が簡潔で分かりやすい。変遷を全6期に分類して、第2期が「探偵小説」雑誌への傾斜期、第3期は都会派メンズマガジンへの転換期、第4期を安定期と見て、それぞれに、昭和戦前期から活躍した探偵小説作家を排出した雑誌、時代の先端をゆくモダンで洒落た雑誌、「異端」の作家たちを産んだメディア、とイメージづけている。
「探偵小説」期の編集長は森下雨村。江戸川乱歩が送ってきた「二銭銅貨」(913.6/E24ed/v.1)を一読、驚嘆して掲載する。これが、乱歩の鮮烈なデビューとなりました。続く「一枚の切符」(913.6/E24ed/v.8)も好評で、乱歩は一躍、流行作家となり、この後の「陰獣」(913.6/E24ed/v.2)掲載号は三刷まで出たそうです。
「メンズマガジン」期の編集長は、「乱歩が言葉たくみにあざむいて(注:「トモカクスグコイ」と電報を打った)、私を東京へおびきよせ」たという横溝正史です。金田一耕助シリーズに見られる、古い因縁に縛られたおどろおどろしい作風は後年のもので、この頃は、洒落たユーモア作品を得意としていた。
「殊にこの「新青年」という名前を、英語に翻訳してみると、モダアン・ボオイとなる。モダアン・ボオイは少し新し過ぎて雑誌として困るやうだが、併しまあこのくらい新しい名前はないだらう。そのつもりで編集者もせいぜい新しがるつもりである」と述べています。
「異端作家」期については、大石雅彦『「新青年」の共和国』(水声社)が、「一九三五年前後」という序を付けて、久生十蘭の『魔都』(舞台が1935年。掲載は1937-1938年)、夢野久作の『ドグラ・マグラ』(1935年刊。ただし『新青年』掲載作品ではない。ちくま文庫版の全集第9巻(b/913.6/Y97/1991/v.9)に収録)、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』(1934年掲載)を論じている。
面白いことに、この作家たちはいずれも、『江戸川乱歩全集』、『横溝正史全集』と同じく1970年前後に、全集が出ました。後述する渡辺温の作品集『アンドロギュノスの裔(ちすじ)』薔薇十字社版の刊行も1970年だった。
吉行淳之介は、「異端作家」期の読書体験を、次のように述懐している。
「…当時は雑誌の値段が高く、その中でも『新青年』はほかのものに比べて高かったので、中学生にとってはその点で苦労した。(中略)一冊の雑誌を友達とワリカンで買い、工作用の糸ノコギリを使って、綴じる役目をしている金具をていねいに切り、半分ずつ家へ持って帰って読む。読み終ると、相手のものと交換する、という方法を使った記憶もある。雑誌を半分に切るのはいささか惨酷な気分だったが、相手が読み終るまで待てないのである」
(「新青年」愛読の記)
同じ頃のことを、「…「新青年」は本屋が届けにくるが早いか、叔父は取り込んでしまう。自室の三畳間の高い棚の上に並べておく。叔父は背が高かったのである。これが私は読みたくてたまらない。叔父が留守だというと、すぐさま、椅子を持っていって、高い棚の本をおろしてきて読んだ。(中略)一度、「新青年」を読んでいる所をみつかって、「あほ、こんなもん、コドモの読むもん違う(ちゃう)」とおいど(注:この3文字は傍点付き)を撲
(ど)つかれて、取り上げられたことがあったが、私は懲りるどころではなかった。そののちは叔父も知らぬふりをしていたように思う」と回想するのは田辺聖子です。
『新青年』の総目次は作品社の『新青年読本』に、100ページ以上に亘って掲載されています。文字通りの「総」目次で、克明だが読みづらい。創作・翻訳だけに限れば、巻号順の目録が『新青年傑作選』(立風書房)の、新装版では第5巻に、五十音順の著者別作品リストは、光文社文庫の「幻の探偵雑誌シリーズ」第10巻『「新青年」傑作選』に、それぞれ収録されています。
リストをずっと見ていくと、谷崎潤一郎「武州公秘話」(b/913.6/Ta88b)に出くわす。連載開始の前年、執筆依頼のため谷崎宅を訪れた編集者は、その帰路、乗っていたタクシーで踏切事故に遭い亡くなりました。当時の関係者の、「あの人が生きていたら、宝塚や神戸のモボ・モガに受けるようなことが、もっと出来たろう」と、早世を惜しむ声が、木本至『雑誌で読む戦後史』(080.1/Ki/Ki37z)の新青年の項に紹介されています。
横溝が編集長時代に、「今度本誌編集同人として、渡辺温君が入社した。新しい映画のシナリオを書く新人として、渡辺君の名は知る人ぞ知る。何しろ私なんかよりもつとモダアンだから、さぞかし本誌の名目を一変するだらう。…」と紹介したコント作家でした。
映画のシナリオとあるが、渡辺は学生のとき、映画筋書懸賞募集で一等当選を果たしている。その作品「影」を推挙したのが、小山内薫と共に選に当たった谷崎です。ただし、その後、渡辺が師事したことがあるのは小山内だという。
モダアンへの意気込みを、渡辺は編集後記に記しています。
「我々のお祖父さんやお父さんが考えているたぐいの色々の事は、我々自身がお父さんやお祖父さんになってしまってから考えることにしようではありませんか」
横溝は後日、ある対談で、「で相棒に誘った温ちゃんがまたああいう人でしょ。シルクハットにモーニングで社に出て来るような人でしょ」と発言していますが、その愛用のシルクハットの写真が、『渡辺温全集 アンドロギュノスの裔』(創元推理文庫)に載っている。
渡辺の通夜は横溝宅で、告別式は森下宅で営まれた。「父を失う話」、「可哀相な姉」などを残しました。やはり代表作の「兵隊の死」は、文庫で見開き2ページの掌篇です。『世界SF全集 34 日本のSF(短篇集)古典篇』(早川書房)には、直木三十五「ロボットとベッドの重量」のすぐあとに掲載されていて、こちらは二段組みで1ページと2行。
余談:
著者別作品リストにはもう一人、有名な作家の名前があります。それは川端康成で、作品名は「伊豆の踊子」ならぬ「水族館の踊子」(『川端康成全集』(913.6/Ka91/1980)第4巻所収)。『新青年』掲載は、渡辺の「兵隊の死」と同じ1930年4月号です。
川端は踊子がお気に入りだったようで、全集第4巻には、「「鬼熊」の死と踊子」、「ポオランドの踊子」があり、文字どおりの掌篇集『掌の小説』(全集第1巻)には、「鶏と踊子」、「踊子旅風俗」も見つかりました。