? コラム M氏の深い世界 20180421:国際基督教大学図書館 ヘッダーをスキップ

蝶がヒラヒラあっちこっち 2018-04-21

2017年6月15日付け朝日新聞の天声人語は、こう始まります。
「中世の絵巻物にはチョウがほとんど現れないと、中世史家の網野善彦が書いている。「人の魂と考えられ、むしろ不吉とされていたからではないか」と、理由を推し量っている」
これは『日本中世に何が起きたか』(210.4/A45nh)の「序にかえて」に出てきます。人々はその美しさに、かえって人ならぬものの恐ろしさを感じていたのではないだろうかというのです。さらに、「東国では黄蝶の群舞するのは「兵革の兆(へいかくのきざし)」とされていた」ことを指摘する。

丸谷才一は、同じことを王朝和歌について考えていて、1998年刊のエッセイ集『男もの女もの』(文藝春秋)所収の「菜の葉に飽いたら桜にとまれ」で、こう切り出す。
「笑つてはいけませんよ。蝶について、わたしは一つ重大な疑問をいだいてゐた。日本には昔、蝶はゐなかつたんぢやないかといふ疑問である」
そんなことはあり得ない、いなければ菜の花が困るから絶対にいたはずだと打ち消しますが、しかし、なおも思い悩むのだった。
「『古今集』には蝶は出て来ない。『千載集』にも、『新古今』にも出て来ない。『万葉』にだつてないんです。をかしいぢやないか」

和歌では普通、仏教語などは例外として、字音は用いない。そのせいか? 否。
「「蝶」といふ漢字に訓はあつた。ただし、古訓といふやつが一つあるきりで、早く亡んでしまった。それはカハヒラコといふのである。『今昔物語』に出て来る。しかしこれもまた王朝和歌では使はれないのですね。『万葉』も『古今』も『新古今』も……カハヒラコの歌を収めない」
丸谷は、うーむ、大変な謎だなあ、と『大言海』(R/813.1/Ot89d)や『日本古語大辞典』(R/813.6/Ma86n)を引いたりしています。『大言海』にはこうある。〈かはびらこ カワビラコ〉「〔河邊ニひらひら飛ブ意カ、…〕てふ(蝶)の古名」(注:かはびらこの「こ」は変体仮名)。古訓であり古名です。ほかの訓がないのは変だとますます考え込んだ丸谷は、これは忌み言葉だった、蝶を人の魂だとみなす俗信があって口に出さなかったのではないかと見当をつける。このあと網野の『日本中世に何が起きたか』を知って、意を強くするのですが、人家が増えて山野が乏しくなるうちに、蝶を恐れる気持ちは薄れていったと、芭蕉の
 君や蝶我や荘子が夢心
などを引き合いに出します。

蝶を詠んだ俳句といえば、小泉八雲の『怪談』には別立てで「昆虫の研究」が収められていて、そのうちの『蝶』は20句以上を列挙しているが、正岡子規の
 撫子に蝶々白し誰の魂
 On the pink-flower there is a white butterfly: whose spirit, I wonder?
(結句の読みは「たれのこん」とも「たれのたま」とも)
には、未だ蝶への畏怖が残っているようです。八雲によれば、
「日本人の信仰では、蝶は死者の霊でもあれば生者の霊でもある。肉体をいよいよ離れることを報ずるために霊魂が蝶の姿をとる習いがある。だから蝶が家に舞い込んでくるときは必ずやさしく対応せねばならない」(『骨董・怪談』(933/H51)より)

八雲はまた、これは日本土着の話だろうと前置きして、ある墓地の裏手に独居する高浜という名の老人と白い蝶の物語を記し、「これは極東にはロマンティック・ラブはないと信じている人のために語るに値するものと私には思われる」と感想を述べるのですが、丸谷もエッセイの後半で、金関寿夫『魔法としての言葉 アメリカ・インディアンの口承詩』(思潮社)に収められたホピ族の詩「きいろい蝶たち」に触れ、同書の折込み付録で北沢方邦が、ホピのバタフライ・ダンスは女たちから男たちにむけた求愛の踊りである…と言っているのを見つけて面白がっています。もちろん、「黄蝶の群舞は云々」という網野の指摘は承知のうえで。

