? コラム M氏の深い世界 20190204:国際基督教大学図書館 ヘッダーをスキップ

朗読の時間です 2019-02-04

坂田明、といっても知らない人が多いと思いますが、フリージャズのサックス奏者です。山下洋輔トリオのメンバーだったり、テレビCMに出たり、ミジンコの本を書いたり、多方面で活躍しました。『平家物語』の朗読も敢行(?)しています。DVD『坂田明/平家物語 実況録音映像篇』によれば、2012年6月の新宿ピットインでのライブで、坂田の朗読のほかアルトサックスやクラリネットはもちろんのこと、義太夫三味線に小鼓、浄瑠璃も加わるというから、推して知るべし。
開演前から坂田の異様な呻き声が聞こえて、そのまま“祇園精舎の鐘の声ェ~”と始まり、6分近く続いて最後の方は喚き声、それから演奏に入る。何度も観るもんじゃないですが、シンボーしていると面白いこともあります。
坂落の段は、坂田の「さかおとし」というセリフで開始するも、続けて、譜面台に立てた台本をあれこれ開いて「さかおとしはどこじゃ?」。隣の鼓奏者が「これです」と自分のを差し出す。観客席から笑いが起こると、坂田は「ぬははは!」と合わせ、ワンフレーズ語ったあと台本を返して「かたじけのうござった」。

この『平家物語』を愛読することただならず、もう何度読んだか分からないが、その読む度に、心の中に音楽を感じるようになったと云うのはリンボウ先生こと林望です。東京芸大の教官時代には、大学院の演習で、ただひたすら朗読する演習を課した林は、自らも小学生の時分から朗読が好きだったと『リンボウ先生が読む漱石「夢十夜」』(ぴあ)に記しています。この本、衛星デジタルラジオのミュージックバードで放送した『夢十夜』の朗読を収録したCDが付いていて、全文を耳でも楽しめます。解説がわりの短いエッセイがあって、
「「夢」というものは哲学的な意味を持っています。ドイツ語の「Traum(トラウム)」と英語の「Dream(ドリーム)」は同じ語源の言葉ですが、一方で「トラウマ(Trauma=精神的外傷・体験)」という言葉もあり、それもまた根は同じ言葉です」
と書いていますが、ここで思い出す。坂田明は以前、片面1曲ずつのレコードを出していて、曲名はそれぞれ“Tra”と“Uma”、アルバムタイトルは“Trauma”でありました。

観世流を学んでのち能楽公演の地謡方を勤めるようになったリンボウ先生の朗読、それも『夢十夜』とあって、私はたいそう期待しましたが、どうもこの、BGMが邪魔なんですね。ヤナーチェクだったりエルガーだったり、第八夜からは三夜続けてサティでした。決して嫌いじゃないんだけど、朗読に被せるには存在感があり過ぎた。ラジオ放送ですから無理からぬことなんでしょうけれど。
(これを書いている最中、ミシェル・ルグランの訃報に接する。26日、パリの自宅で死去。86歳。彼が弾くErik Satie作品集を聴いて、CD1枚分の時間を過ごす)

で、音楽は短く出てくるだけの朗読(正確には〈音声劇〉)を聞いてみる。『新潮』(P/910.5/Sh61)2011年5月号の付録CDです。河野多恵子の試聴記をところどころ引きます。
「谷崎潤一郎(一八八六―一九六五)は、一人称・日記体の「瘋癲老人日記」を完成して間もなく、主人公〈予〉の役でラジオ・ドラマに数え年七十七歳で出演している。このたび、半世紀ぶりで、思いがけなく、その谷崎の音声に接することになった。……普通テレビやラジオをつけても聞こえてくるのは加工された声だが、ここでいきなりわたしの耳に入ってきた声は加工されていない。磨き上げられた「棒読み」である。……伝統芸能ではめずらしくない老人の声の魅力をラジオドラマに持ち込み、わざと「棒読み」に近い読み方をすることによって、ありきたりの「知」を捨てて独特の「痴」を演じきっている。何度か聞いたがまだ飽きない。」

『瘋癲老人日記』は、長男の嫁である颯子(さつこ)に懸想する老人の日記です。日付が変わるごと、武満徹作曲の間奏が入る。本文はずっと一人称で綴られていますが、音声劇は省略変更を加えてあり、例えば、颯子の部分は淡路恵子が演じています。もちろん谷崎の朗読が大部分を占める(CDは77分余を収録)。放送されたのは1962年5月でした。
河野は「棒読み」といいますが、谷崎は地の文と会話部分で調子を違えて語っており、単調にはなっていません。いとうせいこうは、その移り帰りの「瞬間の最小限の声音の変化を十二分に楽しんだ。スリルがある。味がある。……ともかく造作を嫌ってみせ、ナレーションではいかにも読んでいますという息を使い、わずかなセリフではそれを抑えて自然らしい語りに入ることでかえって叙述の構造を形成する。なかなかの手だれと言わざるを得ない。」と感想を述べています。正にそのとおり、一聴に値するパフォーマンスだと思います。

