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『芸術新潮』(P/705/G32)1988年9月号です。「オリンピックデザイン記録伸ば史」と題して、勝利と記録の追求にデザインが果たしてきた歩みをグラフィックに特集しています。
例えば、日本ではタビ(足袋)から始まったマラソンシューズは、通気性・クッション・屈曲性・地面との摩擦係数などを数値化して、選手の足に合うよう進化してきました。各年代のシューズがいくつか写真で紹介されています。アシックスが保存している、ローマ・東京の2大会に連続優勝したアベベ選手の足型も見えますが、彼がローマ大会を制したとき裸足だったのは、シューズメーカーにとっては皮肉なことでした。
1965年3月公開の記録映画『東京オリンピック』は、文部省が児童・生徒に観覧させるよう通達を出したこともあって、2001年の『千と千尋の神隠し』の公開まで、ずっと観客動員数第1位でした(注:2014年には『アナと雪の女王』にも抜かれて現在第3位)。この映画に撮り直し(後撮り)した部分があります。〈体操の名花〉と讃えられたチャスラフスカが黒バックで平均台の演技を行なうシーンと、〈裸足の王者〉アベベが汗の染みていないユニフォームで国立競技場に入っていくところです。撮影スタッフはアベベに、「ユニフォームを水で濡らしたい。走ったのだから汗をかいてなければ不自然だ」と頼んだものの、「風邪をひくから嫌だ」と断られました。汗の染みが演出効果になり得た時代だったのです。
マラソン選手のユニフォームはさておき、弛みない改良が加えられてきた例として、水の抵抗に挑む競泳用ウェアが載っています。女子選手の水着は、ぴったりと密着し、きつく締めつけて“速い体形”をデザインすることを目指していることがよく分かる。そういえば使用禁止になってしまいましたが、高速水着「レーザー・レーサー」なんてのもありましたね。ひょっとすると、背中から臀部にかけて水がたまる問題も、“ずん胴体形”をデザインする水着によって解決される日が来るかもしれません(って、これは筆者の無責任な想像)。いずれにせよ、男子の水泳パンツには言及なし。行き着くところまで行き着いたのか、蚊帳の外なのか。
施設や器具も変わります。1964年東京大会の陸上のトラックは、アンツーカー(レンガの粉を固めた土)でした。これは今も、テニスの全仏オープンのクレーコートに名残がありますが、トラックはその後、ウレタン・ゴム製のオールウェザー仕様となりました。 競泳用プールの課題は“波消し”です。コースロープは、ウインナソーセージふうのものから螺旋の溝入り、メッシュ状、水車型へと、工夫の変遷が見られます。プールサイドは垂直の壁をなくして、波を外に逃がすことに成功しました。
さて、オリンピックデザインといえば、記憶に新しいのはエンブレム問題でしょう。あのとき、1964年大会のシンボルマークを再評価する声が少なからずありました。年号だけ変えて使用してはどうか、というものです。白地に赤い大きい太陽と黄金の五輪を配しTOKYO 1964の文字を置いたポスターを、誰もがどこかで見た事があると思います。デザインしたのは亀倉雄策。“グラフィックデザイナー”を世に知らしめた斯界のボス的存在です。後輩の永井一正は亀倉の作品を、「戦前から現在までを含めて日本のグラフィックデザイン史上、最高の傑作」と語っている。「造形的にはもっとすぐれたポスターが今後、生まれるかもしれません。しかし、あのポスターには高度成長に向かう日本人の勢いが表現されている」。
シンボルマークは1961年に公式ポスター第1号となりました。以後、1年に1作ずつ、全4種が制作されます。第2号は6人のランナーのスタートダッシュを撮影したものです。さらに、バタフライで両腕を大きく広げた瞬間をとらえた第3号、土手の上を走る聖火ランナーを撮った第4号と続きました。第2号を含む21大会分のポスターが『芸術新潮』に掲載されていますが、PE(保健体育科)の事務室には、歴代のオリンピックポスターをあしらった56枚のトランプのパネルが掛かっています。すっかり色褪せてしまっていますが、無理もありません。PE主任だったM先生が一枚一枚ていねいに並べて完成させたのは10数年前のことでした。
