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間もなくキック・オフ(古い雑誌から) 2015-09-09

ラグビーのワールドカップは1987年に始まりました。以後4年おきに開催されて、今年は第8回目を迎えます。開催国はイングランドですが、第2回大会も同国が主会場でした。写真はその年の"Time"(P/053/Ti5)1991年10月14日号です。R(UGH!)BYと大書された表紙は、ラインアウトの場面でしょうか。ジャンプした選手の右頬に見事な(!)パンチが決まっています。

日本代表はこの大会で、ジンバブエを相手に52 対 8と大勝し、過去7回の大会を通じて唯一の勝利を収めました。また、アイルランドとの試合でロック大八木淳史からパスを受けた、やはりロックの林敏之が決めたトライは、ビデオ『’91ラグビーワールドカップ ベストトライ』の一つに選ばれています。なお、この時キャプテンだったセンターの平尾誠二が第3回大会で、やはりアイルランド戦で見せたトライは、『’95ラグビーワールドカップ ベストトライ』に収録された。三人とも神戸製鋼所属。日本選手権7連覇の立役者です。

同志社大が大学選手権3連覇を果たした時にラグビー部部長だった岡仁詩の評伝『ラグビー・ロマン』(080.1/Iw4/1037)は、平尾を「走って良し、蹴って良し、パスして良し。視野が広くてセンス良し。おまけに貴公子然とした風貌の、なにもかも揃った選手であった」と紹介しています。1989年に平尾をキャプテンに据えてスコットランド代表から金星をあげた日本代表の宿澤広朗監督は、「プレーも一流、背も高く、顔も良い、そんな平尾に何か欠点があるのではと密かに考え」、音痴なのではと(自分のことは棚に上げて)飲みに誘ってカラオケを歌わせる作戦に出た。宿澤の「なごり雪」のあとで平尾が「愛しのエリー」を歌うと拍手喝采が沸きおこり、宿澤は憮然としてこう言ったそうです。「お前、上手いじゃないか……。おう、帰るぞ」。

スポーツ誌の表紙やグラビア特集は言うに及ばず、ファッション誌『ミスター・ハイファッション』1985年7月号にも登場しながら、1997年から2000年まで日本代表監督と、常に注目を集める存在でした。その"ミスター・ラグビー"が学生時代に、林や大八木と共に技術解説の写真モデルで登場しているのが、岡仁詩『ラグビーの技術と戦術』(783.4/Ok36r)です。一見の価値あり。

『ラグビー・ロマン』には、作家で元外務省主任分析官佐藤優の名前が出て来ますが、岡が同書で、「戦後、早大教授となり、三度、早大ラグビー部の監督となるが、そのつどチームを立て直して「大西魔術」の異名をとる。一九六六年から七一年まで日本代表監督の座にあり、六八年オールブラックス・ジュニアを倒し、七一年イングランドをあと一歩まで追い詰めた伝説の試合を演出した……」日本ラグビー界が生んだおそらく最高の戦闘指揮官という大西鐵之祐が、自らの半世紀を語った『ラグビー 荒ぶる魂』(080.1/Iw4/48)には、俵万智の名前があります。

オールブラックス・ジュニア戦のスコアは23対19。ジュニア(23歳以下)とはいえ、名だたるラグビー王国の代表チームが後進国日本に敗れたことは大きな驚きだったようです。新聞には、"Thrilling Rugby at the Park"、"Non-Stop Rugby Road Show"から、"Japan Makes Great Impact"、"Japan Thrilled Us ? Thanks"、"Five Tries ? They’ll Remember Sakata"など、さまざまな見出しが躍りました。最後のSakataは、(この試合では)4つのトライをあげたウイング坂田好弘のこと。のちに大阪体育大学ラグビー部監督だった時、研究室に、坂田の活躍にあやかったSAKATAという名前のニュージーランドの競走馬の写真が掛けてあったといいます。

イングランドとは2戦して、19対27、3対6とラグビー発祥国チームを相手に大健闘します。特に第2戦は双方ノートライで、日本代表の3点はフランカー山口良治のペナルティ・キックによるもの。この人、平尾が伏見工高3年生で全国優勝したときの監督です。決勝戦のビデオにチラと出てくる。テレビドラマ「スクール・ウォーズ」のモデルであり、NHKプロジェクトXでも「ツッパリ生徒と泣き虫先生」として採り上げられました。

第2戦のあと、選手たちは港区にある大西宅、通称「大西ハウス」に繰り込み、飲めや歌えの大はしゃぎだったといいます。アヤ夫人の証言がある。「ふだんは歌わない宿澤君まで歌ってたわよ」。

