? コラム M氏の深い世界 20180607:国際基督教大学図書館 ヘッダーをスキップ

五七五フーテンによし河馬によし 2018-06-07

『あなたはどこにいるのか 関田寛雄講話集』(198.34/Se41)によれば、関田氏は青山学院大学大学院修了、マコーミック神学校を経て、アンドーヴァー・ニュートン神学校卒業後、青山学院大学文学部教授。現在 日本基督教団神奈川教区巡回教師、青山学院大学名誉教授。『「断片」の神学 実践神学の諸問題』(197/Se41d)その他の著作があります。
ある教会の牧師も21年勤めた。退職するとき、記念に九谷焼を差し上げたいとの申し出に、それよりも「男はつらいよ」のビデオ全巻をください、今ならグッズが付いていると答えて希望の品を手にした。(森英介『風天 渥美清のうた』(文春文庫)より)

関田氏と同じ1928年生まれの俳優渥美清がイコール車寅次郎であることは、「男はつらいよ」シリーズを観たことのない私でも知っていますが、彼にはもう一つの呼び名があった。それは俳号〈風天〉です。『風天 渥美清のうた』には風天全俳句として223句が収録されています。
一番多いのは「話の特集句会」での139句。この句会は、雑誌『話の特集』編集長だった矢崎泰久が、執筆者を中心に始めたもので、言い出しっぺは永六輔〈六丁目〉だったそうです。(以下、人名〈俳号〉(読み))
「結構出入りがあって延べ人数は五、六十人」という会員のうち、当初からのメンバーでほとんど参加しているのは私と和田誠〈独鈷〉(どっこ)ぐらいと語る矢崎には『人生は喜劇だ 知られざる作家の素顔』(飛鳥新社)という著書があります。オビの「永さんのことも全部、書いたよ」「うん。ボク読まない」が内容をよく表している。前口上(=まえがき)はこうです。
「私は友人たちを核にして、奇妙奇天烈な著名人たちを俎上にあげて、その本性をとことん暴くことによって、『人生は喜劇だ』を完結させたい。(中略)すべて本当のことを書く。(中略)…今回はタブーなしだ」

句会のルールは「各人、兼題(宿題)一句と席題(当日の題)二句を出し合い、互選で天(七点)、地(五点)、人(三点)を各一句、客(一点)を五句の計八句選ぶ」というものでした。総合点でその日の番付が決まる訳です。
句会に出ることにとりわけ執着していた指揮者の岩城宏之〈蕪李〉(ぶり)は、ガンで入院中に病院を抜け出て参加するようになったが、初参加から三回続けてビリ。四回目には歌人の俵万智〈沙羅〉(さら)を連れてきて加入させ、隣に座らせて自分の句を見せて添削してもらおうとして、幹事から叱られた。また、小沢昭一〈変哲〉(へんてつ)が近くにいるときには、誰かが「オザワさん」と声をかけるたびに気が動転した。「瞬時に小澤征爾を思い出すのだった」と、矢崎は書いている。
ついでに記しておくと、やはり指揮者の山本直純は〈笑髭〉(しょうひ)。他には、吉永小百合〈鬼百合〉(きゆうり)なども会員です。

渥美の初参加は1973年3月のこと。四句詠んだうちの一つは「さくら幸せにナッテオクレヨ寅次郎」でした。
 好きだからつよくぶつけた雪合戦
 たけのこの向う墓あり藪しずか
などは評価が高い。個人的には、
 朝寝新聞四角いまま待っている
が気に入っているが、
 遠くでラジオの相撲西日赤く
 いま暗殺されて鍋だけくつくつ
と、十七音だけど五・七・五ではない、いわゆる句またがりの作品にも興味を引かれます。

五・七・五や季語に囚われない自由律俳句というのがあります。種田山頭火(たねだ・さんとうか)と並び称される自由律俳人の尾崎放哉(おざき・ほうさい)を『風天 渥美清のうた』から引用紹介すると、
「尾崎放哉(一八八五~一九二六)は、鳥取県出身。一高、東大を出て保険会社の幹部まで務めながら、酒におぼれ、家族と別れ、社会から見捨てられ、西日本各地の寺守をしながら放浪。最後は肺結核で苦しみながら、瀬戸内海の小豆島で寂しく死んだ。」

代表句 咳をしても一人 を池内紀は『尾崎放哉句集』(b/911.36/Oz96o)で、「とりわけ知られた放哉秀句は自由律俳句であるとともに、死と隣合った男の日常そのものだった」と評しています。私なぞは、この句に川柳の 屁をひっておかしくもない一人者 を重ねてしまうんですが、それじゃダメじゃん!
放哉をモデルにした吉村昭の小説『海も暮れきる』(講談社)を読んだ渥美は、放哉を演じたいと言い出す。彼もまた、若い時に結核を患い右肺を全摘している。「話の特集句会」で詠んだ 冬の蚊もふと愛(いと)おしく長く病み は、いまだ我が身に不安を抱える者の心象であろう。

