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1787年夏、マサチューセッツから来たルーファス・キングと、メリーランドから来たルーサー・マーチンは、フィラデルフィアにある図書館から本を借りて、そのまま返さなかった。二人は言い訳したものの、本の代金を支払うはめになった。
オビに「大学生に、この本を読ませたい。」と書いてある『合衆国憲法のできるまで』(あすなろ書房)を大きく参考にして、アメリカ合衆国憲法の成り立ちをまとめてみました。
イギリスからの独立を果たしたアメリカ13邦は、1777年に「連合規約」を採択しますが、主権はそれぞれの邦が有すると定めたこの規約は、邦と邦との間に起った問題の解決に強制力を持ち得なかった。しっかりした中央政府を作り一つの国家としてまとまる必要がある、と考えていたジョージ・ワシントンたちは、1786年にある提案をします。 「全ての邦の代表がフィラデルフィアに集まって大会議を開き、連合規約が決めた政府のあり方をより良くするよう話し合おう」 賛成しない邦もあったものの、この提案は1787年5月14日にフィラデルフィアのステートハウスで実現されることになる。1776年の独立宣言の舞台となったインデペンデンス・ホールです。
バージニア代表の一人は11日も早く着いた。ジョージ・ワシントン(これもバージニア代表)は9日に出発。頭痛や胃痛に悩まされながら13日夜に到着した。14日にはバージニア代表がさらに数人、加えてペンシルバニア代表数人がやって来た。が、会議は始まらない。少なくとも七つの邦の代表が参加しないと開始できない決まりでした。 条件が満たされたのは5月25日です。その後、ニューハンプシャー代表は旅費をかき集めて7月末には間に合った(?)。メリーランド代表の一人は8月6日に姿を現した。会議に参加したのは全部で55人だったが、遅れた者もあれば途中で帰ったのもいる。一度に30人以上集まることは殆どなかったそうです。
ジョージ・ワシントンが議長に選ばれた。ジェームズ・マディソン(バージニア代表)は4ヶ月の会期中一日も休まず、代表全員の発言を全て書き留めたという。ペンシルバニアのある代表はこの間、一度も口を開かなかったと伝えられる。公に関わる文書の保存は大切だとつくづく思います。
会議のたび、会議室は施錠し廊下には見張り番を立てた。意見が出る度にアメリカ中(と言っても13邦ですが)の人々がどちらかに肩入れするのはよくないと、代表者たちは考えたのです。この点は、『井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法』(講談社)で、井上が憲法前文を小学生向けに訳した(?)書き出し、原文にはない部分を思い起こさせます。(カッコ内は本文ではルビ) 「国民がみな、ひとつところに集(あつ)まって 話(はな)し合(あ)うことはできないし たとえできたとしても やかましくてなにがなんだかわからなくなるだろう」 この本は、『朝日小学生新聞』の連載をもとに構成したもので、タイトルどおり、子ども向きに翻訳した憲法前文と第九条、小学生に話した内容の再録からなっている。いわさきちひろの絵が大きく使用してあります。
フィラデルフィアの会議に戻ります。バージニア代表の一人エドマンド・ランドルフは、のちに「バージニア・プラン」と呼ばれることになる、三つの部門から成る政府案を主張します。執行府には一人の長を置き全体の運営の責任を持たせる。立法府は二院制とする。さらに、最高裁判所を頂点とする司法府を置く。三権分立ですね。 議論が巻き起こります。執行府の長、すなわち大統領に関するだけでも、一人でいいのか(三人にして折り合いがつかなかったらどうする)、給料を払うのか(愛国心に期待するな)、どうやって選ぶのか(この件については60回もの投票が行なわれた)。任期についても意見が割れた。長い方がいい。前大統領(元大統領もいます)が“亡霊のように”ぞろぞろといては面倒だ(ハバツのチョーローというやつですかな)。 ペンシルバニア代表のベンジャミン・フランクリンは、職に相応しくない人物だった場合は辞めさせることが親切というものだと言ってくすりと笑い、「さもないと、その人物を撃ち殺すほかなくなってしまうからね」と続けたそうです。このとき81歳。参加者中最高齢でした。大統領について意見をまとめるのには21日間を要した。
