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ずいぶん前、あるドキュメンタリー番組を途中から見始めた私はエンディングで、インタビューに応じていた父親が二階から息子を背負って降りてくる場面に、ぞっとして全身が粟立ったことを、今も忘れていない。息子はとうに亡くなっていると思い込んでいたのだ。父親の名は渡辺季彦、息子は茂夫といった。 放映があった1998年、CD「神童〈幻のヴァイオリニスト〉」が発売される。ジャケット写真は、その二年前に出た山本茂による伝記『神童』(762.1/W46Xy)のそれと同じ日に撮ったものらしい。ヴァイオリンをやや上げ気味に弓を構える坊ちゃん刈りの半ズボン姿の茂夫である。(図書館の本からはジャケットは取り払われています)
渡辺茂夫は昭和16年6月26日生。幼い頃より、東宝交響楽団員だった季彦と美枝子(伝記では美枝)の元で育ち、5歳のとき、両親の離婚により渡辺家の籍に入る。実母・満枝は美枝子の妹で、季彦に師事していました。レッスンに専念するため退団した季彦の跡を襲って東宝交響楽団に入団するもほどなく辞めて、駐留アメリカ兵と米国のシアトルに移り住んだ。 母の美枝子は独身時代、ピアノの個人レッスンを受けていました。先生の名前は山本直忠といいます。この名前、あれっと思いませんか。そう、指揮者山本直純のお父さんです。直純が構成・司会・編曲・演奏を務めたテレビ番組「オーケストラがやって来た」は、彼のキャラクターと才能とが十二分に発揮されて大人気を博しました。豪華ゲスト陣も魅力の一つだった。のち4枚組DVDが発売されたが、世界的ヴァイオリニスト、イツァーク・パールマンも出たことがあり、柴田克彦『山本直純と小澤征爾』(762.1/Y31s)には、パールマンが「ラグタイムを弾き、小澤と直純がピアノの連弾で伴奏するシーンがある」、また「小澤とパールマンがテーマ曲に合わせて卓球をした」と記されています。
昭和23年12月10日、茂夫は7歳で第一回リサイタルを開き、メンデルスゾーンの協奏曲ホ短調ほかを弾く。昭和29年1月14日には13歳で第七回リサイタル。第三回から第七回までの伴奏ピアニストは田中園子でした。
昭和27年11歳のとき「想感」という作文を書いた。神の声、心の悪魔など一種のアフォリズムのようなもので、人生の項はこう綴られている。 「人生は 疾風のように現れ 消えていく」(伝記『神童』より)
昭和28年7月17日には名古屋交響楽団と共演します。ヴァイオリン・パートのメンバーに名古屋大学医学部生の若井一朗がいた。若井は戦後いち早く楽器や楽譜が揃っていた南山大学に行って練習していましたが、そこへ国立音大から出張レッスンに来ていたのが山本直忠教授です。茂夫の母となった美枝子のかつての先生ですね。さて、12歳の茂夫の演奏を聴いた若井の証言。 「彼はヴァイオリンを持ったとたんに神になったんです。……小さな子供が鍛えられて技術を覚えたというのではないんです。そんな天才なら掃いて捨てるほどいる。違うんです。……彼はもはや人間ではない。天から舞い降りた神でした」(伝記『神童』より)
昭和29年5月22日、来日中のヤッシャ・ハイフェッツによる私的なオーディションを受ける。既に名声の確立した名ヴァイオリニストで、ピアノのルービンシュタイン、チェロのピアティゴルスキーという、いずれ劣らぬ巨匠たちと〈百万ドル・トリオthe Million Dollar Trio〉を組んでいたことがある。(村上春樹『海辺のカフカ』(913.6/Mu431u)の第34章に、チェロがメンバー交代したこのトリオが出てきます) ある時、プログラムには自分の名前が一番先にくるべきだと主張して議論になった。ハイフェッツは「順番は決まっている。ハイフェッツ、神……あとは誰でもいい」と云った、と伝記『神童』には書かれています。 ルービンシュタインは、自伝"My many years"(762.359/R813X)によれば、I began to see red. "Jascha," I shouted, "if God played the violin, it would still be printed Rubinstein, God, and Piatigorsky."