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『ウィーンの子ら』 2014-12-01

ロベルト・ノイマン作『ウィーンの子ら』(943/N67c)です。幼少時代をほとんど祖母一人の手で育てられた、という平井呈一は、狐狸妖怪譚を子守唄代わりに聞き、長じて、「中学の終わりごろに、はじめてハーンの「怪談」を字引を引き引き読んで、ひどく感心した。何遍も何遍もくりかえしてよんで、読めば読むほど感心した。今になって思うと、ハーンの幽霊の人間性に打たれたのであろう」と履歴を披露している。のちの岩波文庫『怪談』などへと結実します。

岩波文庫で小説を読むことには何の不思議もありませんが、ずっと以前には、岩波新書でも小説が出ていました。『ウィーンの子ら』はその1冊です。訳者は、シャーロックホームズ・シリーズの翻訳でも知られた、作家で英文学者の阿部知二。

岩波新書は1938年に創刊されました。いわゆる旧赤版です。第1回発売の11月分は全20点で、ユニークな企画が話題を呼んだICU図書館の「誰も借りてくれない本フェア」に展示されたもののうち、最後まで借り手がつかなかった小倉金之助『家計の数學』(080.1/Iw1/7)もその1冊だが、「伊豆の踊子」ほかを含む、川端康成『抒情歌』(913.6/Ka91jo)をはじめ、里見弴・山本有三・久保田万太郎・横光利一らの小説が同時刊行されています。当初は、サン・テグジュペリの『夜間飛行』も検討していたとか。

なお、思わぬことで脚光を浴びた『家計の数學』ですが、書名がすべて右から左へ書かれていた刊行当時にあって、これだけは初めから、今と同じく左書きだったそう。その理由は、実際にお読みになると分かります。ICU図書館の古い岩波新書は、表裏の表紙を取り去ってボール紙で補強したものがほとんどだが、これは元の表紙のままです。

鹿野政直は、『岩波新書の歴史』(080.1/Iw/9)で『家計の数學』を、小堀杏奴編『森?外 妻への手紙』(916.6/Mo45)、山本有三『戰爭とふたりの婦人』(ASRS)と併せて、旧赤版中この3冊のみが、「あきらかに女性をも念頭に置いていたとみられる」と指摘していて、これも興味深い。
また、山本は自著の巻末に、「この本を出版するに當って―國語に対する一つの意見―」と「「ふりがな廃止論とその批判」のまへがき」2編を収めていて、国語国字問題に熱心で、ふりがな廃止論者だったことが窺えます。山本の私邸は戦後のある時期、1年数ヶ月の間、国立国語研究所三鷹分室として使用された。三鷹駅南口へ出て左手、玉川上水沿いの「風の散歩道」を行くと右手にある、三鷹市山本有三記念館がそれです。

さて、青版では、老舎や巴金ほか5人の、(当時の)現代中国人作家の小説が出ています。西洋の小説はノイマンだけのよう。『岩波新書の歴史』第2章は、青版について、多くのタイトルを総花的に紹介しているが、『ウィーンの子ら』への言及はなく、索引に書名を留めるのみです。わずかに、刊行翌月の岩波PR誌『図書』(P/020.5/To721)1952年12月号に、坪井榮の書評を見つけました。著者のノイマンについても、新書のあとがき以上のことは分からない。

エリザベス・ボウエンの推薦の辞、「大人たちが讀まなければならぬ小説。きわめて面白いが、しかし娯樂としてではなく、思索の糧として、私はこれを薦めます」とは無関係に、やや古めかしい言葉遣いにも頓着せず、ただ、読みやすいから読んだ、としか言いようがありません。今でも翻訳は、あまり読まないから、文章に魅かれたのか。

ところで、皆さんも岩波新書を何冊か、お持ちだと思いますが、表紙はなに色ですか。一番多いのは? 旧赤版でスタートするとき、表紙の色は、赤・青・黄・緑・セピアの5色展開とする案があったといいます。しかし、岩波書店創業者の岩波茂雄が、世間にはっきりと印象されるためには一色でゆくべき、「この双書が普及して、電車に乗ると、あの人も赤い本をもっている、この人も赤い本をもっている、と眼につくようにならなければだめなんだ。何か一つもので、どこまでも押してゆくことが肝心なのさ」と主張して、赤のみになった。青版、黄版のあとは新赤版が採用されましたが、このとき、緑色の表紙も試作したそうです。