バージニア・プランの説明は5月29日に終わり、6月13日まで投票・修正・討議が行なわれました。一日休会したあと反対意見が出る、さらに反論がある。最終的には投票で賛否を問うた。7対3でプランの勝ちでした(メリーランドは意見がまとまらず棄権)。上院では小さい邦にも大きな邦と平等な投票権が与えられるのか、については5対5(ジョージアが棄権)。こんな調子で会議は進みます。加えて熱波・アオバエが代表たちを襲う。ステートハウス中庭に面した刑務所の囚人たちは、先に布袋の付いた長い棒を窓から突き出して施しを乞い、野次る罵る。図書館から借りた本のことなどに構ってはいられません。
7月14日ころに熱波は収まります。行き詰まっていた上院での投票権についても、どうにか意見がまとまった。次は草案の作成です。そのための委員5名を選出して、7月26日から8月6日まで休暇(これも投票で決めた)。再開後さらに六週間の討議を経て、9月8日に草案が出来上がる。9月17日の会議には42人の代表たちが出席しました。手直しを加えて羊皮紙に清書された公式文書に署名したのは39名、あとの3名はしなかった。驚いたことに、書名拒否組の中には、「バージニア・プラン」の提唱者エドマンド・ランドルフもいた(おいおい!)。図書館の本を返さなかったうちの一人ルーサー・マーチンは、すでに邦に帰ってしまっていた(おいおい!)。
憲法成立には、少なくとも九つの邦の批准が必要でした。経過は以下のとおりです。
1787年
1788年
ニューヨークは強く反対していたが、 「…、結局、七月二十六日、三十対二十七というきわどい僅差で、批准となった。こうして、一七八八年夏にアメリカ合衆国憲法は成立、一七八九年二月に大統領選挙が実施され、ジョージ・ワシントンが初代大統領に就任した。批准を拒んでいたノースカロライナは、このような事態となって、同年十一月に批准した。憲法制定連邦会議に代表派遣を拒否したロードアイランドに対しては、第一回連邦議会が一七九〇年春、批准しなければ合衆国はロードアイランドとの関係を全面的に断交すると通告、それをうけて同年五月に三十四対三十二で批准した。…」(近藤健(ICU元教授)『憲法の誕生』(323.53/Ko73)より)
なかなかドラマチックですが、遅きに失した。会議の開催地フィラデルフィアは、バージニアが批准したすぐあとの独立記念日に祝典を催す。朝8時から夕方6時までのパレードは大がかりで、見物側に人がいるのが不思議なほどだったといいます。青い鷲をかたどった山車・巨大な額に納まった憲法条文・13本の柱でアメリカを象徴させた建物などが曳かれて行き、大勢の人々が行進に加わりました。パレード後に屋外に用意された食事は17,000人分あった。
『合衆国憲法のできるまで』オビのウラ表紙側には、監修の阿川尚之慶応大学教授によるあとがきから一部が抜粋されていますが、さらに抜粋してみました。 「アメリカの国民は憲法をとても大事にします。(中略)なぜそんなに大事にするのかといえば、アメリカという国が憲法によって生まれたからです。憲法がなかったら国がバラバラになってしまいます。色々な人種やグループからできているアメリカは、憲法で一つにまとまっているのです。(後略)」
『合衆国憲法のできるまで』の原書は、全64ページの“Shh! We’re Writing the Constitution”(EH/726.6/F47)。図書館本館地階の、絵本のところにあります。 (M)
おまけ: 「星条旗」と聞いてすぐ連想するのは13の邦が13の条となって残っている国旗(Stars and Stripes)でしょうか。オリンピックでは国歌(Star-Spangled Banner)の方が印象が強いように思います(1964年にさんざん耳にしたからか)。ご紹介するCDのタイトルはずばり「アメリカ」。サックスプレイヤーのジョージ・アダムスのアルバムで、「星条旗」の他に、「アメリカ・ザ・ビューティフル」「故郷の人々」「ユー・アー・マイサンシャイン」「わが心のジョージア」などを演奏しています。 6曲目の「ボールゲームに連れてって」は「私を野球に連れてって」の別タイトルでも知られる。東京メトロ南北線の後楽園駅で発車メロディーに使用されていると聞きました。