と、文字どおり色をなして反論した。 「オーケストラがやって来た」に出演したことがある名ヴァイオリニスト、イツァーク・パールマンは2001年にThe Guardian紙で、"Later I realized that everything in the history of violin playing could be divided into BH and AH: Before Heifetz and After Heifetz"と述べています。ヴァイオリン演奏の紀元前と紀元後ですね。とにかく、卓越した存在でした。
昭和29年6月に、ハイフェッツ夫妻連名による電報が届く。ジュリアード音楽院への推薦入学が決定したという文面です。「……私の心が明確に記憶するゆえに少し不正だが申し訳ない……」とも書いてあるが、"sorry about injustice"とは、ジュリアードには無試験での入学制度はなかったためらしい。6月12日付朝日新聞に、学生服姿の茂夫(4月に暁星中学に入学した)が笑顔で両親に挟まれている写真があります。
後年、8歳でジュリアードに入学した少女がいた。18歳で卒業しますが23歳のとき再入学する。ジュディス・コーガン『ジュリアードの青春』(933/Ko255nJ 訳者はICU卒)は、そんな彼女がジュリアードの内実を著した興味津々のノンフィクションです。 「ジュリアードは世界でも一番に有名な音楽学校である。ニューヨークの中心地にあるその建物には、選り抜きの才能ばかりが集まる。ここで学んだ人々の名簿には、たじろぐほどの名前が並んでいる。イツァーク・パールマン、ピンカス・ズッカーマン、レオンタイン・プライス、……」 という序に始まり、第二章 オーディション、第五章 教師、第六章 コンクール、と進んで、第十章は卒業。この最終章にある、けわしい丘を上ってしまった羊の運命を予言した一節はそのまま、伝記『神童』のエピグラフに使われている。
ジュリアードから「ヤッシャ・ハイフェッツ氏の熱心な推薦により本校は渡辺茂夫を無試験で本校への入学を許可する」との通知が届いたのは昭和30年3月24日のことでした。ハイフェッツはまた、ジュリアード入学前のひと夏をサンタバーバラにある音楽院the Music Academy of the Westのサマースクールに参加できるよう手配してもいる。茂夫はドイツまたはオーストリアへ行かせたいと内心思っていた季彦だったが、流れは決まってしまった。
昭和29年9月25日には、イギリスの誇る大指揮者サー・マルコム・サージェントが来日記者会見を開いた。そのあと、共演者が13歳の少年と知って、そんな子供の売り出しに利用されることはごめんだと拒否反応を示します。駐日英国大使館からも抗議があったそうですが、無理からぬことでしょう。 10月1日午前、リハーサルが始まった。サージェントはノーチェックで終わりまで通して「スプレンディッド!」と茂夫の手を握ったという。当日は妙に暑く、さらに照明器具の熱が加わって、ヴァイオリンの弦がすぐ弛んでしまうほどだったが、茂夫は左手で巧みにポジションを変えて調整しながら本番を全うした。客席にいた田中園子は言う。 「あれは名人芸でした。……チャイコフスキーは変化の多い忙しい曲なのに見事に弾きこなしてしまった。しかも名演でした」(伝記『神童』より) サージェントは離日にあたり、ブロマイドに「あなたとあなたの素晴らしい演奏に対して満腔の喝采を送ります」と書き、excellent performanceのところにアンダーラインを引いて茂夫に贈ったそうです。
ジュリアードから入学許可の通知がきた後も、茂夫はリサイタルやオーケストラとの共演に忙しい。昭和30年6月22日にはNHK交響楽団とチャイコフスキーの協奏曲を収録した。7月5日、茂夫は日航DC6型機上の人となる(予定より3日遅れ)。翌6日、N響と共演した録音がNHK第一放送で流れた。それは茂夫の、日本で最後の演奏となった。