新赤版の1番は、大江健三郎『新しい文学のために』(080.1/Iw4/1)。大江は、「岩波現代選書」でもトップを飾っている(『文学の方法』(080.1/Ig/1))。
「岩波アクティブ新書」というのもありました。2002年1月創刊。『岩波新書の歴史』には、「…。が、永続せず、二〇〇四年十二月に終刊となった」と正直に書いてあります。ICU図書館は6タイトルを所蔵している。
それで思い出したが、岩波はかつて、『よむ』という書評誌を出していたことがあります。通常版より横が少し長い変形サイズだった。キンカン情報が一部はキカン情報だったりして、「何だかな~」と思っていたら、ほどなくして終刊となった。

閑話休題。お手元の岩波新書にもどります。カバーの中央にランプが描いてありますか。それとも裏の中央左? また、書名や著者名は縦書き? 横書き?
ランプがおもてにあったのは、新赤版1000番までで、以降は裏側へ移りました。1001番からは、それまで扉(表題紙)の書名と著者名を、風を吹いて囲っていた、ギリシア神話の風神が、右上に描かれています。扉の四風神の絵が横顔になったのを機に登場しました。同時に、カバーと扉の書名・著者名は、横書きから、左に寄せた縦書きに変わった。

創刊以来の装丁で最終の新赤版1000番を飾ったのは、最上敏樹『いま平和とは』(080.1/Iw4/1000)です。2006年3月第一刷の著者紹介に、現在―国際基督教大学教授、同大学平和研究所所長、とあります。その後ICU名誉教授。最上先生は『岩波新書を読む』(080.1/Iw/5)にも、「私と私たちと世界との間」(注:「私」、「私たち」、「世界」に傍点あり)というテーマで、読書案内を寄せ、やはりICU平和研究所の、元顧問だった坂本義和氏の『軍縮の政治学』(新版は080.1/Iw4/47)などを紹介している。

岩波新書とICUつながりもっと:
その1 奥平康弘氏
哲学者の三木清は、岩波新書の創刊に参画し、自らも『哲学入門』(121.9/Mi24te)を著わした。1945年6月に囚われの身となる。治安維持法違反の被疑者を匿ったという嫌疑をかけられてのことだった。同年9月に獄死。戦争は終わっていた。

『岩波新書の歴史』第3章「「戦後はすでに終焉を見た」―黄版の時代」には、『治安維持法』(326.8/U84c)についてこう記してあります。
「…絶版に至ったという事件が起きている。同書は発行直後から、「奥平康弘同研究所(注:東京大学社会科学研究所)教授を中心とする治安維持法研究会メンバーらの論文や他の人たちの著作を、かなり流用し構成したもの」として問題視され、著者からの申し出を受けて、この措置をとった」
奥平康弘氏は東京大学名誉教授、元ICU教授。

岩波新書『治安維持法』は1977年9月刊。翌月、奥平康弘著『治安維持法小史』(326.81/Ok54c)が、筑摩書房から出たが、奥平先生は自著のはしがきに、この件について付記しています。
同年11月18日の朝日新聞は、岩波書店が『治安維持法』を絶版にしたこと、発売後間もなく絶版処分にしたのは同新書四十年の歴史で初めてであることを報じた。
『治安維持法小史』は2006年6月には、岩波現代文庫の1冊に加えられました(b/326.81/Ok54c/2006)。

その2 高橋たね氏
「わたしがしたことで成功したものがあるとすれば、それはヴァイニング夫人にこちらに来られるようにと求めたことであった」(昭和天皇)
エリザベス・グレイ・ヴァイニング『天皇とわたし』(289.53/V76J)の訳者あとがきのエピグラフです。あとがきは、「若い世代の人には夫人の名前はなじみが薄いであろう」と前置きし、「昭和二十一年の十月に来日し、それから四年間にわたって皇太子(現天皇)の英語教師をつとめたが、たんに英語の教師であることにとどまらず、さまざまな影響を皇太子、および当時の日本人に与えられた方である」と紹介しています。訳者の秦剛平・秦和子は共にICU卒。

岩波新書『ウィリアム・ペン』(289.53/P382vJt)もヴァイニング夫人の著作。その訳者高橋たね氏は、夫人の秘書を務めていました。ICUの元教授で名誉人文博士、図書館長でもあった。『天皇とわたし』本文中の、「高橋たねについて」、「高橋たねの協力」、「たねの誕生日」などの見出しは、二人のひとかたならぬ交流を表しています。

高橋(現姓松村)氏は今もご健在です。ボランティアの仕事に携わっていると、人づてに聞きました。また、同氏から、もう乗らなくなった自動車を譲り受けたことがあるという図書館職員も、まだ現役です。

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