ヘッダーをスキップ

図書館長アナウンサー(古い雑誌から) 2015-07-21

『太陽』(平凡社)創刊第5号です。現在、第2回東京オリンピックの追加種目の選考が行なわれていますが、1963年10月刊行のこの号には、"すべて広告です"と銘打った「未来の新聞」コーナーがあり、その一つとして、1年後に向けた"オリンピック種目追加広告 オリンピック委員会"が載っている。全員一致で可決した種目は次の4つ。

と(このコーナーを担当した作家の富士正晴は)いうのですが、どーもヒネリに欠ける感は否めません。いっそのこと、実際にあった意外な競技と、金メダル確実なのになかった競技を採り上げればよかった。

あったのは水泳の300メートル自由形で、競泳種目ではなく、近代五種競技のうちの一つです。映画『東京オリンピック』の制作に参加していた写真家の細江英公の証言。
「モデルとしてレンズに入れる選手を韓国の張選手に決めていたのだが、カメラを廻してみると、驚いたことに三〇〇メートルを全部平泳ぎで泳ぎきったのである。五〇メートルもの差がついてしまったが、後で聞くと、前日肩を痛めたので、平泳ぎしかできなかったのだとわかった」(『別冊キネマ旬報 東京オリンピック』より)

なかったのは女子200メートル背泳ぎ。この種目、『スポーツ記録』(R/780.36/Su75)によれば、日本の田中聡子選手が1959年7月から1963年8月までの間、何度も世界新記録を塗り替えています。田中選手は、ローマ大会では100メートル背泳ぎに出場して銅メダルを獲得。ベルリン大会の前畑秀子選手(中継アナウンサーの絶叫(?)連呼は有名)に次ぐ日本女子水泳メダリストとなりました。東京大会では4位入賞を果たします。このとき田中選手22歳。優勝したのは、アメリカの16歳の選手でした。女子200メートル背泳ぎが採用されるのはその4年後、メキシコ大会からです。

映画『東京オリンピック』が決勝の一部始終を伝えています。田中選手はゴールしたあと、息を整えるように少し泳ぎながら、右腕をコースロープに掛け、左腕も掛けてもたれかかると、電光掲示板の方に少しだけ顔を向ける。表示タイムを見たようにはありません。
"プールからはなかなか上がれなかった。手すりをつかんで体を引き上げるだけの力が残っていなかったのだ。息をはずませ、やっとのことでプールサイドに上がると、白いガウンを羽織って控え室に向かった"(佐藤次郎『東京五輪1964』(文春新書)より)
『われらすべて勝者:東京オリンピック写真集』(講談社)に、右手にタオルをかかえてプールを去ってゆく、その後ろ姿が載っています。

映画には、この試合の前に男子100メートル自由形が収録されている。優勝したのは、弱冠18歳にして「水の芸術品」と呼ばれ、この大会で4つの金メダルを獲得したドン・ショランダー選手です。
「いっちゃ~く だいごこーす しょらんだーくん あめりか じか~ん ごじゅうさんぷんよんびょう これはおりんぴっくしんきろくでございます」
と、お馴染みの口調で場内放送が流れますが、あの独特のアナウンスは、どうやって始まったのか。『太陽』創刊第5号の別のページに答えがありました。

「五人の椅子 アマチュアスポーツの裏方」の一人に、"水泳のアナウンサー/多治見義長"が紹介されています。水上連盟の手伝いをしていたのがきっかけでした。ベルリン大会の男子競泳コーチだった松沢一鶴に命じられ、同大会の翌年から渋々始めたそうです。当時の日本水泳界は世界の頂点にあって競技会はいつも満員の観客。小心な多治見氏は、素人の自分は声が出るだろうか、笑われはしないか、いつも不安だったという。そんなときに、
「末弘厳太郎さんであったか、松沢さんであったか、記憶がさだかでないが、私にアドバイスされた。「100メートルを10秒で走る陸上と、1分かかる水泳とで、場内アナウンスが同じ調子というのはおかしい。ゆっくりやったらどうか」この人も水の微妙な動きに気づいておられたにちがいない」
(末弘厳太郎は著名な法学者、東大名誉教授。日本水泳連盟の前身である大日本水上競技連盟の創設に尽力し、会長も務める。ベルリン大会の水泳代表チーム総監督でもあった)

あの口調を始めたのは昭和13年から。「はげまして下さる方もあったが「間のびしていておかしい」という意見も多かった」。翌14年、氏が出征すると、場内アナウンスの調子は元に戻ってしまったそうだ。戦後初の競技会は昭和22年。
「私はさっそく、ゆっくり一語一語力を入れて読む場内アナウンスを復活した。他のスポーツに先がけて古橋、橋爪君ら偉大な選手が出現したことによって、私の方式も広がったようである。全国どこの競技会のアナウンスも、ゆっくり読み上げるようになった。道で子供たちがまねているのを聞いて苦笑したものである」

あの名調子、水泳界では「多治見節」と呼ばれているそうです。この記事が出たとき、氏は水戸市社会教育課長、図書館長(『職員録』(281.036/Ok57s)昭和38年版(下)に水戸市立図書館長として名前があります)。大試合には東京や大阪に出張することもあると紹介されていますが、アナウンスを始めた当初、競技会は夏場の短い間だけ。「しろうとの私には、場内アナウンスを毎年始めてやるような気持でつらかった」と述懐している。でも、いいじゃありませんか、夏の水泳大会。以下は私の想像です。

1959年7月、「だいごこ~す たなかさとこさん ふくおかちくしじょがくえんこーこー にね~ん」と紹介がある。ぜったいに屋外プールですよね。アナウンサーはテントの中でムギワラ帽をかぶっている。水に揺れるコースロープにはトンボがとまっていて。それを揺らす水は、ゴール後の「世界新記録です」というアナウンスに、いっそうきらめく。

おまけ:ロンドンオリンピック
その1:日本は1948年のロンドン大会に参加させてもらえなかった。そこで、大会の競泳競技に合わせ、同じ日程で日本選手権水上競技大会を開催した。1500メートル自由形で古橋廣之進選手と橋爪四郎選手は、ロンドン大会の優勝記録も当時の世界記録をも破るタイムを出したが、国際水泳連盟が日本の加盟資格を停止していたため、世界新記録には公認されなかった。

その2:記録映画『ロンドン・オリンピック』は、日本語アナウンスをロンドンで録音して送られてきたが、映画評論家・編集者の清水晶によれば、「…関西なまりのひどくのんびりした奇妙なものである上に、走り幅とびを英語で"ロング・ジャンプ"と呼ぶようになったのをそのまま訳して"走りながとび"といってみたり、砲丸投げを"ほうだん投げ"などという、ご愛嬌までついていた」(M)

文中の資料の他に
『日本スポーツ百年』(R/780.21/N77n)
『オリンピック事典』(R/780.6/N775o)
『日本体育協会・日本オリンピック委員会の100年』(780.6/fN772ni)
『朝日新聞縮刷版』(P/071/A82)
『読売新聞縮刷版』(P/071/Y81)
などを参考にしました。

<< 前のコラム | 次のコラム>>