大学図書館関係の会議・ワークショップに出かける事が多くなった。目下この業界の最大の問題はデジタル技術の教育への応用。インターネットが娯楽・ビジネスに普及してから久しいのだけど、ここに来て大学教育にも本格的にネットやデジタル技術を導入する機運が高まってきた。
アメリカでは早くから遠隔教育(distance education)の概念が浸透していて、オフ・キャンパス教育の理論と方法が確立していたんだけど、国土が狭いせいか日本の大学ではとにかく「授業を受ける事=教室へ行く事」という通念ができあがっていたみたい。いくらアメリカで遠隔教育が盛んですと言っても、ああそうですかで済んでいた。ところが、ここのところこの話題がにわかに活気付いているのには訳があって、それは18歳人口の減少に伴って高校から大学に進学してくる人間の絶対数がどんどん減ってしまうという事実。そのためどこの大学もいわゆる社会人枠を設け、積極的に生涯教育を行おうとしている。
「大学=平均的な中流以上の日本人が高校生から社会人へ至る過程でお世話になる、多くの場合モラトリアム許容型就職予備機関」ではない大学が今、求められている。学問を本気でやりたい人間が年齢・職業に関わりなく学べる場である事が生き残りの必須条件だ。その実現のためにはキャンパス・教室という場所に縛られない形態の教授法が必要とされる。そこでデジタル技術を使わない手はない。
某セミナーでの講師曰く、授業・学習は情報中心から学習者中心へと変わらなければならない。学習者が教室という限定された空間に限定された時間に集合し先生という知識体から情報の伝達を受ける「情報中心」の形態から、学習者が時間・空間を自由に選択して情報にアクセスできる「学習者中心」へと変わらなければならないという意見だ。
そう簡単には行かないだろう。しかし、インターネットという技術が否応なしにそれを要求し始めているのも事実だ。例えばシラバスに対する期待と要求・不満はよく耳にする。シラバスを出さないということは「教室にくれば教えるのだから教室まで出向いて来い」という態度を表しているわけだが、果たして教室で「ネットでは伝えられないもの」を伝えてくれるのだろうか? 単なる知識の伝達が行われるだけなら教室に一堂に会する意味などあるだろうか? ある程度の束縛・強要がないと人間、自らは中々学ぼうとしないものなのかもしれない。 しかし、そんな情けない理由だけのために学生を集めるのだとしたら、何をか教えんである。純粋な情報の伝達はウェブで済むはずだ。教室ではそれらの情報を元に、一堂に会する現場でしか実現できないinteractiveな活動が求められる。またそれ以上に文字では中々伝えにくいもの、恥ずかしげもなく言えば「魂」や「情熱」が、これからの教室には要求されるのだろうと思う。