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三つの筆名、三つの誌名(古い雑誌から) 2016-04-14

左は『幻影城』1978年8月号です。今年2月6日付の朝日新聞夕刊に、"「謎の新人作家」栗本薫だった"という記事が載りました。2月9日には毎日新聞夕刊が、"作家デビュー前の栗本薫の筆名発見"と報じています。

毎日新聞によると、「『幻影城』の創刊は1975年2月号。編集長は島崎博さん。過去の名作の復刻と再評価のほか、幻影城新人賞を設けて新人の発掘につとめ、ミステリーファンに愛された」。

創刊号は、実際には前年の12月末に店頭に並んだ、いや、ひっそりと置かれたといった方が正しいかもしれません。地方都市の書店で1冊だけ棚差しになっていたのを買った記憶があります。探偵小説専門誌と銘打っているのに、なぜか特集は「日本のSF」でした。

巻頭記事は編集人島崎博の「目で見る探偵小説五十年」。第1回は、"「新青年」が創刊された頃(注:大正9年)の同時代の翻訳探偵小説叢書を珍しい書影を取り入れて、資料としても充分使えるよう、解説を進める"と、さまざまな叢書の内容細目と写真を11ページにわたって掲載しているが、実は島崎は、日本有数のミステリーコレクターとして知られていました。しかも書誌研究にも優れ、三島由紀夫夫人と共に『定本 三島由紀夫書誌』(Bibl/913.6/Mi53Ys)を編んでもいます。

この1978年8月号も、特集は日本のSFです。そこに、ショートショートACT/1星間急行、ACT/2ポーの末裔、ACT/3物質電送ラッシュ、ACT/4満員電車の中で、から成る「23世紀のラッシュアワー」を書き、同じ年に「23世紀のポップス」と「革命専科」を発表しただけで、

「"消えた"新人女性作家としてミステリーマニアや研究者らに知られる「京堂司」が、栗本の別名義であることが判明した。栗本は77年、「中島梓」名義で先に評論家として認められたが、作家デビューの夢を胸に京堂名義を使っていたと、島崎さんが明かした。当時、栗本は編集部に入り浸り、原稿を持ち込んだり、島崎さんの要請で空いたページの穴埋め原稿を書くことがあった。78年、『ぼくらの時代』で江戸川乱歩賞を受賞し作家デビューしたのを機に、京堂司は"筆を折った"ようだ。「姓に2字、名に1字の原則にのっとっている」と野地(嘉文)さん」(毎日新聞より)

補足すると、78年8月号には、「23世紀のラッシュアワー」と並んで、栗本名義の「SFランドへようこそ」全12ページも併載されています。また、77年に中島梓として群像新人文学賞を受賞した評論は「文学の輪郭」です。『群像』(P/913.6/G94)1977年6月号に掲載されました。

毎日新聞は、「(『幻影城』は)79年7月号を出した後、倒産。島崎編集長は故郷の台湾に戻り、誌面で「休刊」のお断わりもできないままになっていた。創刊40年を迎えた昨年、ミステリー研究家の野地嘉文さんが終刊号を提案し、島崎さんの賛同を得て編集が始まった」とも伝えています。

倒産の予兆はありました。1979年1月号(第50号)の次の号は同年5月号だった。そして、7月号(第53号)は日影丈吉「夕潮」前篇200枚を一挙掲載し、次号予告にその後篇と栗本薫による好評連載本格探偵小説「弦(いと)の聖域」第7回を掲げたが、それはついに読者の手元に届かなかった。空しく数ヶ月、書店に通ったものです。

中央が『幻影城 終刊号』です。栗本の特集は「23世紀のラッシュアワー」と「ぼくの探偵小説・新十則」を再録、さらに単行本未収録短篇「伊集院大介の追跡」を収めています。また、栗本の夫今岡清による「居場所を求めて―ある青い鳥の物語」は、彼しか知り得ない"彼女の精神史のようなもの"、時に怒りとなって爆発した孤独感・疎外感と、その素因と思われる、幼少期の彼女と母親との関係を綴っていて興味深い。ところで、この終刊号の奥付は、1月終刊号(第7巻・第1号・通巻第55号)となっています。では、第54号はどこに?