サンフランシスコから国内便でサンタバーバラへ。同地の音楽院the Music Academy of the Westは夏になると、世界中から著名な音楽家と優秀な生徒とを集めてサマースクールを開催していました。 「そういう中にあって渡辺茂夫は異色の存在だった。なにしろ若すぎる(注:このとき14歳)うえにまだ音楽学校の学生ですらない。しかし、彼はオーディションを楽々と突破し、スカラシップも勝ち取っている」(伝記『神童』より) 二ヵ月にわたるレッスンの成果は8月29日のファイナルコンサートで披露されることになっていた。チェロ、ピアノ、ヴァイオリンの最優秀受講生が、この順に協奏曲を演奏するのです。ヴァイオリンは茂夫でした。ベートーベンの協奏曲を弾いた茂夫は、翌30日のサンタバーバラ・ニュース・プレス紙に "Debut here of young violinist thrills crowd"と報じられます。
9月10日、ロサンゼルス空港から夜行便でニューヨークに発つ(出発の準備中、ヴァイオリンの弓が三つに折れた)。12日朝、ニューヨークのラガーディア空港着。身元引き受け先はニューヨークにあるジャパン・ソサエティだった。留学生の世話をするStudent Directorはベアテ・シロタ・ゴードン。ベアテは昭和20年暮れ、GHQ民生局で新日本国憲法の草案作成にかかわり、女性の地位向上に尽力しました。「日本国憲法に男女平等を書いた女性の自伝」という副題の『1945年のクリスマス』(289.346/G67)は、その詳細な記録です。父はピアニストのレオ・シロタで、茂夫のリサイタルの伴奏を務めた田中園子は弟子にあたる。
日系二世のスガワラ夫人宅をステイ先に、ジュリアードでのレッスンが始まった。教授はイヴァン・ガラミアン。時期は違うが、イツァーク・パールマンも師事したことがある当時最高の教育者の一人である。厳格な指導で知られ、生徒たちは「ザ・ボス」、「恐怖のイヴァン」などと呼んでいたが、茂夫は「僕はそうは思いません」とアドバイスに従わないこともあったという。10月下旬の手紙の一節。 「……ぼくが今までやってきた奏法とは少し違うので、それをなおすのに苦しんでいる。……」 昭和29年に留学先のカーチス音楽院から一時帰国して茂夫に会ったときの、ヴァイオリニスト江藤俊哉の言葉が思い出される。 「……ガラミアンさんはカーチスでも教えていたので知っているが、がっちりと枠をはめる人です。……茂夫くんのためにはカーチスでじっくり育てた方がいいと思った……」(伝記『神童』より) 昭和30年12月、ガラミアンは茂夫を自宅に引き取った。
昭和31年、茂夫は日本や日本語を嫌い、親元への手紙も途絶えがちになった。夏、ガラミアンがニューヨークを北に遠く離れたメドウモントの地で、オーディションを通った者だけを対象に主催していたサマースクールに、茂夫も参加する。著名な音楽家たちが訪れると、ガラミアンは自らの指導の成果を見せつけようと、優秀な生徒を指名して内輪の演奏会を行なった。茂夫も選ばれてヴィエニャフスキの協奏曲とブラームスのソナタを弾き、指揮者ウォーレンスタインから「めったにない立派な演奏。必ず世界一の演奏家になるであろう」と激賞されています。
サマースクールの締めくくりは、ガラミアンが数人の生徒を選んで演奏させるミュージック・フェスティバルである。茂夫は弦楽四重奏の第一ヴァイオリンに指名されて、モーツァルトの「不協和音」を弾くことになった(何とも意味深な選曲)。ヴィオラは、ジュリアードで茂夫に音楽理論の個人レッスンを授けたナターシャ・グッドコフが担当した。毎日練習に明け暮れるメンバーをよそに、茂夫はぶっつけ本番で参加して三人をリードし、名演を聴かせたそうです。このときの写真が残っていますが、左端にいる茂夫は両足の膝から先と右手首だけしか写っていない。茂夫をHe was our century's Mozart. He was incredible musician, violinistと評するナターシャは、茂夫に嫉妬した撮影者が意図的にフレームから外したのだとインタビューに答えている。
