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『洋酒天国』第34号(昭和34年3月刊)です。サントリーがまだ寿屋といっていた頃のPR誌で、昭和31年4月に創刊されました。『経済白書』(332.1/Ke29k/1956)第一部総説の結語にある“もはや「戦後」ではない”が流行語になった年です。目次には「ワライバナシノヨウナハナシ」(ヒャッカテンオウMACYヨリ)や「黄色いメフィストフェレス」(谷譲次)などのタイトルが並んでいます。
奥付に「洋酒天国は毎号発行毎に、「寿屋の洋酒チェーン」加入のサントリーバー・トリスバーでお受け取りください。品切の節は郵券三〇円同封の上発行所へ。一年分ご予約は三百円です」とあるように、当初は系列店でマッチ代わりに配る宣伝媒体であり、また、客を繋ぎとめるためのノベルティーでした。B6判で40ページ。裏表紙も見えるように開いてあります。 第51号からA5判になりました(写真右)。こちらは170ページもあり、前書きに「今後はさしあたって季刊で発行します」と記されています。なお、小玉武『『洋酒天国』とその時代』(筑摩書房)巻末の総目次によれば、第57号からB6判に戻ったようです。 このように判型や刊行頻度を変えながら、同誌は61号まで出ました(23号と24号は合併号なので全60冊)。全号の表紙を、A4変形判の『日々に新たに サントリー百年誌』が“日本広告史に残る「洋酒天国」”と題して、4ページに亘って掲載しています。併載の記事によると、発行部数は“最高二十四万部にまで達したのである”。
1983年になって、往時を懐かしむ元愛読者のために『アンソロジー 洋酒天国』全2巻(サントリー博物館文庫)が編まれました。オビに曰く、 「…ドリンカーの民度向上をめざし、夜の岩波文庫(?)とでも呼ぶべき快文書が出版された。その名は『洋酒天国』。編集長は開高健。この雑誌は、終刊後も古書市場でバックナンバーが高額で取引されたと聞く。ここに、昔日を2冊本に濃縮し、お色直しをして発刊する次第である。…」(1985年に第3巻が追加された)。
第1巻に各号の巻頭言がまとめてありますが、そこにこんな一節がある。 “酒場でウイスキー・ソーダをあおっている一団から、だれかが高く祝杯を差しあげて、「何? 氷山だって! ありがたい。おい、給仕、ひとかけらぶっかいて来てくれ、この酒へ入れるんだ」わあっと歓声が上がった。みなタイタニックを信じ切っていて、あんなことになろうとは一人として想像もしなかった。牧逸馬《運命のSOS》より“
牧逸馬は谷譲次の別名です。彼にはもう一つペンネームがあって、昭和44年に河出書房から出た全集は『一人三人全集』といいました。一人2冊ずつの全6巻です。「運命のSOS」は第5巻「世界怪奇実話 浴槽の花嫁」に収録されています(図書館OPACの青空文庫でも閲読可能)。この巻には松本清張が一文を寄せていて、上に引用した場面は「作者の機智だろうが、…」と述べていますが、ウィノカー編『SOSタイタニック』(旺文社文庫)には、 “ゲームをやっていた一人は、ウイスキーのグラスをかざしながら見物人の一人のほうを向いて言った。「デッキに走って行って、氷でも船に落ちているかどうか見てくれないかね、このグラスに少し欲しいんでね」われわれはどっと笑ったが、彼はそのように想像していたのだった” との証言があり、ウォルター・ロード『タイタニック号の最期』(ちくま文庫)も、 “二等のスモーキング・ルームでは、だれかが、氷山の氷をハイボールに入れられないものか、などとふざけて言った。それが実際にできたのだ。「タイタニック号」が氷山をかすって通った時、氷山の氷が数トン、バラバラと砕けて前のマストのちょうど反対の右舷のデッキの上にどっと落ちた” と書いています。まさに、あんなことになろうとは一人として想像もしなかった。