2007年1月15日、読売新聞朝刊が、「伝説の「探偵小説誌」を証言 「幻影城の時代」刊行」という記事を掲げました。同日の毎日新聞夕刊は「『幻影城の時代』を自費出版 ファンら探偵小説専門誌を回顧」、そして19日朝日新聞夕刊も「「幻影城の時代」 100人が語る名雑誌の魅力」として採り上げています。記事を総合すると、『幻影城』元編集長の島崎氏は消息不明だったが、台湾で日本ミステリーの翻訳・紹介に従事していることが判明し、2004年に同地でロングインタビューが実現、貴重な証言を得た。そこへ、『幻影城』を懐かしむ作家や評論家らから無償の寄稿がどんどん集まり、300ページ余(注:318ページ)の充実した内容となった、というものです。

実は、『幻影城の時代』はこのとき、すでに入手困難となっていました。出たのは前年の12月。記事を知った頃はネット上で、「品切れ」「店頭在庫のみ」「完売した」、さらには「**書店に*日の夕方*冊入荷予定」などの怪情報も飛び交い、仕事を終えてから神田神保町まで出向いては手ぶらで帰ってきたこともあります。『幻影城』休刊のときと同じように振り回された訳です。

右が同人誌『幻影城の時代』です。「回顧編」と「資料編」の2部構成で、本の表と裏が、それぞれ天地さかさまの表紙になっている(写真は回顧編の表紙。資料編の表紙は1976年1月号と同じ)。栗本は回顧編のエッセイ「「幻影城」のころ」で、連載していた「弦の聖域」にふれています。『ぼくらの時代』が江戸川乱歩賞の最終選考を通過して内々に内定したことを受けて、

"「うちで受賞第一作の小説を連載しよう」ということになってここでスタートしたのが「弦の聖域」でした。でもこの作品は毎回100枚で連載しているちょうど7回目くらいにまさに「幻影城」がつぶれて島崎さんが行方不明になるということになり、ラスト1回が宙に浮いてしまったのですが、しようがないので拾ってくれるという講談社さんで、ラスト100枚を書き下ろして出したところが、吉川英治文学新人賞を頂戴し、それでまあ一応作家としての椅子は確定したというのでしょうか。"

2008年9月、島崎は29年ぶりの来日を果たす。13日には学士会館で「島崎博氏をお迎えする会」が開催され、席上、本格ミステリ大賞特別賞の贈呈を受けました。"160名以上の作家、評論家、編集者、ファン、関係者が出席。…歓談の合間にはスペシャル・イベントも行われた。まず最初は、栗本薫氏によるジャズピアノ演奏"。ピアノの脇でマイクを握る着物姿の写真があります。挨拶のあとの一曲目は「時の過ぎゆくままに」("As Time Goes By")でした。

同年12月、お迎えする会のレポートなどを収めた『幻影城の時代 完全版』が講談社から刊行されました。オビに"同人誌版に大幅増補を施し、満を持して贈るスペシャルプレゼント"と謳った、函入ハードカバー660ページの大冊です。編者断想"As Time Goes By"に、本田正一はこう記しています。

「同人誌『幻影城の時代』は売れ行き予測のつかぬまま、八百部を印刷。関係者の誰一人、想像もしなかった圧倒的な歓迎を受けた。発売十日後に版元在庫が払底し、続けてすぐに流通在庫もなくなったのである。讀賣、毎日、朝日、日経各紙でも大きく報道されたが、すでに完売の状態だった。ネットオークションでは定価の十倍以上で落札され、品切れとなった取扱い書店には苦情の電話が殺到したという」

800部では品薄は当然。定価でゲットできただけでも御の字というものです。

完全版には、栗本が1978年5月号に発表した評論「幻影の党派」と書下ろし「誰でもない男 伊集院大介の秋思」の他、彼女手書きの「影の会通信」も収録されています。これは通信の第1回にあるように、『幻影城』新人賞関係出身者の会の機関誌で、親しみやすい自筆(ところどころ塗りつぶしてある)と本人描く自画像その他の似顔絵などが4回分楽しめる。

そして、『幻影城』第54号は完全版の巻頭に2009年1月号として、ブック・イン・ブックの形で収まっています。

おまけ:

『幻影城』1978年9月号に雑誌『翻訳の世界』8月号の広告が出ています。なんで、と思いましたがすぐ納得。特集が「ミステリィ」でした。作家・評論家・翻訳者らが執筆していますが、「編集の現場から」というコーナーには、『EQ』や『ハヤカワ・ミステリマガジン』の編集者と並んで島崎博も登場し、「リアリティのあるロマンを目指して」と題して自らの編集理念を披露している。

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