「9月の新学期、教授会満場一致で史上最年少の最高奨学生に選ばれる。そのうえ、「最高で額半額」の規定を変えて、全額支給も決まる」(CD解説より)
手紙が途絶えがちなのを心配した季彦は、茂夫をいったん帰国させたいとジャパン・ソサエティに訴えます。が、職員が日航のチケットを持ってガラミアン邸を訪れた翌日、茂夫は一人で下宿すると言い残してホテルに移ってしまい、秋にはベアテの所に身を寄せることになった。ジャパン・ソサエティやガラミアンが当時日本に宛てた手紙によれば、季彦は茂夫を昭和32年6月には帰国させたいと願っていました。 昭和31年も押し詰まって、茂夫の演奏を収めたテープが届きます。これを聴いた季彦は、総体に暗い、良くないとガッカリしたと述べて、こう続けた。 「生活の不幸が出ているんです。茂夫は幸福ではないなと思いました。茂夫はアメリカで何も教わることがなく、何も加えられていなかった」(伝記『神童』より)
昭和32年2月、CD解説によれば、茂夫は精神的不安から日本人精神科医にかかり、4月には研究助手として働きつつ、治療をすることになりました。ジャパン・ソサエティが経緯を伝えた「精神科の病院に入れた」という手紙に、季彦は一日も早く送り帰して欲しいと返信し、美枝子は電話で「とにかく、今すぐ帰して下さい!」と訴えた。 両親の懇願が叶っていればすでに故国にいたはずの茂夫は7月、サンタバーバラのかつてのステイ先に帰り、レッスンを再開します。ハイフェッツにも再会する。演奏を聴いたハイフェッツは、 「……長いブランクがあったにもかかわらず明らかに成長していることを認め、褒めたたえた。茂夫に幸せそうな表情が戻った」(伝記『神童』より)
「9月、ニューヨークに戻り、ジュリアードに再入学。学校のそばの狭くて汚いアパートメントに住む。風呂もない。月120ドル必要なのにアルバイトで75ドル、協会(注:ジャパン・ソサエティ)から25ドル、合計100ドルしか収入がなかった」(CD解説より) 伝記『神童』によれば、茂夫が入った部屋は家賃56ドル、三畳ほどで細長く寝台と机しかない。また、生活費は協会から支給され、他に25ドルの小遣いもあったというが、アパートでは食事は出ない。ジュリアードが、特に貧しい生徒には申し出に応じて学内レストランの昼食無料券を提供していたので、一食は確保できていたようです。 ある日、ヴァイオリンのA弦が切れる。普通なら数本の予備を持っているものだが、茂夫は買えずにいて、ガラミアンのところへ貰いに行った。驚いたガラミアンは、ナショナル・オーケストラ・アソシエーションでのアルバイトを紹介します。音楽学生の集団で、コンサートもやれば他のオーケストラの欠員補充にも応じる、一流演奏家への登竜門と言ってよいでしょう。報酬は高いとはいえなかった。茂夫は気が進まないまま話を決めます。もう16歳になっている。
茂夫の日記にジュディという名が頻繁に出てくるようになった。この夏サンタバーバラで知り合ったらしい。アソシエーションの一員でジュリアードの生徒でもある。想いは募っていき、10月下旬、茂夫はジュディに宛てた手紙をアソシエーションのメンバーに託しますが、返事はついになかった。このメンバーが、ジュディに渡すのを失念していたのだ。
「11月2日、服毒による自殺未遂(報道ではこのように発表されたが、真相は不明)」(CD解説より) 伝記によれば経緯は以下のとおり。 11月1日、茂夫はジャパン・ソサエティに現れて帰国を申し出る。翌日もまた。3日は終日、部屋に閉じこもって考え込んでいる様子だった。ニューヨーク市警への第一報は午後11時45分。 「男性、十六歳、黄色人種、シゲオ・ワタナベはタイプ不明の睡眠薬を飲んで明らかに自殺を企てたものである。……」 5日、渡辺家に国際電報が届く。 「……危篤状態を脱せず。担当医の言によれば、回復の見込みはほとんどなく、万一生命を取りとめ得ることがあるとしても、脳を侵されているため精神異常の状態を脱しえないだろうとのことである。……」 非常な高熱だが、自律神経失調のため汗が出ない。皮膚は真っ赤に乾ききっている。 6日、ニューヨーク州オールバニー医科大学に留学していた若井一朗のもとに、名古屋の母からローマ字の電報が届く。チカラニナツテアゲテクダサイと結んであった。 病院を訪れた若井は、頭までバスタブで氷浸けになっている茂夫を見た。高熱で大脳皮質が損傷している。ガラミアンがやって来て、「シゲは私の最も大切な学生(ベスト・スチューデント)です。それなのに私は何もできなかった」と言ったが、憤懣やるかたない若井は、その結果が今ここにあると冷淡に答えた。