蝶、ロマンティック・ラブ、求愛と聞いて思い浮かぶのは、ルナールの短文集『博物誌』ですね。
 蝶 “二つ折りの恋文が、花の番地を捜している。”
ひらひら飛ぶ紋白蝶が目に浮かぶようです。これは岸田国士訳(b/954/R27hJk)。辻昶訳(b/954/R27hJt)だと、
 ちょう “このふたつ折りのラブレターは、花の所番地(ところばんち)をさがしている。”
となる。
岸田訳の方が簡潔な分、印象が強い。

岸田については、フランス文学者の河盛好蔵が丸谷との対談で言及しています。英文学の翻訳が上手くないのは何故かという話になって、
「一つは、字引のせいですよ。本当にいい辞書は名訳家の訳語を材料にしなければいけないのです。ところが日本の英語の字引は日本語の語感の鈍い語学者の作ったものが多い。あんな字引を使っているといい翻訳はできませんね。ところが、日本のフランス文学の翻訳がわりにうまかったのは岸田國士さんが下訳をした模範仏和大辞典を使ったからです。正確な語義からズレている訳語もたくさんありますけれども、日本語のボキャブラリーの豊かな人でしたから、たくさんの訳語が入っていて、翻訳家は得したんじゃありませんか。日本の仏文学の翻訳が一応読めたのは、岸田さんの作った字引のせいだと僕は思っております。」
続けて、
「日本のフランス語研究は非常に進歩しましたから、今できている字引には、岸田さんの作った字引にある元の語義から離れた訳語は省かれています。正確な訳語しか入っていないので、却って面白くなくなりました。岸田さんのものはなるほど不正確ですが、うまい日本語だから何かのときに役に立つことがあるのですね。」(『文学ときどき酒』(集英社)より)

岸田国士は劇作家、小説家。『博物誌』の訳者あとがきに、こう記しています。
「フランスの小、中学校では、よく書取の問題がこの書物のなかから出るという話を聞いた。彼の文章は、単純なようでいて「間違い易く」、ひと癖あるようで、その実、最も正しいフランス語という定評のある所以(ゆえん)であろう」

河盛の発言に通じるところがあるようにも思われます。ICU図書館には1950年の改版復興版『模範仏和大辞典』(R/853/Mo17a)がありますが、元々は1921年に出たもの。雑誌『ふらんす』(P/850.5/F92)2016年8月号に掲載の「にわとり語学書クロニクル」第5回が、この辞書にまつわる様々なエピソードを伝えています。それによれば、編者の一人で『星の王子さま』の訳者として知られる内藤濯は、“FとGの項目は岸田が書いた”と回想している。
宇佐美斉『中原中也とランボー』(911.56/N33Yu)にも、名前は明記されていないものの若き日の岸田国士が編集に協力したことが知られている、との記述があります。

なんだか、岸田訳がいっそうありがたく思われますが、それはさておき、5月23日はラブレターの日だそう。どれ、一つ書いてみるか。
(M)

おまけ:
八雲の『蝶』は、二人の妖精の乙女、天のものなる姉妹に愛された中国の学者のエピソードで始まりますが、岸田国士には二人の娘がありました。岸田衿子・今日子姉妹です。そして、甥に俳優の岸田森がいた。
彼は大の蝶好きでした。朝日新聞日曜版連載の「こんな時 こんな服」1974年6月2日は、岸田森で“チョウを追う”。小学校の3年からチョウに魅せられっぱなしで、これまでに捕えた数は万の単位、自宅に2000頭を秘蔵すると紹介されています。日除け帽子に編み上げブーツ姿で黒革ナイフと三角カンを携え、捕虫網を構えた笑顔の写真は、記事より大きい。
また、『週刊文春』1977年12月8日号には、「蝶」というエッセイを寄せている。採集を始めたのは、夏休みの宿題で提出した標本を先生に褒められたから。昆虫の宝庫・台湾では、一ヶ月に1800頭採った記録を持っているそうです。
1982年に43歳で病没。『不死蝶 岸田森』と題する評伝があります。

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