大西が日本代表の戦法に掲げた「展開・接近・連続」は、長年の研究と分析によるものでした。アヤ夫人が今も住む「大西ハウス」には、膨大な冊数のノートが残っています。書き込まれているのは運動量の計算式、ボールがスクラムからウイングまで渡っていく所要時間、その時に各選手が走る距離と角度など等。以前テレビ放映された「魔術と呼ばれた組織プレー ラグビー大西鐵之祐の伝説」には、当時サントリーの監督だった清宮克幸が、ノートを開いて「ありえない」を繰り返す場面があります。アヤ夫人が出迎えに出たとき、清宮は奥さんと二人の男の子を連れていました。上の子は小学校二、三年生ぐらい。清宮幸太郎君でしょう。

番組中には、ニュージーランドでの試合、イングランド戦の模様も断片的に出てくる。これらのゲーム、通しで観たいものですが、オールブラックス・ジュニアと対決した映像については、何度も申し入れているにもかかわらず、未だにニュージーランド協会は言を左右にしてイエスと言わないと聞いた事があります。

第7回大会のあと日本代表ヘッドコーチとなったエディ・ジョーンズは、一九七一年にイングランドと死闘を繰り広げた日本代表をベストチームと位置づけ、「ジャパンウェイ」を提唱して方針を示し、具体的に戦略を授けてきました。今年は集大成の年です。予選プール第1戦の相手は、実力世界一と言われながら、アパルトヘイト政策の故に国際舞台から締め出されていた南アフリカです。1994年にマンデラ政権が成立した翌年、第3回大会に初出場、そのまま優勝をさらいました(この経緯は映画『インビクタス 負けざる者たち』に詳しい)。南アは第6回大会でも頂点に立っていますが、エディーはその時、同チームのアドヴァイザーでした。今大会終了後には日本代表ヘッドコーチを辞して、南アの有力クラブチームのヘッドコーチに就任するとのこと。選手のみならず、彼にとっても意味ある1戦でしょう。どんなゲームになるのか。また、大会通算2勝目の可能性は? そして、「結果しだいでは自分が」と手を挙げている清宮はエディーの跡を襲うのか、これも注目されます。

さて、もう一度"Time"の表紙に戻りましょう。パンチを受けて顏をしかめているこの選手、よく見ると大八木です。秩父宮ラグビー場では何度も観戦しました。ICUにやって来たのを本部棟2階へ見物に行ったこともあります。(M)

おまけ:2019年東京大会の会場はどうなるんでしょうか
森喜朗は大学進学に際して、早稲田へ行ってラグビーをやりたいと望んだが、担任から「無理だ」と言われました。学校に呼ばれて同じことを聞かされた父親は、「意地でも喜朗を早稲田に入れてやる」と、ラグビー部の後輩にあたる大西鐵之祐(!)に紹介状を書く。大西宅を訪ねて来て必死に頼み込む森に、大西は「何とか体育局の推薦が出るようにしよう。まず補修授業を受けなさい」と伝えました。

めでたく入学しラグビー部の一員となった森だったが、同級生は名門高(秋田工業、天理、保善など)の出身者ばかりです。体力・技量に歴然と差があった。精神的に参ってしまい、夏休みには胃潰瘍で吐血する。「半年くらい練習を休んで様子を見るんだな」と医者から言い渡され、それならいっそ、と退部を決心します。推薦入学だったのだから大学にもいられない、とまで考えた森は、大学もやめると大西に伝えました。大西は「バカもの!」と一喝して、こう言ったそうです。

「ラグビーだけが大学じゃないぞ、森君。縁あって早稲田に入ったんだ。早稲田精神を身につけて少しでも世の中のためになろうと君は思わないのか。将来、ラグビーに恩返しができるような立派な人間になってみろ」。
(森喜朗「私の履歴書」5 (『日本経済新聞』2012年12月5日)より)

これで、退学だけは思いとどまったというんですが、森サン、2019年東京大会の会場はどうなるんでしょうか。

加藤仁『宿澤広朗 運を支配した男』(講談社)
松瀬学『清宮革命・早稲田ラグビー再生』(新潮文庫)
松瀬学『強いだけじゃ勝てない 関東学院大学・春口廣』(光文社新書)
村上晃一『空飛ぶウイング 坂田好弘が駆け抜けた日本ラグビー黄金時代』(洋泉社)
永田洋光『スタンドオフ黄金伝説』(双葉新書)
その他、市販ビデオ等も参考にしました。

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