「アエラ句会」は、雑誌『アエラ』(P/051/A1)が俳句特集を組んだとき、担当した記者が呼びかけたのをキッカケに、1990年に発足した。この記者は〈亜江良〉なる俳号を奉られ主宰者にされたそうです。渥美は1991年に加入し、45句を残しました。『アエラ』1996年8月19-26日号の特集記事で全作品を読むことができます。私が好きなのは、
 あと少しなのに本閉じる花冷え
 乱歩讀む窓のガラスに蝸牛
どっちも読書です。幾つか大きな文字で扱われている句があって、例えば、
 花びらの出て又入るや鯉の口
 団扇にてかるく袖打つ仲となり
など。そして、1994年6月6日の、
 お遍路が一列に行く虹の中
は『カラー版新日本大歳時記』(講談社)と『きょうの一句 名句・秀句365日』(新潮社)に掲載されたそうです。これが「アエラ句会」における渥美の最後の句となった。

関田氏は、ノアの方舟の話で洪水のあと「神が虹を与えた」ことを引き合いに出し、「虹」は「約束に生きる人生」であり、「どんな人生でも望なきにあらず」の象徴ですと述べて、この句を「私への最高の贈り物」だとコメントしている。
渥美は、元付き人の証言によれば、亡くなる直前にクリスチャンの洗礼を受けています。(小林信彦『おかしな男 渥美清』(新潮文庫)より)

「男はつらいよ」シリーズ49作目は、「寅次郎花へんろ」のタイトルで準備が進んでいた。渥美が没したため、ゲスト出演するはずだった西田敏行と田中裕子をメインに配し、寅さんファミリーをそのまま起用した追悼映画が制作されます。題名は「虹をつかむ男」でした。
(M)

おまけ: 「虹」について、『季語集』(080.1/Iw4/1006)の夏・天文の部に「虹はふっと立ってふっと消える。そのはかない美が、人を一瞬、現実とは別の世界へ誘うようだ」と書いてあります。著者の坪内稔典(つぼうち・としのり)は佛教大学教授、京都教育大学名誉教授。俳人でもあり、俳号は〈稔典〉(ねんてん)です。代表作は、
 たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ
 多分だが磯巾着は義理堅い
 晩夏晩年角川文庫蠅叩き
 三月の甘納豆のうふふふふ
角川文庫の句は、はえたたき握った馬鹿のひとりごと〈風天〉を連想させる。甘納豆の句は、
 四月には死んだまねする甘納豆
 五月来て困ってしまう甘納豆
など、一月から十二月まで揃っています。
また、カバを偏愛していて、『季語集』春・動物の部「春の河馬」には自らの 河馬へ行くその道々の風車 を採用していますが、
 文旦とカバは親戚ねんてんも
を紹介している『坪内稔典百句』(創風社出版)のタイトルページ裏には、彼が巨大なカバの隣に立っている写真が使用してあります。カバの左耳に右手を置いて寄り添って立つ坪内は、実に嬉しそうです。

還暦を迎えた2004年、坪内はカバに会う旅を思い立ちます。日本中のカバを訪れようというものです。全国29施設を巡り57頭に面会(?)した彼は、『カバに会う 日本全国河馬めぐり』(岩波書店)を上梓する。カバに対する並々ならぬ思いが伝わってくる本です。少なくとも一時間はカバの前にいようと決めて臨んだ旅でしたが、ある動物園で三十分ほどカバの前を行ったり来たりしていたら、近くの売店の店員に、「あのう、お孫さんとはぐれましたか。放送してもらいましょうか」と声をかけられたことも。

『カバに会う』のまえがきに、カバを詠んだ句がびっしり詰まっている『河馬の馬鹿 のんせんす句集』(文芸社)という本のことが書いてあります。タイトルどおりノンセンスだと坪内が言うとおり、こんなのも載っていた。
 三月のうふふふふふの河馬の馬鹿
 四月には産んだまねする河馬の馬鹿
 五月来て曇ってしまう河馬の馬鹿
 稔典も河馬の馬鹿かよはよ寝ろよ
作者は左党放犀(さとう・ほうさい)。左党といいホウサイといい、尾崎放哉のモジリだと直ぐ分かります。

2010年8月24日の読売新聞夕刊に、「京王新宿駅 電車に接触死 作家・佐藤春夫の長男」という記事が出ている。亡くなったのは、星槎大学学長で慶応大学名誉教授、日本行動分析学会や国際行動分析学会の会長も歴任した佐藤方哉さん。名前はマサヤですが、ホウサイとも読める。もうお分かりだと思いますが、この人が左党放犀でした。

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