川﨑洋には『自選自作詩朗読CD詩集』(ミッドナイト・プレス)があります。オビの“詩人自選の15詩集68篇を詩人自らが朗読する声の詩集”が説明の全部で、本には目次と詩と奥付だけ。著者紹介も解説も一切ありません。朗読も、淡々と次々に読み上げられるのみで、BGMも効果音もなし。清々しい限りです。
各文末のリフレインが楽しい「結婚行進曲」(『川崎洋詩集』(b/911.56/G34/33)所収)は、やっぱり活字に軍配を上げたい、「にょうぼうが いった」(『続・川崎洋詩集』(b/911.56/G34/133)所収)は、思ったとおり音読向きだ、などと思いながら聞き通しました。文字と朗読で同時に鑑賞すると、「イワシ」に出てくるあの言葉は別の同音語でもおかしくない、「タンチョウ」のあそこは行替え不要では、など新たな発見(畏れ多くも!)もあって、目が(耳が)話せない70分でした。

“Reading Company”と名乗って自作朗読会を行なっているのは、大沢在昌・京極夏彦・宮部みゆきの三人組。古本市でCDのvol. 5と6と9を見つけましたが、ジャケットには開催の年月日と会場しか書いてない(2006年、2007年、2010年です)。定価も不明。半信半疑で買ってみたら、どれも2枚組で、1枚はそれぞれの自作自演、もう1枚は三人の共演を収録してありました。上演中のスナップに、作品名と出典だけのキャプションが付いています。宮部の「“旅人”を待ちながら」、共演による「ぶんぶんぶん」(大沢のらんぼうシリーズ)など書下ろし作品もあり。大沢も京極も宮部も読んだことがない身には、京極夏彦「五徳猫」疾風怒涛ヴァージョン・猫抜き、って何のことやら……と尻込みしてましたが、これを機会に6枚まとめて聞いてみました。(よく分からないままだが、猫抜きイコール耳だけの意らしい。写真を見たら宮部女史の頭に猫耳が付いていた)

テキストなしで語られると、次の言葉をじっと待つしかありません。本のように先の文字まで読めてしまうことがない。活字人間には新鮮であり、もどかしくもありましたが、皆さんすごいデス! 自作朗読がすでに上手い。声も語りも見事で、すぐ作品世界に引っ張り込まれる。優劣つけられないのでストーリーで選ぶなら京極「匣の中の娘」(vol. 6)か。宮部が三言だけ応援参加してます。で、共演の方は、三人の芸達者ぶりに圧倒されるというかアキレルというか。それぞれが声色を使い分けて何人もの役を担当しながら進んで行く。男声はどれが誰だか判然としないし、女声は一人のハズなのに多彩なこと。(ときどきウッウッと笑いをこらえていました)

「ぶんぶんぶん」(vol. 6)はこんなふうです。編集者はモモサワといって小太りでヤケに眉が濃い。黒いマスクをしたサイゴクジ・ハルヒコなる占い師の講演会「妖怪とともに今を生きる」を聞きに行く漫画家アヤベ・ミズキ先生にモモサワは同行する。アヤベはコスプレ趣味があり、メイドの衣装で(ファンファーレ付きで)登場する。占い師は言う。「霊の世界はある。この世とあの世は地続きだ。妖怪はいる!」。それから「目に見えないものは、いるわけですよ」と水木しげるの口真似をする。会場には刑事が二人いて、さらに男女が絡む。う~ん、聞いてるだけでは不満が募ります。見てみたい。
人気作家たちの朗読会ですから毎回満員御礼だったんでしょうが、2014年の第13回がファイナル公演となりました。必要経費以外はチャリティーに全額寄付していたそうです。もちろん全員ノーギャラだった。

vol. 6には、第1回公演の共演作「おっとっと」冒頭部分が〈おまけ〉で付いています。どこかのコラムみたい。 (M)

おまけ:
河崎洋に「花と魚の関係」という詩があります。
 はなは
 はなやで
 はなひらくけど
 さかなは
 さかなやで
 さかない
 (『続・川崎洋詩集』(b/911.56/G34/133)より)

以前に聞いた漫才のギャグを拝借して、「蛸と鯛の関係」を作ってみました。
 たこやきに
 たこは
 はいっているけど
 たいやきに
 たいは
 はいっていない

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