その後の悲劇を巡る数々の伝説の中で、最もよく知られているのは、ストラウス夫妻の最期でしょう。牧が淡々と綴る。 救命ボートは婦女子優先だった。“二等運転士のハウォウスがイサドル・ストラウス(注:Isidor Straus)夫人にボウトに乗り移るように奨めると、夫人は断乎として拒絶して、「ストラウスの傍を離れるのは嫌です。ストラウスの行くところへ私も行きます」。そして夫妻は、腕を組んで傾く甲板に立っていたが、半時間後には、しっかり抱き合って、海中深く捲き込まれ去った。” 事故の調査報告書に基づき忠実に再現したスペクタクル大作、としてアカデミー賞脚本賞を受賞した映画『タイタニックの最期』(1953)でも印象に残るシーンだった。
敷衍すると、このときストラウス氏は、「あなたのような老紳士がボートに乗りこむことには、だれも反対するする人はないと思いますから……」と促されたが、“「私はほかの人より先には乗りません」彼はこう言ってその通りにした。それからストラウス夫妻は、デッキ・チェアーにいっしょに腰をおろした。” “イシドア・ストラウスにとっては、彼の書いた遺書は皮肉なことになった。遺書のなかの一項にストラウス夫人に、「すこしは利己的になること。他人のことばかりを考えないこと」と書きのこしていた。夫人は長い間、自己を犠牲にして生きてきたので、ストラウス氏は、自分が死んだ後には、夫人にも生活を楽しませてやりたいと考えていたのだ。いま、彼が非常に敬意を払っていたものへの、自分の願いもかなえられなくなったと思っていた” (『タイタニック号の最期』より) ストラウス氏は、“ニューヨークにある世界最大のデパート、メーシーズを兄弟で所有していた”。メーシーズ(MACY百貨店)には、夫妻の肖像を刻んだ記念碑があるそうです。
氷山はストラウス夫妻を分かつことはできませんでしたが、氷はハイボールのグラスに入れられたんでしょうか? ロビン・ガーディナー他『タイタニックは沈められた』(E/935.9/G223rJ)はこういっています。 “その氷山はたしかに悪臭を放っていたと数多くの証人が述べている。氷山はおそろしく古い鉱物質、植物質、魚質、さらには動物質までも含んでいることが多く、それらが数千年ぶりに空気にさらされたときには、太古の臭いを漂わせる。この不快な事実は、凹甲板前方に落ちてきた氷山のかけらが飲物に入れられたという話に抵触する。”
愉快な事実を紹介しているのは『タイタニック号の最期』です。パン焼き主任のチャールズ・ジョーヒンは、事故を知って救命ボートにパンを運び入れるよう指示したあとキャビンに戻り“ウィスキーをひとあおりした”。それからデッキへ出て、乗客がボートに乗り込むのを手伝い、もう一度キャビンに帰って“またウィスキーを一杯あおった”。 彼が避難した船尾は真っ直ぐに持ち上がり、やがて沈み始めます。“それはまるでエレベーターに乗っているようだった。海面が船尾を隠した時、ジョーヒンは水中を歩き出した。彼は頭さえぬらさなかったのである。凍りつくような海水もほとんど気にかけずに、彼は暗夜のなかへ泳ぎだした”。やがて救命ボートに泳ぎ着きました。“彼は相も変わらず平気な顔をしていた”。だから…酒は飲んでおくべきである。 (M)
おまけ: ストラウス夫妻がベッドに横たわっている短いシーンが出て来る映画『タイタニック』(1997年)は、深海に沈むタイタニック号を調査している場面で始まりますが、1985年と1986年に行なった潜水調査をまとめたロバート・D・バラード『タイタニック発見』(文藝春秋)は、写真満載のA4サイズ大型本です。中でも、それぞれ見開き3ページの、タイタニック号船首を上から撮った連続写真と、右前方からと左後方から撮影したものは圧巻。また、栓をしたままのシャンパンと、水圧でコルクが中に押し込まれてしまっているワインボトルの写真は、『洋酒天国』元愛読者の涙を誘うに違いない。 調査のもようを収録したナショナル・ジオグラフィックDVD『豪華客船タイタニックの悲劇』には、「バラードは、タイタニック号からは何も持ち帰らず残骸はそのままにしておく、と宣言していました」とナレーションが入っているが、その後の調査では数多くの遺留品が引き上げられました。一部は公開され、日本でも1998年に「タイタニック引上げ品展」が東京と横浜で開催された。チラシには、唯一の日本人乗客細野正文がタイタニック備え付けの便箋に綴った、同家が保存していた手記の写真も載っているが、これについては正文の孫である音楽家細野晴臣が、『タイタニック号の最期』の解説で触れています。