亀倉は「東京オリンピックで後世に残ったデザインがふたつある」といいます。「僕がやったポスターとそれからピクトグラムだ」と。 「ピクトグラムとは一般に絵文字と呼ばれるもので、たとえば「非常口」と漢字で記す代わりにドアの上に人が出ていく姿をシルエットで描いたものをいう。今ではピクトグラムははるか昔から存在したものと思い込んでいる人も多いが、ピクトグラムが標準化されたのは東京オリンピックが世界初であり、開発したのは日本のグラフィックデザイナーたちだ」
笑い話があります。“日本のエッシャー”とも称された、トリックアートで知られる福田繁雄は、ピクトグラム制作担当の一人でした。ある日、建設省の役人がこう依頼する。「次はシャワーです。シャワーを表す絵文字を作ってください」。福田は“シャワー”という言葉をこのとき初めて聞いたのですが、当時そんなものを使っているのは大都市のごく一部の人間に限られていたのだから、彼を笑うことはできません。となりのデザイナーに訊いたところ、これも知らないという。思い切って役人に質問してみると…役人も見た事はなかった。写真を示して、 「ここには汗をかいた選手が身体を洗うために上から水を流す装置と書いてあります。ほら、これを見ると、花に水をやるジョウロのようなものですね」 苦心の“シャワー”は、『ピクトグラム[絵文字]デザイン』(f/727/Ot81p)の「東京オリンピック・施設シンボル」のページに掲載されています。
デザイン専門委員会の委員長は、デザイン評論家で『グラフィックデザイン』誌編集長の勝見勝でした。彼は12人の担当者が3ヶ月を費やして全作品を完成させたとき、全員を集めて労をねぎらったあと、「みなさんのサインを下さい」と言って、ある書類を配りました。それには、“私が描いた絵文字の著作権は放棄します”と記してあったのですが、勝見は次に、宣言にも等しい言葉を発した。「あなたたちのやった仕事はすばらしい。しかし、それは社会に還元するべきものです。誰が描いたとしてもそれは、日本人の仕事なんです」。
福田の回想も心憎い。 「勝見さん以外の人ならば、著作権を申請してお金儲けをしたかもしれない。しかし、勝見さんはそんなケチなことは考えなかった。著作権料を要求したら、ピクトグラムは普及しないと思ったのでしょう。あの人は、これは日本人の仕事ですとはっきりと言った。立派だった。立派な日本人の顔をしていた。僕らは勝見さんがそんな先のことまで考えて仕事をしているなんて想像もしなかったんです」
「オリンピックは人類の持っている夢のあらわれである」とは、記録映画『東京オリンピック』の画面に最初に現れる文字ですが、野地秩嘉は著書『TOKYOオリンピック物語』に、 「東京オリンピックで標準化されたピクトグラムは今や日本中の公的施設、民間施設に採用されている。…日本人は絵文字が好きなのだろう。世界中の人間が携帯メールを使っているけれど、日本人ほど文章の中に絵文字を入れる人種もまた珍しい。その日本人が大好きな絵文字の元祖がピクトグラムなのだ」 と誇らかに綴っています。まさに、グラフィックデザイナーたちが東京大会に向けて見た夢のあらわれでしょう。 (M)
主に野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』(小学館)から引用させていただきました。 また、『東京人』(都市出版)2004年9月号 特集「東京オリンピック1964」を参考にしました。
おまけ: 1964年東京大会の開催が近づいたある日、国立競技場で使う表彰台ができてないとの緊急連絡が、組織委員会からデザイン室に入った。国体用のものはとても使用に耐えないという。連絡を受けたスタッフは一人で、生まれて初めての表彰台設計に臨みます。大きな紙に線を引き実際に乗ってみてサイズを決める。設計図を書いて中央に五輪マークを入れる。それだけできると一番近くの工務店に駆け込みました。「とにかく急いでいるんです」。 職人はその、構造計算も何もない設計図(?)をチラとみて、「オリンピックか」と呟くとすぐ、角材を打ちつけて枠を組み、ベニヤ板を切り出して貼りつけ、あっという間に仕上げてしまいました。スタッフが乗ってみたけど、揺れたりもきしんだりもしません。完璧な職人芸でした。この表彰台は会期中ずっと使用され、アベベも乗ったそうです。 だから…2020年の聖火台を忘れたことぐらい、どうってことないでしょう!