一ヶ月以上経った昭和33年1月12日、茂夫のからだはノースウェスト航空機にあった(日本航空には三回要請し、そのたび拒否されたという)。特等席の前部にある寝台に拘束帯で固定され、栄養剤チューブや留置カテーテルが挿入された姿だ。ときどき大声を上げ手足をバタつかせる。ただ一人見送りに来ていたベアテは、日本まで付き添う若井医師に涙ながらにこう叫び、機内を粛然とさせた。 「もし周りの乗客たちが厭な顔をしたら、こう言ってください。この少年は伝染病の患者ではありません。不幸にして脳が壊れてしまった可哀そうな子供です。あなたたちが厭なら、自分がこの席を去りなさい! そう言ってください」(伝記『神童』より)
シアトルで国際線に乗り換える。実母・満枝が在住しているはずだが、お互い知る由もない。 「1月16日、ノースウェスト機で帰国」(CD解説より)
アメリカにおいて茂夫に必要なのはもはやレッスンなどではなく発表の場だった、と若井一朗は考えている。彼は言う。 「……五嶋みどりさんはもちろん素晴らしい音楽家です。しかし、彼女は地上的(アースリー)であり、渡辺茂夫は天上的(ヘブンリー)なのです。それだけの違いがあった」 ベアテの『1945年のクリスマス』に、シゲオの名前は出てこない。渡辺茂夫は疾風のように現れ、消えていった。
私の記憶は間違っていた。テレビ朝日のドキュメンタリー「驚き桃の木20世紀~悲劇の神童・渡辺茂夫~」(ネット視聴可)で確認したところ、茂夫は季彦に背負われていたのではなかった。背後から父に支えられて、自分の脚で一歩一歩、階段を踏んできたのだ。 「親しい客が訪ねると茂夫さんは嬉しそうに手を差し出し、大好きな従弟が来ると激しく笑って全身を波打たせるが、言葉を発することはできない。食事も入浴も排便もすべて父親に委ねられる。季彦氏は車椅子を使おうとせず、両足の甲に長身の茂夫さんを乗せて歩行のリハビリテーションをつづけ、その努力によって少ずつ歩けるまでになっている」(伝記『神童』より) 1998年5月の番組放映時、母美枝子はすでにいない。実母の満枝もシアトルで亡くなった。56歳だった茂夫は翌年の8月に永眠する。明治41年(1908年)生まれの季彦は100歳を超えて2012年まで生きた。
(M)
おまけ: CD「神童」は1988年制作の3枚組私家盤をソロ・アルバム編と協奏曲編の2枚組に編集したものです。ソロ・アルバム編には全14曲の他に、「渡辺茂夫アメリカからのメッセージ」と題するトラックがあり、彼の肉声を聴くことができます。1957年録音とあるから昭和32年、茂夫が15歳か16歳の時のもの。これのみ解説も何もないので、文字に起こしてみました。
「皆さん、おめでとうございます。ここからご挨拶することができて、とても嬉しいと思います。Americaに来てもう1年半になりますが、おかげさまで元気にviolinの勉強を続けています。先生がとても熱心に教えてくださいますので喜んでいます。はじめは英語やいろいろ不自由しましたけれども、この頃すっかり慣れて勉強に励むことができるようになりました。Violinのほかに学校で化学、数学、歴史なんかを勉強していますが、とても面白くて一生懸命にやっています。勉強のほかにCarnegie HallやMetropolitanで音楽の演奏をいろいろ聴いていますが、とてもこれも勉強になります。とにかくここで一生懸命勉強して日本に帰って、皆さまに喜んでいただけるようなviolinistになりたいと思います。この私の放送をお父さんとお母さんが聴いてくださったらとても嬉しいと思います。さよなら」